2章5話 傍観者の罪
輝志は、それからの年月を再び『傍観者』として過ごしていた。
あるいは見えもしない、語りもしない、何一つしない同行者とでも言うべきか。
起点が史実とは変わった民衆の救世主の旅路を観察し続けた。
彼の言葉を、行動を、その一つ一つを。
邪魔するでもなく、介入するでもなくただ見続けた。
民衆の救世主は語った。
神の名を借りず、人の弱さを肯定し、支配から距離を取る生き方を。
その言葉の広がりを、輝志は見つめる。
これで上手く行くのではないか、そんな期待を持ちながら。
実際それは、予想以上に人を惹きつけた。
貧しい者。
病を抱えた者。
重税に苦しむ者。
宗教と統治の隙間で声を持てなかった者たち。
彼らは民衆の救世主の言葉に救いを見出した。
「従え」とは言わない。
「戦え」とも言わない。
「ここに来い」とすら言わない。
ただ、こう語った。
『共に生きる場所を作ろう。』
『奪われるための人生から、離れよう。』
『人が人として繋がり、共に安寧を得る、そんな世界を一緒に生きよう。』
それは支配への直接的な反抗ではなかった。
だが、支配の外へ共に出よう、そういう姿だった。
心地の良い言葉、その響きに人は確かに集まった。
特に強い共感を持った人間は弟子を名乗り、彼の近くで行動を共にするようにもなった。
そうして集団は膨れ上がっていった。
顔も覚えられないほど、様々な思惑を持った人々が押し寄せるように。
為政者からすればこれ以上大きくなるなら手を出さずにはいられない。
価値観の異なる集団。
目を付けるには十分な理由だ。
その様子を観測する輝志は危うさを感じつつも、
― その先にあるのが真っ当で真に安寧を願う思想なら…いいのか。
そう捉えていた。
人々は移動した。
都市から離れ、荒れ地へ。
小さな集落が生まれ、やがてそれは「街」と呼ばれるようになった。
そこに神殿はない。
王もいない。
祭司もいない。
ただ、人がいる。
それだけの共同体。
だが、それこそが問題だった。
支配層にとって、わかりやすい敵よりも考えの異なる離脱者の方が、はるかに危険だった。
税が届かない。
命令が届かない。
恐怖が通じない。
制御できない集団。
最初は無視された。
次に妨害された。
最後には、結局暴力が使われた。
井戸が壊され、
収穫物が奪われ、
夜毎、誰かが消えた。
民衆の救世主は語り続けた。
「武器を取るな」
「奪い返すな」
「命を以て抗うな」
だが、暴力は待ってはくれない。
守ろうとした者が殴られ、
止めに入った者が殺される。
輝志は、はるか上空からそれらを見ていた。
― ここまで来ても、なお武器を取らないか。
民衆の救世主は、武器を取らせないという選択を頑なに守った。
その選択が、どれほどの血を要求するかを知りながら。
「ここは、逃げよう」
「街を捨てよう」
「また別の場所でやり直そう」
人々は従った。
信じていたからだ。
その背中を、兵たちは追った。
執拗に、だが恐ろしいほど的確に。
その繰り返しの果て、ついに民衆の救世主は捕らえられた。
弟子を名乗る『人』が安全だと示した隠れ場所。
逃げ道のない袋小路。
様子を見てくるとその弟子が出て向かった先は見るまでもない。
輝志はその行動を止めることができた。
だが、しなかった。
この結末は彼の歩んだ道の先に最初から置かれていた結末。
そう思えてしまったからだ。
終わり方は呆気ない。
人を信じよ、と説いた結果、人に裏切られ終わる。
正確には裏切りではなくその弟子は支配層から送り込まれた人間ではあったが、それでも結末は変わらない。
反抗の罪。
秩序攪乱の罪。
神を否定した罪。
裁きは、形式だけだった。
既に決まっていた結末がそこにあるだけ。
支配者にとって都合の良い、最初から描かれた結末へと向かうだけ。
処刑の日、彼は民衆の前に立たされた。
その目は、怯えていなかった。
やるべきは果たした、その目は明確に語っていた。
これも、この結末も、『人』であるのだと。
輝志は、その様子を処刑台の向かいの岩場から静かに見ていた。
ー これで…いいのか?
輝志はわかっていた。
民衆の救世主の結末がこうなることを。
違っていたのは始まりだけ。
神とではなく、神を語るのでもなく輝志と交わした言葉から始まった道。
結末は変わらなかった。
でも、その道程は変わった。
ならばその先の結果も変わるのだろう。
そう考えつつも、輝志の顔には不安の色しかない。
ー この先が想定してた思想展開になるイメージが…沸かない。何を間違えてる…?
拭えない不安と思考の中、その時は訪れた。
民衆の救世主は槍に貫かれ、終わった。
十字架が立ち、
血が流れ、
群衆は沈黙した。
その瞬間、輝志の不安は姿を形に変え始めた。
ー 慟哭がない?なら彼らの感情は…きっと…。
人は悲しみよりも先に、怒りを、抑えきれない激情を感じていた。
ここまで民衆の救世主が抑えに抑え込んだもの。
その蓋が今、開けられてしまった。
彼の死後、残された者たちは集まった。
彼らは語った。
「彼は正しかった」
「彼は殺された」
「ならば、守らねばならない」
「彼の唯一の間違い、それを正すのは残された我々だ」
守るものが、いつの間にか「場所」になり、
「仲間」になり、
「思想」になり、
そして、
「敵」が定義された。
「我々を壊した者たち」
「神を語り、奪う者たち」
「支配者」
最初の一撃は、ただの暴力だった。
支配層の兵ではなく、民衆の救世主を嘲った民を殴り屠った。
それは誰かを守るためでもなく、抗うためでもない。
純粋な暴力。
抑圧されてきた感情の噴出口。
人だったものを目の前に、彼らは囁く。
「当然の報いだ」
「これは正しい怒りだ」
「想いは力となった」
そして、溜めに溜め込んだそれは溢れて暴走した。
次の一撃は、報復だった。
聖地は暴徒と化した彼らによって落とされた。
支配層はことごとく磔にされ、槍で貫かれた。
彼と同じように、彼の痛みをわからせるように。
その次からは、正義だった。
彼らだけの、彼らのための、彼らにとっての正義。
意に沿わぬ集団はことごとく膨れ上がった暴力にて支配した。
輝志は、はっきりと理解した。
― ああ…。
― 俺は、致命的な勘違いをしていた。
民衆の救世主は、神になろうとしなかった。
王になろうとしなかった。
だが、思想は残った者たちの手に委ねられていた。
怒りを抱え、恐怖を知り、失うことを拒んだ人間たちに。
彼らは言った。
「彼の教えを守るために戦う」
「彼の理想を実現するために奪う」
「彼の死を無駄にしないために殺す」
別の街ができた。
別の秩序ができた。
別の神話が生まれた。
彼の想いとは、どこまでも無関係に。
そこでは、暴力は「必要悪」とされ、殺しは「犠牲」と呼ばれ、反抗は「聖なる行為」になった。
そして、彼らは民衆の救世主の名を掲げた。
輝志は、膝から崩れ落ちた。
― 違う。
― これは、彼も俺も望んだものじゃない。
だが、同時に理解してしまった。
― いや…違わないのか。間違えたのはただ…俺だけだ。
その瞬間、輝志の中で、一本の線が繋がった。
― 宗教を作り上げたのは、あの民衆の救世主じゃなかったんだ。
― 作ったのは、彼の死を背負わされた弟子たちだ。
― そして俺は…
自分の過ちを、言葉にするのが怖かった。
― 俺は彼が強固な教えを組み立てれば変わると思っていた。彼が語れば全てそのカリスマで足りると思ってしまっていた。
― だが、世界を動かすのは、個人の思想じゃない。
ー 継承されていく想いであり、思想。
その後の『形』を作ることこそが大事だった。
彼は失敗していない。
だが、輝志は失敗した。
最初から、
根本から、
致命的に。
白い空間が、視界の端に滲んだ。
あの場所が、彼を見下ろしている。
輝志は、乾いた笑いを漏らした。
― なるほどな。
― 神は要らないが、神の役割は、確かにあった。
それを壊すなら、代わりを用意しなければならなかった。
彼は立ち上がる。
もう、傍観者ではいられない。
― 俺の失敗…なんだ。彼の失敗じゃない。だから取り返せる。次が…ある。
―個人じゃない。思想でもない。継承される前提そのものを変えなきゃいけない。
歴史は、静かに次の歯車を待っていた。
まだ噛み合わず回ることのできない歯車。
空虚なオブジェにしかならないそれを、正しく、求める形にする。
輝志は天を仰ぎ、指を鳴らした。
まるで、誰かのように。
空へと昇る一筋の光。
歴史への挑戦は、まだ終わらない。




