炎艇編9
潮の香りがすると月旦は思った。未だ自分は炎艇の港町へ留まっているのだろうか、潮風に乗って、無数の人間の声が聞こえた。活気のある若者の声だ。皆船員だろうか。
ゆっくりと目を開けると、太陽光線がまともに眼球へ降り注いだ。なれない光に目をしかめ、習慣となっている牙城の背へ手を伸ばした。牙城は月旦の右脇腹辺りに寝そべっており、静かな寝息が同じく横になっていた月旦の鼓膜へ穏やかに伝わっていた。牙城の毛並みを確かめ、半身を起こしてあたりを見回すと、そこは見慣れない場所だった。船の甲板の上に敷布が敷かれ、頭上には大きな布が日陰を作るように張られている。いつのまに夜があけたのだろう。そして、ここは一体誰の船だろう。
穏やかな日の光のおかげで、焦りや恐怖は感じられない。誰の船の上に居るのか、見当もつかないが、自分に危害を加えようと企てている者の船でないことは雰囲気からしてわかった。
「お、気付いたか?」
聞きなれた声が、月旦の背後から聞こえてきた。肩越しに振り返ると、頭に布を巻いた群青が大きな木箱を抱えながら月旦を見下ろしていた。
「…ここは……」
「対鶴ってやつの船の上だ。出港が迫ってもお前が起きる気配がなくて、しょうがないから宿から布団ごと運んできたんだ」
「……出港?」
「これから輝麗へ行くらしい。遠回りで、番司まで乗せてもらうことになった」
輝麗というのは才華州の南部半島最南端に位置する集落で、同じく南部半島に属してはいるものの、最北端となる炎艇とは丁度対称の位置にある。一行が目指す弦莱は北部半島の北に位置し、一見輝麗へ行くことはただの無駄にも思える。最短距離とは真逆をいっているからだ。
「…弦莱へ行くのではなかったか?」
「まっすぐ弦莱へ行ってもしょうがないだろう。船の上でちょっとやりたいことができたんだ」
「……番司へは、いつごろ着くのだ」
弦莱へ行く道筋はいくつかあるが、群青が選んだのは番司の港から陸路で鎖草、要郭を抜け、弦莱へ行く道だった。番司は北部半島の南にあるが、南部半島の最南端へ行ってから向かうのでは、相当な時間がかかると思われる。
群青はしばらく指折りで時間を数え、おおよそではあったが答えを出した。
「まぁ、上手くいけば四月と二十幾日かな」
「………」
平気な顔をして答える群青に、月旦は目を丸くした。
「傷が癒えたら剣術と体術を仕込んでやるから、覚悟しとけよ」
ニヤリと笑う群青に、月旦は吼えた。
「四月って…!どれだけ遠回りする気だ…!」
「仕方ないだろ、この船の仕事のついでに乗せてもらうんだから」
「他に、早く着ける船があるだろう!」
「いいんだって。必要な回り道なんだから」
焦る月旦を笑顔でかわす群青。必要な回り道と聞かされても、何が必要なのか全くわからない。
「輝麗には、お前を待っている者も居るぞ」
聞きなれない男の声が頭上から降ってきた。その声に群青が視線を上げたので、月旦もつられて、視線の先へ首を回した。丁度月旦が寝ていた敷布の足元辺りに、背の高い、体格のよい男が立っていた。
「船長の対鶴だ」
月旦へ向かって手を差し出す。そういえば、海岸で怪しげな男が言っていたのは対鶴という名ではなかったか。男の船に乗り込み、群青を伴って月旦を探していたはず。
「…お前が、対鶴か…あの夜は済まなかった」
「なに、俺は涙由に頼まれて、皇子とそこの小僧を探していただけだ」
対鶴長の手を取った月旦は、その一言に驚きを隠せない。微笑む対鶴長を見上げ、勢いよく尋ねた。
「涙由を知っているのか!?」
「ああ。俺たちは旧友とでも言うのだろう。奴は今、輝麗にいる」
月旦は対鶴長の手を握ったまま「輝麗…」と呟いた。友人の居場所が判明して嬉しいのか、月旦の瞳はとたんに輝いた。上気した声に牙城が目覚め、何事かと主人を見上げる。面白くないのは群青で、同じくあの夜、月旦を助けに行ったはずの自分にはお礼の一つもなく、何ゆえ自分以外の者にはこうも素直に詫びが言えるのかと月旦を睨み付けた。
「輝麗で一度荷を降ろして、新しい荷物を運び入れる。滞在時間は長くはないが、事前に文で知らせておけば涙由に会うことが出来るだろう」
「本当か…!?涙由は無事なんだな!?」
「無事で、元気にやっている。相変わらず月旦皇子のことばかり気にしているぞ」
微笑む対鶴長と月旦に、一人蚊帳の外の群青は、手にした木箱を抱えなおし、船員が木箱の受け取りを待っている倉庫へ静かに去って行った。
月旦のあの様子では、この船に居る間、月旦は対鶴長にばかり懐くのではないだろうか。自分は所詮、わけのわからない土地からやってきた月旦にとって縁もゆかりも無い人物だ。友人と知り合いの男の方が安心して付き合えるに決まっている。
「四月と二十幾日…」
群青は一人呟く。この期間のうちに月旦の信頼を獲得し、喜んで弦莱へ来てもらえるほどにならなければならない。行きたくもないのに行かねばならないのでは、弦莱で名君になどなってもらえない。群青は改めて決意した。
倉庫に着くと遅いとばかりに船員がため息を吐いた。それというのも、つい先日までは客人扱いだった群青も、仕事を手伝うと申し出たため他の船員と同じ立場となったからだ。しかも同等といいつつ他の船員に比べて、新入りであるのは間違いない。能力を値踏みされてしまうのは仕方がないことだ。船の上で上手く付き合っていくには、船員の機嫌を損ねないように仕事にも精を出さなくてはならないのだ。
「わかってるって、遅くなった分、倍運ぶから」
群青は社交的な笑みを見せ、後ろ手を振りながら駆け足で甲板へ戻った。木箱は両手で抱えるほどの大きさで、中身は重い壺や貴金属なのだが、怪力の群青には一つでも二つでも大して違わなかった。他の船員が一つ運ぶ間に、群青は二つの木箱を運び、常人ならぬ力技に先輩船乗りは感嘆の声を漏らした。群青がその夜、宴に招かれ、酒と料理を大いに振舞われたのは言うまでもない。先輩に気に入られることは、群青にとって容易いことであったが、月旦の気を惹くことは何十倍も難しい。
※未成年の飲酒はダメですよ…!