2章6話 人であろうとした者たち
朧げな月だけが、その男を見つめていた。
その男以外に人の気配はない。
何かを考えるように、独り岩場に佇むその男は果てしなく遠くを見つめていた。
この世界に存在する人間の誰よりも遠い先を。
男の思考の邪魔になると思ったのか、虫たちも鳴き止む。
月夜の静寂。
男の歩みの音だけが響いた。
たった独り、その足音は静かに消えていった。
自然の合唱はまた始まる。
リーン、リーンと煩いほどに。
月だけが、夜空で静かに咲っていた。
民衆の救世主の処刑から、三日が過ぎていた。
弟子たちは、夜の荒れ地に集まっていた。
街と呼ぶには脆く、隠れ家と呼ぶには人が多すぎる、そんな場所。
焚き火の火は小さく、誰も大きな声を出さない。
泣き疲れた者。
怒りを抑え込んだ者。
何も感じられなくなった者。
彼らの間に共通していたのは、喪失だった。
守るべきものを失ったという喪失。
信じていた人を失ったという空白。
「…これから、どうする?」
誰かが呟いた言葉は、闇に吸い込まれて消えた。
その瞬間だった。
光が、降りた。
雷でもなく、火でもない。
空間そのものが白く反転するような、異質な光。
弟子たちは悲鳴を上げる暇もなく、その場に縫い止められた。
焚き火は消え、影も消え、夜は意味を失った。
そして、光の中心に、影が立っていた。
人の形をしている。
だが、実体がない。
足は地面に触れておらず、輪郭は淡く揺らぎ、まるで霧と光を無理やり人の形に押し込めたようだった。
「…先生?」
誰かが、震える声でそう呼んだ。
その存在は、ゆっくりと顔を上げる。
そこにあったのは、確かに見慣れた顔だった。
処刑台に括り付けられていた、あの男の顔。
だが、血も傷もなく苦悶の痕跡すらない。
弟子たちは膝をついた。
泣き、叫び、地に額を擦りつける者もいた。
「生きて…」
「戻ってきてくださった…」
「神が…」
その言葉が口にされるより早く、存在は静かに手を上げた。
そして、声が響いた。
『違う』
その声は、彼のものに酷似していた。
だが、どこか決定的に温度が違った。
『私は神ではない』
弟子たちは息を呑む。
『私は、死を超えて戻ってきたわけでもない』
光の中の存在は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『私は、お前たちの怒りの行き先を、正すために現れた』
『聞け』
『私の死は、復讐の理由ではない』
『抗うな』
『奪い返すな』
『殺すな』
弟子たちの胸に、言葉が直接流れ込む。
『生きろ』
『拒まず、耐えよ』
『それでも、人であれ』
『どこまでも、理想を求めよ』
『苦難の先の先の先に、求める世界は必ずある』
誰かが、嗚咽混じりに叫んだ。
「でも…!先生は、殺された!」
『だからだ』
即答だった。
『私が殺されたからこそ、お前たちは殺してはならない』
『やられたらやり返す、その先にあるのは果てなき闘争のみ』
光は、少しずつ弱まっていく。
『私の言葉を、神の声にするな』
『人の声として、受け取れ』
『それが出来ぬなら…』
一瞬、沈黙。
『私の死は、無意味になる』
『私の死を、価値あるものにするのは他の誰でもなくお前たちであれ』
次の瞬間、光は消えた。
夜が戻り、焚き火がぱちりと音を立てる。
そこに、何も残っていなかった。
弟子たちは、呆然と立ち尽くしていた。
ただ一人、はっきりと理解していた者がいる。
― これならきっと彼らに燻る怒りは、彼と同じ苦難を進むための推進力に昇華するはずだ。
遠く、見えない場所で。
輝志は静かに息を吐いた。
― 今度こそ、条件は整った。
― 今度こそ、上手くいく。
その確信が、後にどれほど残酷な形で裏切られるかを、この時の輝志はまだ知らない。
この出来事は、確かに残された弟子たちに刻まれた。
これまでが間違いなどではなく、正しい道を歩んでいる。
その確信を持てた。
苦難は続く、だがその先に希望はあるのだ。
その確信も得た。
安寧の地を得るために、荒れ地をひたすらに歩いた。
辿り着いた街の隅で、一人で泣き叫ぶ子供を抱きあげ、少ない食料を分け与えた。
武器も持たず、民衆の救世主が歩んだ道を辿るように。
その繰り返しの中で、徐々にまた集団は大きくなっていった。
だから彼らは前を向いた。
顔を上げて、胸を張り、民衆の救世主と同じ道を歩んでいると信じて進んだ。
苦難の道を、ただ愚直に真っ直ぐに。
そして、この苦難の道は師と同じ結末をも強いた。
最初に捕らえられたのは、名も知られぬ弟子だった。
街の外れで、飢えた者に水を分け与えていたところを。
抵抗はなかった。
逃げもしなかった。
「なぜ、逆らわない」
兵の問いに、弟子はただ首を振った。
「敵ではない。私は人を助けただけで何一つ犯してなどいない。」
だが、それが罪だった。
それを支配者は罪としたのだ。
異教徒。
秩序を乱す者。
神を否定する思想の残滓。
そう定義され、弟子は引き立てられた。
処刑は公開で行われた。
見せしめとして、祈りと説教と罵声に囲まれて。
弟子は最後まで武器を取らなかった。
最後まで誰も呪わなかった。
最後まで、人であろうとした。
その姿は、民衆の救世主と寸分違わなかった。
次は、別の街で。
次は、また別の街で。
彼らは逃げなかった。
散らなかった。
隠れなかった。
師がそうしたように。
教えられた通りに。
捕らえられ、裁かれ、殺された。
「なぜ抵抗しない」
「なぜ武器を取らない」
「なぜ神を否定する」
問いは繰り返され、答えは変わらなかった。
「人として生きたいだけ。あなた方の支配の外で人らしく生きたい。ただそれだけだ。」
それが、最も許されない答えだった。
処刑の数が増えるほど、支配層は確信していった。
彼らは敵だ。
話が通じない敵だ。
改心しない敵だ。
やがて、言葉が変わった。
異教徒は危険である。
異教徒は秩序を蝕む。
異教徒は根絶やしにすべきである。
説教壇で語られた。
祈りの中で繰り返された。
子供たちに教えられた。
異教徒を排することは正義である。
暴力は防衛である。
殺しは神意である。
意を共に出来ぬなら、それは隣人ではないのだ。
民衆の救世主の名は、歪んだ形で使われ始めた。
彼の教えを拒んだ者。
彼を神と認めなかった者。
彼を偶像にしなかった者。
それらすべてが、異端として一括りにされた。
弟子たちの死は、抑止にはならなかった。
殉教にもならなかった。
正当化の材料になっただけだった。
輝志は、それを見ていた。
空の上から。
街の影から。
処刑台の向こうから。
― なぜだ。
― 同じ行動をしている。
― 同じ言葉を語っている。
― 同じ道を歩いている。
― なのに、なぜ…。
答えは、あまりにも単純だった。
彼らは戦わなかった。
だから、敵として定義しやすかった。
彼らは反抗しなかった。
だから、排除が正義になった。
彼らは人であろうとした。
だから、人として扱われなかった。
― 俺は…。
― 俺は、暴走だけを恐れていた。
― だが、本当に恐れるべきだったのは…。
輝志の視界に、焼かれる書物が映る。
異教の教えとして、彼らの言葉が灰になる。
同時に、新しい教義が刻まれていく。
異教徒は廃されなければならぬ。
それは神の愛である。
― 逆だ。
― これじゃあ…。
膝が笑う。
息が詰まる。
― 今回の改変は…。
― 失敗だ。
完全な失敗だった。
弟子たちは間違っていなかった。
民衆の救世主も間違っていなかった。
だが、世界はそれを受け取る器を持たなかった。
輝志の視界は絶望で満たされ、黒く染まった。
次の瞬間、白い空間が視界を覆った。
音が消え、匂いが消え、重力が消える。
輝志は、いつもの場所で崩れ落ちていた。
何もない部屋。
白で満たされた空間。
「戻ってきちゃったんだ。望んだ世界、作れそうになかったかな?」
ルピナの声が、静かに響く。
輝志は答えなかった。
ただ、床に座り込んだ。
「もう心折れちゃったのかな?」
問いは優しかった。
だが、逃げ場はなかった。
「…ああ」
絞り出すような声だった。
「今回は、俺が手を入れすぎた。いや、逆か…。俺は、肝心なところを何も作らなかった。」
ルピナは黙って聞いている。
「個人も、思想も、行動も、全部、正しかったと思う。でも…。」
輝志は、顔を覆った。
「世界は、空白を許さないんだ。神を壊すなら、神の役割を代替しなきゃいけなかった。そこを、俺は…」
言葉が途切れる。
「…怖かったんだ。きっと…。また、別の神を作ることが…。」
ルピナは、静かに歩み寄った。
「だから、今回は壊しただけ。より強固な思想が神の言葉として定義された。これが結果だね。」
淡々とした声。
責める色はない。
それが、逆に痛かった。
「次は、どうするんだい?」
輝志は、しばらく黙っていた。
やがて、顔を上げる。
― もう、傍観はしない。
― 神を否定するだけじゃ足りない。
― 神の役割を、構造として解体する。
「…次は」
輝志は、ゆっくりと立ち上がった。
「世界の受け取り方そのものを、人だけじゃなく、構造そのものを壊し、変える。じゃなきゃ彼らの思いが行き場を無くして終わる。」
歴史は、また一つ歯車を空転させた。
次に噛み合う形を、まだ知らないまま。
「まだやれるなら良かったよ。気分転換ついでにコーヒーでもどう?愚痴くらい聞いてあげようじゃないか。」
「ああ…。ありがとう。もらうよ。」
その言葉を聞くと、輝志に背を向け指を鳴らすルピナ。
現れたのはいつものソファーとテーブル。
そしてコーヒーセット。
「人の脆さ…やっぱり面白いものだね。」
そんな呟きは輝志には届かない。
カップから立ち込める湯気がゆらゆらと、ただ登っていく。
天井もない空間を、ただ自由に。
人間の不自由を嘲笑うかのように。




