番司編4
「まずい」
番司の宿屋で朝食を摂ったあと、出立の準備に互いに荷物をまとめていたのだが、群青は慌てたように己の荷物をかき回し、らしくもなくうろたえていた。
「…どうした」
「まずい」
月旦の問いにも、相変わらず背を向けたまま荷物をかき回しつつ、まずいとだけ群青は答える。先ほどからまずいまずいと言うが、一体何がまずいのか。月旦が話の通じない群青へ顔をしかめていると、不意に群青は指折りで何かを数えだした。
「……まずい」
「だから、どうしたというのだ」
「非常事態だ。染め粉がない」
「染め粉…?」
首をかしげる月旦に、群青は己の伸びた髪を一束掴んでみせた。
「こいつが長くなった分、染め粉の消費が早まった。対鶴に会ったとき催促しておくんだった」
すっかり灰の髪にも慣れてしまったが、群青の髪は元は群青色をしている。何日か毎に染め直さなければ元の色が露出して、正体が知れかねない。対鶴長に水にも落ちない染め粉をもらってからもう随分時が経つ。船の上に居たころは似たような品が対鶴長の手に入る度、それらを少々拝借していたものだが、彼と別れてからはそうもいかない。染め粉を節約して、鎖草の森や翁円の岩山に居たころは群青色のまま放っておいたというのに。染める範囲が広くなった分、群青の予想以上に薬の消費は早かった。
これから向かう要郭は人口の多い巨大都市だ。人目を避けて通れる道などありはしない。その上要郭を過ぎれば間もなく弦莱がある。弦莱が近いということは彩色一族の誰かが周りの地域に目を光らせていてもおかしくはない。あと一歩のところで月旦と別れさせられたなら、自分の二年間は一体なんだったのか。
「…いっそ、頭を丸めたらどうだ。お前の頭は見てるこちらも暑苦しい」
「俺の倍は後ろ髪の長い野郎に、言われたくないね」
月旦は一瞬眉を寄せたが、言い争っても切りがないと思い直し群青へ告げる。
「薬がないならこの先どうする。願掛けなどと言っている場合か」
「願掛けなどとって、これでも一年近く、うっとうしいのに伸ばしてるんだぞ。お前が迷信を嫌ってるのは知ってるけどな、もう少し俺の努力を労ってもいいだろ」
月旦が花冠から追い出されたのは、花冠皇が「皇子は花冠を廃れさせるだろう」という占いを信じたためだ。占いや呪いなど、具体化できない第三者の力を信じることは、月旦にとって馬鹿馬鹿しい行為としか思えない。しかしそう言ってしまえば、月旦が今進んでいる道そのものも否定しかねない。
姫君の夢というものは手元に残る形はないが、月旦の記憶には残っている。それが唯一、この道が具体化できない何かではなく、確かにそこにあるものである確証だ。そう思いつつも、自分の記憶を手放しで信じてよいのかわからなくもある。姫君の夢は現実感を伴って、はっきりと月旦の記憶に刻まれているが、それ以前に見る夢はどれもこれもぼんやりしていて、起きたらすぐに忘れてしまうものだったからだ。記憶にはっきりと残っているとは言え、やはり夢は夢だ。
根本を覆す恐ろしい考えに行き着きそうになって、月旦は頭を振った。今の問題は、要は群青の髪をどうするか、だ。
「…わかった。頭を丸めるというのは極論すぎた。けれど、だからといってどうする。番司で染め粉なんて手に入るのか」
「水に弱いものならあるかもしれない…最悪、灰を被るか」
「…灰?」
「昔、弦莱を抜け出して外の世界をうろついていたときは、短時間だったし灰を被って浮浪者を装ってたんだ。ま、従兄弟には笑われたけどな」
群青は立ち上がって荷物を担ぐと、刀を腰に差しなおした。
「幸いこの辺には異国の品も流れてきているみたいだし、運よく染め粉が手に入るかもしれない」
「港へ行くのか?」
「また足止めだな…」
ため息をつき、肩を落とす群青に、月旦は案外明るい声で告げた。
「俺も少し、欲しいものがある。港へ行こう」
月旦の言う欲しいものに首をかしげる群青だったが、月旦が先立って部屋を後にしたので、群青もまた誰も居なくなった部屋を出た。




