花冠編1
群青が弦莱を去って早一年。才華州花冠では気性の荒い少年が、とある夢に悩まされていた。少年の名は月旦、傍らに黒い狼を引き連れて旅をしている。狼の名は牙城と言った。
月旦はこれでも一応、花冠の皇子である。気性は荒く、馴れ合いを好まず、いつも牙城と二人で野山を駆けているような少年だった。性格が反映されたのか大きな両目はつりあがり、口はいつもへの字にゆがめられている。左の耳に大きな耳飾をつけ、本来皇族は両耳にその金の輪の耳飾をつけるのだが、少年はとある理由で片耳にだけつけていた。前の髪も右にだけ長く下げ、斜に構えている態度をいっそう悪く見せていた。背には長く伸びた襟足の髪、艶やかな灰色をしている。
月旦は毎夜同じ夢を見た。女が舞を踊っている夢だ。朱色、桃色、乳白色の着物を着て、蘇芳色の扇子を持って舞っている。舞台は氷の張った湖の上であった。女の顔は柔和で艶やか、纏う気配は貴族か天子か、この世の者とは思えぬほど、神々しい。あの女は一体何者だろう、同じ夢を見るのだから、これは天帝のお告げか何かか。もしや自分にあの女を探せということだろうか。二、三度同じ夢を見続けたときはぼんやりとそう思っただけであったのに、何十回と見続けるうちにもうたくさんだ、いい加減に別の夢が見たいと思った。今日で八十三回目、見すぎて、自分はあの女の踊りを踊れるではとさえ思えた。
「行こう、牙城」
目覚め、夢見の悪さにため息を吐いて、月旦は立ち上がった。大きな杉の木が日陰を作っている、花冠のとある山奥だった。立ち上がった月旦に添うように牙城はゆっくりと腰を上げ、大きな尾で月旦の足に絡みつく。昨夜二人はこの場所で野宿をしたのである。人気の無い山道を歩いてそろそろ三ヶ月になる。そのうち野宿は半分ほどだ。
月旦は野山を駆け回るような少年であるから、野宿も大して苦にならない。牙城の毛皮に包まって寝ると、寒さなど感じなかった。皇子の身分で何ゆえ野宿をとお思いだろう。実は月旦は一族から絶縁され、帰る家を持たなかった。それというのも月旦が十二のときに占い師から告げられたのだ。「皇子は花冠を脅かす。この皇子に任せれば花冠は才華の内で最も廃れた土地なるだろう」。花冠の皇、月旦の父は占い師を信じた。跡継ぎはどうなると思われたが、幸い月旦の上には姉が居た。今は姉だけが花冠の跡継ぎとして敬われ、花冠の民に知れている。家を、一族を追い出された少年はますます性格をゆがめ、誰とも関わらない孤独な少年になった。野山を歩きまわっているのも極力人と触れ合うことを避けるためで、目的もなく山をうろついているのだった。
今日も目的もなく、ただ足を進めている。夢見の悪さを払うため、少し駆け足で山野を駆ける。すると走り出した月旦に牙城が吼えた。
「どうした、牙城」
立ち止まった月旦はぴたりと歩みを止めた相棒を見やった。視線の先には杉林が広がっている。何か獲物に目をつけたのかと思われたが、そうではない。杉の木の影から見知らない少年が顔を覗かせたのだ。
「何者だ」
月旦は元々気性も荒く、礼儀作法には疎かった。そして、長年皇子としてもてはやされてきたため、しばしば上からものを言いがちになるのだった。今度も見知らぬ少年に睨みをきかせ、命令するかのごとく尋ねた。
「ごめん、ごめん、誰も居ないと思ったんだ。別にあんたらの邪魔をする気はないよ。俺、ちょっと迷ってるだけだから」
「…失せろ。この山は素人が入って容易に出られるところじゃない。とにかく下山しろ」
「あ、やっぱ?実は迷い始めてそろそろ一ヶ月なんだよねぇ」
「行くぞ、牙城」
月旦は笑いながら話しかけてくる少年を無視して、先を急ごうとした。急いでもどこに行くということは無かったが、早く得体の知れない少年から離れたかった。人嫌いの月旦はこういう馴れ馴れしい人間が特に嫌いだった。能天気が移りそうで、わけもなく腹が立つ。
「待てよ、皇子様」
「…!」
駆け出そうとした月旦は、再び歩を止め、少年を振り返った。牙城は月旦の足元へ侍りながら牙をむき出して威嚇している。牙城の低いうなり声だけが、林の中に響き渡った。変わらずにこやかに話しかけてくる少年は、少しだけ顔つきが変わった。今までは月旦の正体など知らぬといった態度であったのに、今は月旦が何者であるのか承知しているように思えた。勝ち誇った笑み、余裕の笑みを見せ、月旦を見つめている。先ほど少年の言った、迷って居るというのももしや嘘かも知れない。能天気は芝居か。
「貴様、何者だ」
「俺は青彩っての。花冠の月旦皇子だろ、あんた」
「名などどうでもいい。目的を言え」
「あんたを探してたんだ。山に居るって里の人に教えてもらって、かれこれ一ヶ月、あんたの行方を追ってた」
「だから、目的はなんだ。今更皇族の手先が俺を殺しに来たのか」
「違うよ。俺、花冠の人間じゃない」
的を得ない青彩の言葉に月旦はいらついた。何ゆえ自分を追っているのか早く知りたいというのに。
「あんたにさ、来てもらいたいところがあるんだよ」
言って、青彩は獣のように舌なめずりする。月旦はそれに不本意ながら肌が粟立つのを感じた。自分と大して歳も違わないようなただの少年を恐れているとは思いたくない。けれど自分を見据える青彩の目から目線をそらせなくなった。
「お前は、何者だ」
再度問うが、青彩はふっと微笑むだけだった。




