1章最終話 独りの幸福の先
いつもの朝が来た…はずだった。
違和感のあるやたらと寝心地のいい背中の感触。
手を伸ばしたところにあるはずのスマートフォンがない。
昨日ちゃんと家に帰ってるはず。
ここはどこだ?
いまいち記憶の整合性が取れてない気がする。
上体を起こして辺りを見回した。
見覚えは全くない部屋だが馴染む感覚がある。
物は少ない。だが綺麗ではある。
ベッドはクイーンかキングか。いやキングだ。
ー ん?なんでそれがわかる?
マットレスのスプリングもちょうどいい。
ー …寝心地がいいわけだ。
ベッドから降りて立ち上がる。
いつものようにコーヒーメーカーのスイッチを入れて顔を洗いに洗面所へ。
ー コーヒーメーカーなんて無かったはず…。
身体は自然に動く。
意識は不自然しか感じない。
顔を洗い終え、同時に出来上がったコーヒーを片手にソファーへ座る。
目の前のテーブルにはスマートフォン。
手に取ると自動的に解除されるロック。
俺の端末ということは間違いなさそうだ。
メール、各種メッセージ、スケジュール。
相変わらず業務的なものしかない。
一通り確認して認識に齟齬はない、そう思った。
思って…しまった。
次にSNSを遡ってみた。
大学進学を選ばずプログラミングの専門に行ってその学習過程で思いついた次世代の携帯電話構想とAIの構想を企業に売って、それからはその開発とか企画に従事して…。
そればっかりに集中してたから結婚もしてないし友人と呼べるような人間も遠ざかってしまったけど充足した日々を送っていて…。
ー 俺の人生ってこんなだったか…?
違和感を感じながら次は口座を確認してみた。
預金残高は9桁あった。
30代後半の男が持つには不釣合いな額。
ただ、それなりに大きなことは成した自負もある。
そう考えれば不自然でもない…のか?
独りの部屋。
物の少ない部屋。
ここまでは俺の部屋だ。俺の空間だ。
こんなにいいベッド。
人生後は流すだけでいい預金。
こんなのは俺の人生には無かった。
無かったはずだ。
充足と違和感。
その答えを見つけるためにカップに残ったコーヒーを煽り、視界の端に映っていた朝日が漏れ光るカーテンを勢いよく開けた。
そこに広がる光景は…朝日の反射する輝く海とレインボーブリッジ。
それも地上からはだいぶ離れている。
ここは湾岸エリアのタワーマンションの高層だ。
違和感だらけの記憶の結果としては妥当な住居。
この景色の中に薄ら残る有明の月。
これを目にしてようやくあるべき記憶がフラッシュバックした。
「…ルピナ。」
あるべき記憶の主の名が溢れ出た。
そしてその主の『体験してみるといいよ』の意味を悟った。
改変。
当事者である俺ですら『こうだった』と思わされた。
少なからず違和感を感じることが出来たのは当事者だからかルピナの意図がそこにあるからなのか。
確かに俺の周辺環境は大きく変わっている。
経済的には成功者と言える水準。
おそらくこの改変後の世界線で日本経済にも大きく影響を与えたはずだし、世界的な目線で見ても日本が技術立国であることを改めて示す結果を出しているはずだ。
ただ、独りなことには変わりはない。
心が死のうが生きようが結局。
生物学的には間違いなく人間で、人間社会で生活していて、おそらくその中で立場も確立できている。
それでも人間と出来うる限り関わり合いにならないのは何も変わってない。
幸福…一体何をどうすれば満たされるのか。
側から見たら充足してても、当人からすれば穴の開いたバケツ。
満たされているようで何もない。
ただ水の流れる音が延々と続くだけ。
何も変わらない。
けれど、人間社会の中で自分の立ち位置が変わったこの世界線でなら何かが変わって映るかもしれない。
そう思い立ち外に出てみることにした。
見知らぬドアが、音を立てた。
ゆっくりと歩き出した。
視界に入る光景は見知ったものとさほど違いはない。
建物も、人も、自然も。
ならば社会はどうか。
これも…。
政治は我が腹を満たすだけ。
利権の絡んだ古い体制、制度、仕組みは変わらず搾取され続ける民衆。
信者を集めて金儲けかと思えば、利益確保のために聖戦を謳い他者を攻撃する宗教者。
都合の良いことしか発信しないメディア。
そしてそれを蹇々囂々と騒ぎ立てるだけのSNS。
周辺環境に余裕がある立場になっても見える物、そしてその見え方も何も変わらない。
その世界の一員であることに、価値を感じることができない。
きっとこれが全てなんだろう。
価値がそこにないのなら、無駄でしかないのであれば省けばいい。
俺の根本にあるのはきっとこれだ。
こうして考えてみればずっとエゴだと思っていたけど、イドの領域なのだろう。
これ以上なく源泉からの欲求なのだから。
長くなった散歩も終わりが見えた。
自宅のドアを開けようとドアノブを掴むと、俺の根本にあったものを見透かしているであろう自称神の薄ら笑いが聞こえた気がした。
それだけでこのドアを開けた先に俺の空間など存在しないことを悟った。
わかりきった答えを見るために俺はこのドアを開ける。
開きかけのドアから漏れるのは白い光。
その先には準備万端と言わんばかりに2杯のコーヒーを淹れてソファーで寛ぐルピナ。
言うべき答えはもう持ってる。
「ねぇ?そこに幸せはあったかい?」
「…わかってる答えをわざわざ聞いてくれるなよ。」
こんな開幕から始まる対話。
踏み出した足の後ろで、カチャリと閉めてもない鍵が締まる音が響いた。




