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君臣のドグマ  作者: 回天 要人
始章
15/51

俗氏内海航海編

 航海を始めて二月と数日。月旦の耳の傷は癒え、左の耳朶のほとんどを失うことにはなったが、痛むことは無くなった。こうして耳朶がなくなってしまえば、以前のように耳輪を付けようとも思わなくなる。必然的に金の輪のことは月旦の頭の隅に追いやられ、花冠のことも最早思い出になりつつあった。


「牙城、どいてくれ」


 珍しく、相棒を邪魔と言う月旦の両手には、大きな鍋が抱えられていた。中身は魚を数匹丸ごと煮込んだスープで、船の料理長が豪快かつ手際よく作ったものである。見た目の割りに味はよいので、船員には好評だ。しかし鍋は相当の重量があるようで、抱えている月旦の腕は小刻みに震えていた。相棒を邪魔にしたのも、月旦が鍋を運ぼうとするその通路の真ん中に、牙城が寝転んでいたためで、重い鍋を早く下ろしたい月旦は足で牙城を通路の端へ追いやった。邪魔者扱いされた相棒は、大きな背を丸めて小さく鳴いた。


「皇子さまは何もしなくてもいいんですけどね…」


 料理長の伊杏いきょうは、やっとの思いで鍋を食卓へ下ろした月旦を見た。伊杏を振り返った月旦は不服そうに口を尖らせる。


「何もしないでいるのは申し訳ない…」


 そう、せっせと働く群青が横に居るだけに、月旦は申し訳なくてじっとしていられない。この船は涙由に会わせてくれる機会さえくれるというのに。

 花冠に居た頃は、なにもせずとも食事は出てきた。一人になってからはそうもいかないが、月旦はどちらかといえば雑用とは無縁の人間だ。申し訳ないと思う心理が芽生えたことは喜ばしい。けれど一方で、皇子に雑用をさせている事実が、伊杏の心をざわつかせる。こちらの方こそ、皇子に仕事をさせて申し訳ないと思ってしまう。


「皇子は客人なんですから、座って待っててくださいよ」


 伊杏は包丁を握りなおし、魚の頭を一太刀で切り落とした。一見細身で頼りなく見える伊杏だが、船乗りらしく日に焼けた肌を持ち、着物の下に思いの他強靭な筋肉を隠している。着やせも手伝っているだけで、見た目ほど軟ではない。鰤や鰹など、大きな魚の頭も一太刀で切り落とす。その上舌は常人の上を行っているようで、味付けで文句を言われためしが無い。料理には絶対の自信を持っていた。歳はもうすぐ二十三で、若いうちから料理長へ昇格した成功者だ。

 だから皇子云々という身分がらみのことも気になるのだが、見た目どおり軟な月旦に、自分が作った料理を運ばせるのが不安でたまらない。せっかく作ったものを震える腕で運ばれると、どうにもそちらが気になってしまう。未だ月旦が鍋をうっかりぶちまけるような失態はないにしても、いつその黒い獣に足をとられ、鍋ごと通路へ倒れこむかと、伊杏はいつも不安である。


「…青彩は船員扱いだというのに、なぜ俺は客人なんだ」

「皇子は対鶴長の友人の大事なお客です。青彩はそのおまけ」

「…おまけ……」


 言い切られると、群青が憐れに思えてくる。


「それに、対鶴長は青彩に剣の指南をしているじゃないですか。受講料も無しに剣を学んでいるんだから、仕事を手伝うのは当たり前です」

「………」


 群青が船の上でやりたいというのは剣術のことだと月旦は合点がいった。群青は仕事に忙しく動き回った後でさえ、対鶴長に剣術の教えを乞うている。剣術を学んでいるときはやけに真剣で、迂闊に声もかけられないほどだ。常は飄々として愛想がいいので、そんな姿を見ると緊張すら感じてしまう。時に対鶴長の方が音を上げて、今日は仕舞いにしようと言い出すほどに、群青は剣には貪欲だった。今までが丸腰であったゆえに、武器を使って戦うことは群青にとって新鮮で、面白くてたまらないのだ。


「しかも大食らい…青彩のおかげで食材のやりくりが大変だ。ここは船の上で、陸と違って、無くなったから買ってくるってわけにゃいかないのに」


 伊杏の言葉はもはや独白、愚痴であった。花冠の飯屋でも驚いたが、群青は途方も無い大食漢だ。他の倍どころか数十倍も食べる。それでも気を遣っているのか、月旦が花冠の飯屋で見たときの料理の量の半分ほどには抑えられていた。それにしても多い。

 ぶつぶつと文句を言いながら、伊杏が捌いていた魚は刺身になった。伊杏は鮮やかに盛り付け終わると、飯にしましょうと言って、船員を呼びに廊下へ出て行った。月旦は牙城の頭を撫でながら、食卓の上の料理を見てため息を吐いた。この大量の料理ですら、船員全員が十分に食べるには少ない。その原因がわかりきっているだけに、ため息を吐かずには居られなかった。

 


 *



 毎夕食後、今後の航海について、対鶴長から説明がある。波の状態や他の船とのやり取り、物価の上下など、関わる一切の情報はすべてこのときに聞かされることになっている。生活費に関しては、勘定係が取り仕切り、食費にいくら、日用品にいくらと事細かに説明がなされる。勘定係が前へ出て話しているということはもうすぐどこか港に着くという証で、金の采配は皆の気になるところであり、ついては誰が何を買い出しに出るのかは、ちょっとした争いも起きるほどである。食糧を買い出す係りに任命されれば、値切りの腕が物を言う。予定より安く手に入れ、資金の余りを己の懐に、と考えるのは皆同じだ。


「もうすぐ、輝麗の港です。ここを過ぎると番司までまっすぐ向かう予定です。保存の利く食料、必要な物品等を輝麗で入手します」

「はい、理発りはつ

「何でしょう、伊杏」


 勘定係の理発はまだ14の少年である。身寄りが無く独り者であるらしいのだが、数字の強さは船内一で、数字に関わることにはすべて彼が顔を出している。勘定係も彼が一人で賄っており、それでも何も問題が起きないというのだから理発の能力には舌を巻く。対鶴長は能力さえあれば年齢など気にしない性質であり、そう言った一芸に秀でた者が船内には多く、全体的に船員の歳は若いのだった。

 理発の言葉をさえぎったのは料理長の伊杏だ。理発は丁度、練ったばかりの出納帳を読み上げようとしたところだった。


「食材の買出しは青彩に任せるべきだ」


 伊杏は淡々と述べた。買い出し係をかけて腕相撲でも飲み比べでも、争うつもりだった他の船員から不満の声がもれ聞こえた。ざわつく船員たちを対鶴長が「静かに聞け」と一喝する。すると辺りは水を打ったように静かになった。けれど視線は伊杏に注がれたままで、その目は皆怒りと不満で濁った輝きを放っている。


「なぜです?」

「あいつが一番食う。食うってことはその分たくさん食材が居るわけで、そんな大量の荷物を運べるのはあいつだけ」


 そう言って伊杏は群青を見た。当の群青は話を適当に聞いていたのが見え見えで、一段落ついたはずの食卓にのこっていた大皿の残飯を、舐めるように貪っていた。皿から顔を上げ、まだ食べ足りないとばかりに眉根を寄せていると、不穏な視線が身体に突き刺ささる。何事かと気付いて、やっと辺りを見回す始末である。慌てて居を正し、何も無かったように取り繕うが、一部始終を見ていた月旦はその背後で大きなため息を吐いた。


「……おっしゃる通り、かもしれませんね。妙な争いも彼ならきっと大丈夫でしょう。では、食糧の買出しは青彩に一任します」

「なんだ、買出しかよ」


 大した話ではないと拍子抜けしたのか、群青は再び大皿に手を伸ばした。他の船員にとっては大した話であるが、金に困らない群青にはどうでもよいことだった。

 出納帳を読み上げ出した理発の声に皆が耳を傾けている中、対鶴長は月旦の側へ寄り、耳打ちした。


「涙由とは連絡がついたか?」


 月旦は炎艇を出てしばらくして泊まった層汎そうはんの港で、涙由宛の文を出した。陸路で輝麗へ文を届けるほうが船よりも早い。次の歩慰ほいの港で涙由からの返事を受け、その予定通りに船は輝麗へ到着しそうであった。


「ああ。宛先を教えてもらって助かった」

「これで少しは涙由も仕事に身が入るとよいのだが」


 対鶴長は苦笑する。何十枚もの半紙に亘った涙由の返信に寄ると、涙由は現在名のある家の使用人として相変わらず誰かの世話係をしているらしい。主人は幼い姫だそうで、名前は明かせないと言うが、妙に大人びていて涙由の方が時に尻に敷かれているらしい。生真面目で落ち度など見受けられなかった涙由が、小さな姫に振り回されている様は想像に難い。けれど、月旦は微笑ましいと思ってしまう。涙由がそうであるのは対鶴長いわく月旦の身を案じてのことだと言うが、それが本当なら月旦は姫に申し訳ないと思う。昔の事とは言え、自分の世話係だった者が現在の仕事に不首尾であるなど少々恥ずかしく、ましてその原因が自分だなどということがあれば、姫に顔向けが出来ない。


「俺も、そう思う…」


 月旦の返事は心底の願いだった。その返事にまた苦笑した対鶴長だったが、


「しかし、こいつは底なしの胃袋だな…」


 傍らの群青へ目線を移し、何枚目かの大皿を舐め始めた少年の頭を小突いた。


「何するんだよ!」

「何するんだはこっちの台詞だ。いやらしい真似は止めろ」

「だって、足りないんだからしょうがないだろ」


 口を尖らせる群青に月旦は遠い目をした。


「港の大食い大会にでも出てこい。賞金も出るぞ」

「大食い大会…!?」

「得た金は好きにしろ。足りない分の食糧のあてにでもしたらいい。このままだと伊杏がかわいそうだからな」

「そんな大会があるのか…そいつは面白いことになりそうだな」


 舌なめずりをする群青は獣のような顔をしていた。

 程なくして到着する輝麗の町では、皆の楽しみが待っている。

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