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君臣のドグマ  作者: 回天 要人
承章
25/51

番司編2

 日が昇ったばかりだというのに、もう辺りの気温は高いと言ってよいほどだった。どこからか鶏の鳴き声が聞こえた。流れてくる熱風がうっとうしく、その上、傍らの黒き獣の体温もある。月旦の目覚めはいっそう悪かった。目を瞑ったまま、むしろ強く目を瞑りなおしさえして、草むらで寝返りを打ち熱から逃れると、硬い何かにぶつかった感覚がした。まだ完全に目覚めたくはなかったが、硬い何かが何であるのか、確認しないわけにはいかない。それは明らかにあたりの草の感覚と異なっている。夜眠る以前はそんなもの、どこにもなかったというのに。月旦はゆっくりと目を開けた。太陽光線に顔をしかめながら片手をついて上体を起こす。見ると、草むらには無造作にかごと鍬が放ってあった。鍬には泥がまとわりつき、かごの中には芋がたくさん詰まっている。農民の持ち物だろうとは予想がつくが、農民の姿が見えない。


「……グゥゥ…ッ!」


 ふいに相棒のうめき声が月旦の鼓膜を貫いた。慌てて背後を振り返ると、


「…な、にを……!」


 見知らぬ少女が、牙城に乗り上げ、白い両手で牙城の首を締め上げていた。


「何をやってる!!」

「きゃあ!」


 月旦は乱暴に少女を突き飛ばすと、解放された牙城を背に隠すように守った。牙城は体を屈めて月旦の背後から少女に牙をむいている。


「何者だ!」


 草むらにへたり込んだ少女へ、月旦は鋭く叫んだ。


「そっちこそ何者よ!その狼が山を荒らしたんでしょう!人間に懐いてるくせに、どうして山の子供たちにひどいことするのよ!」

「山を荒らす?牙城はそんなことはしない!」

「嘘よ!仔鹿にも兎にも獣の牙の痕が残ってたもの!」


 喚く少女は感極まったのかその目に涙を浮かべていた。頬を伝う一滴が少女の衣服を濡らした。よく見れば少女は長い黒髪を振り乱し、白いはずの前掛けを血で赤黒く汚していた。素肌が剥き出しの手足は同じように泥と血で汚れ、ところどころ乾いてさえいる。泥がついているところから、あの芋や鍬は彼女の持ち物かもしれないと月旦は思った。山の畑に赴いて、その道中どこかで悲惨な目にあった仔鹿や兎を目にしたのだろう。彼女の衣服が血まみれなのは傷ついた動物たちを抱き上げ、死を悲しんだか弔ったがゆえだろうか。

 月旦は背後の牙城を振り返った。まさかとは思うが、牙城の口元や爪を確認し、血の匂いや肉片が残っていないかくまなく調べた。結果は思ったとおりで、牙城にそれらの痕跡は見受けられなかった。


「こいつに獲物を捕らえた様子はない。その動物たちは別の獣に襲われたんだろう」


 少女はどこか頭の片隅で、牙城が動物たちを襲ったのではないと気付いていたのかもしれない。月旦が告げるなり、堰を切ったように泣き出した。少女は声を上げて、涙を流しながら、天を向いて泣いていた。月旦は牙城の頭を撫でながら、しばらく少女の様子を見守った。見守ることが、この場で最善の策に思えた。泣く姿を隠しもせず、ただ素直に涙を流す少女は、神々しい何かのようにも見え、悪く言えば人間らしくないと月旦は思った。おそらくこの少女は自分と変わらない年齢だろう。その年頃の娘なら、恥じらいや慎みを持ち合わせているはずだろうに。知らない男の目の前で、幼児のように泣いている。

 次第に少女はしゃくり上げるだけになった。横隔膜の痙攣は随分長い間おさまることはなく、月旦はその間も、黙って少女を見守っていた。しばらく経って、少女は無造作に自分の前掛けで顔を拭うと、泣き腫れた目で月旦を見た。


「……鋒琳ほうりんよ。すぐそこの村の、馬借の娘…」


 少女は名乗ると、両手を地面について、だるそうに立ち上がった。小柄な少女だ。目鼻立ちははっきりした方だが、小柄な印象のせいかとても幼く見える。


「…月旦だ。こいつは牙城」

「牙城…ごめんなさい…。濡れ衣を着せてしまって」


 鋒琳は屈んで牙城の頭を撫でた。牙城は牙をむくこともなく、黙って鋒琳に撫でられていた。


「……帰るわ」


 少女はそう呟くと鍬を担ぎ、芋のかごに手を伸ばした。伸ばされた腕が震えているのがわかり、月旦は自然と、芋のかごを自分の手に取っていた。少女が両腕で抱えるほど大きなかごだ。震える腕で持ち帰ればどこかでかごをぶちまけかねない。


「本当に、すぐそこなのだけど」

「お前、自分の格好を自覚しているか?血まみれに泥まみれじゃ、両親が驚くだろう。向こうに水桶がある」

「……」


 鋒琳は自分の衣服を見回してから「そうね」と呟いた。

 二人で水桶まで行き、着くなり鋒琳は手桶に水を一杯汲んだ。そこまでは特に驚きもしなかったのだが、鋒琳はどうしたことか、手桶の水を遠慮もなしに自分の体にぶちまけた。危うく背後の月旦まで濡れそうになり、月旦は芋の入ったかごを腕に抱えたまま、慌てて一歩その場から退いた。


「もっと、上手い方法があるだろう」

「上手い方法?これが一番手っ取り早いわ」


 驚く月旦に鋒琳はあっけらかんとしていた。月旦の言葉に小首をかしげて、自分の行為には何の落ち度もないといった顔だ。何度もざぶざぶと水を被る鋒琳を見て、確かにすばやく汚れは落とせたが、今度は水でずぶ濡れだと月旦は顔をしかめる。この少女には何かが欠けていやしまいか。


「ねぇ、ついでに芋の泥も落としたいのだけど、いいかしら」


 鋒琳は振り返って、月旦の持つ芋のかごからいくつか芋を取り出した。地面へ芋を転がして、桶の水で丁寧に泥を落としていく。洗った芋を土の地面に放る鋒琳を見て、月旦はまた顔をしかめた。土の上に放ったのでは、洗った側からまた泥で汚れるだろうに。しかし鋒琳は疑問を感じていなさそうだ。


「……手伝う」


 月旦はかごの中の芋を一旦すべて地面へ放ると、先ほど鋒琳が洗った芋をさりげなくすすぎ直してから元あったかごへ放った。それを見て鋒琳も洗った芋はかごの中へ放るようになった。無言で作業をする二人はどちらも無表情と言ってよい。淡々と手を動かす月旦は、時折鋒琳の顔を窺ったが、鋒琳は今や芋荒いに夢中である。泥を落とすことだけに集中しているため、服が水で濡れようが、屈んだ拍子に長い黒髪が泥で汚れようが、全くかまわない。

 芋の泥も、鍬の泥も落とし終わって、鋒琳は大きく息を吐いた。そうして次に月旦の顔を見上げると、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう」


 お礼には何も答えず、芋のかごを抱え上げた月旦は、鋒琳に言う。


「鏡は持たないのか?今度は泥で汚れたぞ」

「……カガミ」

「…鏡を知らないのか」


 鋒琳は頷いた。思えば月旦の身のまわりには、見た目に気を遣う女しかいなかった。母や姉は言わずもがな、その上花冠の町で出会う女たちは皆客商売をしていた。花冠商人は見た目に気を遣わなければ渡って行けない世界でもある。鋒琳のような娘はとても新鮮だ。


「鏡石を平らに削って磨くと、物や人が映るようになる。鏡に顔を映して見れば、泥の汚れもすぐわかる」

「顔を映すの?」


 月旦はかごを抱えたまま、当てもなく歩き出した。とりあえず家屋が見える方へ草むらを降りていく。鋒琳は小走りで月旦の後を追った。


「俺が今までに会った女は、鏡で顔を確認してばかりいた」

「確認して、どうするの?」

「さあ。他人からどう見られているか気になるのだろう」

「どうって?」

「女は大抵、美しく見られたいのだと聞いた」

「美しく……」


 鋒琳は歩みを止めた。足音が追ってこないので、月旦も立ち止まって振り返った。


「お祖父さんは私を美しいといつも言うの」

「……」

「月旦には、私は美しく見えないのかしら」


 鋒琳が美しいか、美しくないかと問われれば、美しい、とは答える。しかし、顔の造作の話と汚れの話では、話の軸がずれている気がする。


「………」


 軸を修正するのは面倒だ。月旦は深いため息を吐くと、全く別の話題を持ち出した。


「お前の家はどこだ」


 すると鋒琳は美しいか否かの話を、綺麗さっぱり忘れた顔をして「あっちよ」と指をさした。

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