2章3話 必然という名の祈り
祈りの中心には、その世界の縮図がある。
感謝、安寧、不安、哀願。
様々な人々の様々な現状に対する感情。
それが祈りになる。
祈りの場に目を向ければ、祈りを捧げる痩せ細った大凡人と肥え太る神官。
支配層と被支配層がその立場を明確に示しながら同居する空間。
祈りの中心に立った輝志の目には、そう映った。
そして、その光景は無宗教者である輝志には歪なものにしか見えなかった。
ー 俺はたぶん、宗教というものを知らなすぎるんだろうな。見てみよう。事の起こりを。
輝志のような人間は、きっと宗教を理解することはない。
だが、無理解の排除もまた良しとしない。
そして、何かの始まりには必ず何か理由、問題があることは知っている。
輝志は理由を見る、そのためにこのまま歴史に身を投じる事を決めた。
祈りの中心に漂っていた異物は、静かに、誰にも悟られる事なくその場を去った。
辺りにはさらさらと静かなさざなみの音が心地よいBGMを奏でている。
輝志は祈りの場を離れ、地中海の浜辺にいた。
流木に腰掛け、海の音を聞きながら思考の世界に集中する。
ー まずはこの世界をそのまま見る。その上で自分なりのあるべき世界へと手を加える。基本線はこれだ。
ー 今はおそらく紀元前7年頃。ならば見るのはここから30年ほど。どんな統治がされているのか。その統治者サイドに民衆が何を感じているか。主眼はその辺に置こう。
ー その辺り見ていけば何をすべきかはきっと形になる。
あらかた思考がまとまる頃には日が沈み始める頃だった。
美しい夕日が海に沈んでゆく。
その光景を遠い目で眺める輝志。
そしてゆっくりと夕日に背を向け、街へと戻っていった。
街へと戻る途中、夜の帳が静かに街を覆い、焚き火の橙色が石造りの壁を揺らした。
輝志は人々の視線を避ける必要もない、透明なまま夜の街を抜けていく。
広場では、炉を囲みながらパンをちぎって食べる家族が笑い、反対側では痩せこけた老人が地面に膝をつき祈りを捧げていた。
同じ空間に、救済と絶望が同居している。
その歪さが胸に刺さった。
輝志は視線を上へ向ける。
街の最も高い場所、丘の頂に、暗闇に浮かび上がる巨大な影。
白い石で建てられた荘厳な建物、王の居城だ。
ー さて、どの程度なのか調べてみるか。まともなのか腐ってるのか。
透明な足で地を蹴り、闇を裂くように高く跳び上がる。
弧を描く月明かりのもと、風が体を押し上げていく。
ひと呼吸の後、城壁の上に静かに降り立った。
松明の光がぼんやりと石壁を照らしている。
衛兵が交代し、鉄製の槍を肩に担いで歩く音が近付く。
しかし誰も輝志の存在に気付かない。
ー なんでもできる、ってのは便利が過ぎるな。
そう自嘲しながら、輝志は衛兵の脇をすり抜け、宮殿の中へ滑り込んだ。
石畳の床に規則的に揺れる灯火。
高い天井には黄金色の装飾。
壁面には豪奢な織物と象牙の彫刻。
そして、耳に飛び込んでくる声。
「反乱が再び起きております。徴兵の準備が必要かと。」
「民が何を言おうと、支配されるべく生まれたのだ。問題は彼らをいかに黙らせて金を搾り取るかだ。」
「祈りは利用すればよい。救済を望む者ほど従順だ。」
笑い声が続く。
座している男たちの前のテーブルには、銀の皿に盛られた肉、熟れ切った果物、溢れるほど注がれた葡萄酒。
ー 結局思った通り…か。支配する側になれば腐り、嘲る。どの時代の人間も大差ないんだな。
そう思い、誰にも聞こえることのない呆れのため息を吐いた。
誰かが口を開いた。
「それより問題は継承だ。王が長くないと医師が言っていた。」
「兄弟たちで血を流すことになるでしょうな。だからこそ地位を固めねば。」
「民からの不満?笑わせるな。民は吠える犬と同じだ。餌を与えて飼い慣らせばよい。」
その言葉を聞いた瞬間、
輝志の胸に、冷たい怒りが流れ込んだ。
ー 宗教支配が当たり前の世の中で、こうした腐敗層と戦うために新しい宗教が生まれるのは純粋な対抗手段なんだろうな。
輝志はゆっくりと部屋を離れ、夜風の吹くバルコニーへ出た。
王宮の下に広がる街に灯る小さな火。それは、消えかけた希望の灯火のようだった。
輝志は夜空へ飛び上がった。
星々の中を駆け抜ける。
灯りが圧倒的に現代より少ないその星空は、皮肉なほどに美しかった。
そして時間を歪ませ、次の時代へと跳んだ。
暗転の中に鐘の音が鳴り響く。
街の人々の慟哭、叫び、怒号。
怒りの波が城へ向かう。
石畳が血で濡れる。
民兵が槍を掲げる。
女たちが武器を配る。
老人が叫ぶ。
「我らは家畜ではない!未来のために戦え!」
輝志はその光景に息を呑んだ。
かつての王は死に去り、跡を継いだ愚王が民衆の訴えにより追放される、そんな瞬間だ。
しかし、一つの権力が立場を失うのであれば、別の権力がその立場を取りにくるのは常だ。
結果、争いは終わらない。
相続争い、虐殺、処罰、報復。
そして最後に、ローマの兵が街へ雪崩れ込む。
ローマの軍使が民衆に告げる。
「諸君の訴えを受け、王の統治は廃止された。本日よりローマがこの地を管理する。」
歓声と拍手。
しかし輝志には、そこに冷たい未来の影が見えた。
ー 民衆の反乱を鎮圧したなら、支配層はきっと繰り返さないために抑圧する。この辺りがきっかけになるんだろうな。
そう考えその先を見ていけば、やはりとしか言えない光景が広がっていく。
徴税制度の強化。
処罰の厳格化。
軍隊の常備化。
祈りの商業化。
そして民は静かになっていった。
そうして動く時代を、街の上空で見届けていた輝志は思考に耽っていた。
静かになれば権力は横暴になる。
より強く、強固に被支配層の外堀を埋めて、効率的な搾取へと走る。
そうなれば民衆の抱える不満の行き先がなくなり、希望を無くし、ただ搾取され続けるだけの生きる屍となっていく。
こんな光景は昔も現代も大差ない。
ー こんな流れを辿れば、祭り上げられる人間が出るのもまた必然だったんだろう。
輝志は、この先に訪れる場面を想像しながらまた静かに目を閉じた。
目を開ければ、広場に民衆が集まっていた。
そこへ一人の男が現れる。
痩せ、しかし力強い目。
群衆の前で静かに言う。
「祈りは売り物ではない。救いは誰の所有物でもない。神は我らをお見捨てにはならない。」
民衆が息を飲む。
輝志は胸の奥が震えた。
男は商人たちを追い払い、神殿の中の金をひっくり返した。
群衆が叫ぶ。
「救世主だ!」
「この人こそ、我らを救う者だ!」
輝志は空から見下ろし、ただ呟く。
ー 必然…そういうことなんだな。
救世主が現れると説く宗教が牛耳る世の中で、圧政に抑圧された民衆が行きどころのない不満を抱えている所へ、神の名を出し体制を批判し民衆の声を代弁する。
そんな人物が祭り上げられていくのは自然で必然だ。
そしてまた、それは支配層も同じこと。
いずれそんな動きがあるだろう。
自らの立場を揺るがしに来る人物が現れるだろう。
そんなことは常に考えているのが支配層だ。
この民衆の救世主の声が無視できないほどに膨れ上がった時、そこからの動きは迅速だった。
その日、街は異様な熱気に包まれていた。
広場に集まる民衆の数は雪崩のように増え、男の周囲には身動きも取れぬほどの人垣ができていた。
男はただ静かに言葉を紡ぐ。
「隣人を愛せ。人は人の上にも下にも生まれない。神は、弱き者の中にこそ息づいておられる。」
涙を流す女、胸に手を当てる老人、未来を夢見る若者。
祈りの中心には、確かに希望があった。
輝志は空に浮かびながら、その光景を見ていた。
ー 支配ではなく、救済でもなく、ただ『対話』から始まるものか。
だが同時に、広場の外周を固める別の視線があった。
鋭く、冷たく、人を数でしか見ない目。
ローマ兵。
そして神殿の祭司たち。
支配層にとって、その男の言葉は毒だった。
民衆の意識を覚醒させ、支配の秩序へ刃を向ける思想。
いつの世も、支配者は「考える民」を恐れる。
夜。
男は連行された。
契機は、紛れ込んだ密告者のひと言。
「この男は王を名乗ろうとしている」
輝志はその瞬間、上空で眉をひそめた。
ー なるほど。そういう筋立てで潰すのか。
支配層は反乱者を排除するため、常に大義名分を掲げる。
それが嘘であろうと、弾圧の口実さえ得られればいい。
男は縄で縛られ、夜の石畳の上を引きずられていく。
群衆は泣き叫び、追いかけ、兵士に殴り倒される。
小さな少女が震える声で叫んだ。
「助けて…!あなたは私たちを救ってくれるんじゃなかったの…?」
男は振り返り、血まみれの顔で微笑む。
「私は常にあなたと共にある。たとえ体が奪われようとも、心は奪えない。」
輝志の胸に、鋭い痛みが走った。
ー 本物だな、この人間は。思想ありきで、人を動かすカリスマが確かにある。
翌朝、裁判が開かれた。
それは公正でも、議論でも、裁きでもない。
ただの見せしめ、そして処刑のための儀式。
権力者たちの前に、男は立たされる。
「お前は王か?」
「民衆を扇動し反乱を企てた罪を認めるか?」
男はゆっくり首を振る。
「私は王ではない。私はただ、神が我々を平等に愛していると伝えたまでだ。」
神殿側の祭司が怒鳴る。
「神に近づくことができるのは我らだけだ!お前ごときが神を語るな!」
男が静かに言う。
「ならば問おう。神を語る資格は、金か、権力か?なぜ祈りを銭に換える?」
場が凍り付いた。
祭司の顔が赤く染まる。
ー 覚悟、決まってるな。この人はもうこの先も全てわかっているんだ。
輝志はそう理解した。
処刑の日。
空は異様なほど澄み渡っていた。
広場には再び群衆が集まり、泣き、叫び、震えていた。
背負ってきた十字架が立てられる。
木槌の音が響く。
釘が肉を裂く音が、広場全体に伝わる。
男は血を流しながら、最後の言葉を紡いだ。
「神よ、この人々をお赦しください。彼らは、自らが何をしているのかを知らないのです。」
民衆が絶叫する。
「やめろ!」
「この人は罪を犯していない!」
「神よ、なぜ救われない!」
輝志は空中に立ち、黙ってその光景を見つめた。
胸が熱い。
怒りか、哀しみか、言葉では言えない。
ローマ兵の槍が男の脇腹に突き立てられる。
赤黒い血が地に滴る。
そして、男は静かに息を引き取った。
広場全体が沈黙に包まれた。
風が吹いた。
空が暗くなった。
地響きのような音が町を揺らした。
輝志は、深く息を吸った。
ー これがこの宗教の始まりの瞬間だ。神が生まれたのではない。人が絶望と願いの中で、最後の希望を必要とした結果だ。
誰かが呟いた。
「この人は神だ…」
誰かが続けた。
「この人は、死んでも終わらない」
その声は小さな火のように、静かに燃え広がっていった。
輝志は空へ飛び上がる。
遠ざかる街。
遠ざかる人々の叫び。
そして、独り言のように呟いた。
ー 民衆は弱者じゃない。 声を上げれば歴史を動かす力を持つ。支配されるだけの存在じゃない。
ー ただ、その力を奪うために、権力は信仰を道具にする。神はきっと、人ではなく「支配の構造」によって作られる。
風が吹き抜ける。
ー ならば俺は、構造そのものを壊す。
輝志の瞳に、雷のような光が宿った。
自身のすべきこと、その指針が定まり、創りたい未来のための道標が確かに映っていた。
その下の処刑場となった丘では、人々の喧騒に合わせるように、鈴虫たちも鳴いていた。
いつまでも、鳴いていた。




