君が最後の名前だった。
まえがき
人は、一生のうちにいくつの「名前」を呼ぶのでしょうか。
恋人の名前、友人の名前、家族の名前、そして、いつしか呼ばれなくなった誰かの名前。
けれどその中で、「最後に呼びたい名前」が一つだけあるとしたら——
それは、どんな響きを持っているのでしょうか。
この物語は、かつて深く愛し合いながらもすれ違い、
長い時間を経て再会した二人の、静かな「名前の再発見」の記録です。
言葉はときに不器用で、思いはすぐに通じ合わない。
でも、誰かの名前を呼びたいと思う気持ちは、嘘をつけません。
名前とは、相手を「ひとり」として認める行為であり、
自分自身を見つける旅でもあります。
恋はいつも完璧じゃない。
でも、傷や沈黙を越えてなお、もう一度誰かを信じようとすること。
それが本当の愛の始まりなのかもしれません。
ページをめくるたび、あなた自身の「最後の名前」に、そっと近づけるように。
そんな願いを込めて、この物語を捧げます。
君が最後の名前だった
第一章 名前を呼ばれた日
六月の東京は、濡れたアスファルトの匂いと、曇天のくすんだ光で満ちていた。
水色の傘を差しながら中目黒駅を出た佐原遥は、深く息を吐く。蒸し暑さと、心の奥底にこびりついた倦怠が、胸の奥で絡まり合っている。
二十八歳。広告代理店勤務。毎日、朝から晩まで詰め込まれたプレゼン資料と、社内チャットと、クライアントの「要望」に追われる生活。
「何かを作る仕事がしたい」と希望して入社したのに、今は誰かの希望ばかりを代筆する日々。
夢を追うことは、夢から遠ざかることだと知ったのは、いつだっただろう。
昼過ぎ、打ち合わせの合間に立ち寄った小さなカフェ。コーヒーの香りと控えめなジャズが、ほんのわずか心をほぐす。
メニューの裏に書かれた「今日の言葉」が目に入る。
“出会いは、思い出の始まり。”
どこかで聞いたような、ベタな言葉。だが、なぜか胸に刺さる。
読み終えた瞬間、背後から声がした。
「……遥?」
呼ばれた名前に、時が止まる。
遥はゆっくり振り返った。
そこに立っていたのは、橘晴人だった。
——五年ぶりだった。
晴人は、大学四年間を共に過ごした恋人だった。
控えめで、真面目で、でもときどき無邪気な笑顔を見せる彼を、遥は心の底から好きだった。
しかし卒業後、互いに異なる道を選んだ。遥は東京の広告会社、晴人は地方の出版社。遠距離が始まり、生活のリズムがズレ、やがて自然と疎遠になった。
「……東京に戻ってたんだ?」
やっとの思いで声を絞り出すと、晴人は少し笑ってうなずいた。
「去年の秋に。転職して、今は文芸の編集やってる。小さな出版社だけど、東京本社。」
「へぇ、そうなんだ……」
ぎこちない会話。でも、不快じゃなかった。むしろ、どこか懐かしい静けさがあった。
この人は、昔と変わらない。言葉を多く使わなくても、空気で伝えようとするところ。
そして、その空気にふと安心してしまう自分も、何も変わっていなかった。
「……時間、大丈夫?少しだけ、お茶しない?」
晴人の提案に、遥は迷いながらもうなずいた。
あの頃の習慣で、「断る理由」が思い浮かばなかった。
カフェの窓際。
雨が静かに降り続けていた。ガラスに雨粒が流れるのを、二人は黙って眺めていた。
「懐かしいな、この時間。…大学のときも、こんな午後あったよね」
「うん、あった。雨の代々木公園とか行ったよね。意味もなく。」
「意味なんて、なかったよね。だから、よかったのかも。」
ぽつりとこぼす晴人の言葉に、遥は不意に胸が詰まった。
「……なんで、別れたんだっけ?」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。
晴人は、一度だけまばたきした。
「たぶん…お互いに、覚悟が足りなかったんだと思う」
「覚悟?」
「会えない時間を埋めるだけの気持ちとか、続けるために変わる勇気とか…」
「……うん。たしかに。」
遥はカップを口元に運んだ。もう冷めかけていたカフェラテが、少しだけ甘く感じた。
「……また、会ってもいい?」
沈黙のあと、晴人が言った。
その一言に、遥は目を見開いた。
「別に、無理に何かを取り戻したいとかじゃない。
ただ…君と話してると、自分の輪郭がわかる気がして。」
輪郭。
曖昧になっていた自分。仕事に追われて、息を潜めて、誰かの期待に合わせるだけの毎日。
誰かと過ごすことで自分が「自分」になる感覚を、遥はずっと忘れていた。
「……うん。また会おう」
そのとき、遥の中で何かがゆっくりと動き出した。
——それは、止まっていた時間の針。
五年という空白の中で、静かに眠っていた「好き」の続きを、思い出し始めていた
第二章 五年という空白
再会してからの数日間、遥の心は静かな混乱に包まれていた。
毎朝目覚まし時計が鳴り、職場で書類を積み、笑顔で頭を下げる。
いつもの生活は何ひとつ変わっていないはずだった。けれど、心の奥に晴人の声が、目が、微笑が残っていて、それがまるで風のように何かを揺らしていく。
——自分の輪郭がわかる気がする。
あの言葉が、耳に残って離れなかった。
晴人は自分を映す鏡のようだった。
よく笑い、よく黙る人だった。多くを語らず、だが遥が語ると、黙って聞いてくれた。
その「黙っている」ということが、遥にはとても安心だった。
うまく言葉にできないことを、無理に言わせようとしない人だったから。
大学時代の四年間、遥は初めて自分を無理に飾らずに過ごせる相手と出会ったのだ。
だからこそ、別れは深く、静かに痛かった。
「じゃあ、もう離れたほうがいいよね」
そのときの自分の言葉を、遥は何度も思い出していた。
そう言ったのは自分だった。
あの頃の遥は、「頑張る」ことに取り憑かれていた。
東京の広告業界で認められるには、プライベートなど削るしかないと思っていた。
だから、「会えなくて寂しい」と言われることが怖かった。
「あなたの中で私は、何番目なの?」
そんな質問を投げかけられる未来が怖かった。
——だから、遥は逃げたのだった。
「……会ってよかった」
あの日カフェで交わした言葉。
時間が経っても、何も責めない彼の表情に、遥はどこかで救われたように感じた。
数日後、晴人からメッセージが届いた。
「土曜、代官山で展示があるんだけど、良かったら行かない?」
返事を書く手が止まる。
本当は、すぐにでも「行きたい」と打ちたかった。
だが遥の中には、まだ慎重さと臆病さが残っていた。
——これは「再会」なのか、それとも「やり直し」の始まりなのか。
どちらにせよ、安易に期待を抱いていい距離ではない気がした。
でも、最終的に遥は「行くよ」と短く返信した。
土曜、代官山のギャラリー。
晴人は白いシャツに薄いグレーのジャケットを羽織っていた。昔と同じように、左手首には革のバンドを巻いていた。
それを見たとき、遥はふと微笑んだ。
「あれ、まだつけてるんだ」
「うん。大学のとき、君に選んでもらったやつ」
遥は照れくさそうに笑った。
「そんなにボロボロになってるのに、よく持ってたね」
「捨てられなかったんだ。たぶん、あの頃の自分ごと、なくなる気がして」
その言葉の裏にある、五年の孤独を思った。
遥もまた、過去を見ないふりをして生きてきた。
でも、忘れようとするたびに、心のどこかが削れていくような気がしていた。
展示会を出たあと、ふたりは近くのカフェに入った。
晴人は、文芸編集者として働きながら、小説を書いている若手作家をいくつか担当しているという。
「好きなこと、ちゃんと続けてたんだね」
「うん。でも、自信はまだないよ。…いつも、他人の言葉を育ててるだけだから」
その言葉に、遥の胸が少し痛んだ。
——自分の言葉をどこに置いてきたんだろう。
——私も、いつか誰かの思いを、ちゃんと受け止められるような人になれるだろうか。
「ねえ、晴人。もし、あの頃に戻れたら…何を一番変えたい?」
ふいに、遥は尋ねた。
晴人は少し考え、そしてこう言った。
「もっと、君の話をちゃんと聞きたかったな。
君が、どれだけ無理して笑ってたか。わかってたのに、知らないふりした。」
その静かな告白に、遥は言葉を失った。
——「変わらなかった」のではない。
彼も、彼なりに変わってきた。五年の中で、誰にも見えない場所で、自分と向き合い続けてきたのだ。
遥は、ふと手を伸ばした。
テーブルの上、彼の手のそばに。
触れるか触れないかの距離で、指を止める。
「……また、会えるよね」
今度は、自分から言った。
未来に向けてではなく、過去を赦すように。
晴人は、柔らかく笑った。
「もちろん」
そしてその笑顔は、あの頃とまったく同じだった。
ただ一つ違ったのは、遥がもう、それを見逃さなかったことだ。
第三章 午後4時の光
それから、遥と晴人は、ゆっくりと再会を重ねた。
毎週ではない。予定が合えば、という形で、仕事の合間に、夕暮れのカフェやギャラリー、時には何も予定を決めずにただ公園のベンチに座って話すこともあった。
「君は、あの頃よりもずっと強くなったね」と、晴人がふと漏らしたとき、遥は思わず笑ってしまった。
「そんな風に見える? 私、たぶん、ずっと弱いままだよ」
「でも、それを見せられるようになったんだろ? それって、きっと強くなったってことだよ」
遥は一瞬、返す言葉に詰まり、そしてうなずいた。
強さとは、何も感じないことではない。
感じたことをそのまま伝える勇気だった。
それに気づいたのは、晴人と過ごす時間の中だった。
ある日曜日の午後、ふたりは吉祥寺の井の頭公園を歩いていた。
薄曇りの空。水面に反射する光がやわらかくて、どこか懐かしい。
ベンチに並んで座ると、カップルや親子連れの笑い声が遠くから聞こえてきた。
「……なんか、昔のデートみたいだね」
「うん、ほんとに」
遥は、となりの晴人の横顔を見つめた。
その瞳は昔と同じ、どこか遠くを見つめているような静けさを持っていた。
けれど今は、そこに微かな柔らかさが混じっている。
「……晴人は、誰かと付き合ってたり、した?」
その問いに、晴人はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと答えた。
「……二年くらい前に、一人だけ。でも、うまくいかなかった。
たぶん、ちゃんと相手を見るふりして、自分の過去から目をそらしてたんだと思う」
「過去って……」
「遥のことも含めて、いろんなこと。
失敗とか、傷とか、後悔とかさ。
それを“乗り越えたこと”にしようとして、
何も終わってないのに、無理に忘れたふりしてた」
晴人の言葉は、どこまでも正直だった。
その正直さが、遥の胸にやさしく突き刺さる。
遥もまた、同じだった。
目の前の仕事に没頭し、恋愛を“必要ない”と切り捨て、
「ひとりでも大丈夫」と思い込もうとしていた。
けれど本当は、大丈夫なふりをしていただけだ。
誰かに名前を呼ばれること。
意味のない話をすること。
寄り添って歩くこと。
そのすべてを、遥は渇望していた。
「……誰かを好きになるのって、怖いよね」
「うん。期待して、期待に応えられなくて、傷ついて…
でも、好きにならないと、何も始まらないんだよな」
「矛盾してるね」
「うん。でも、たぶん、人間ってそういうもんだと思う」
ふたりは顔を見合わせ、声を立てて笑った。
公園の午後四時。
光が斜めに差し、木々の葉がきらめいていた。
その瞬間、遥は思った。
——この人となら、もう一度、恋をしてもいいかもしれない。
——過去ではなく、未来に向けて、ちゃんと歩いていけるかもしれない。
でも、その時、遥はまだ知らなかった。
晴人の中に、まだ触れていない「何か」があることを。
それは、ふたりの時間に、ふと差し込んでくる影のようなものだった。
第四章 静けさの理由
八月の終わり、東京はまだ夏の名残を引きずっていた。
コンクリートの照り返し、どこか無理に明るすぎる空。
蝉の声は遠のき始め、季節の端っこで、何かが次の色を探しているようだった。
晴人と遥は、それでも変わらず、静かに会い続けていた。
決して「付き合おう」と言葉にしたわけではない。けれど、互いの存在が日常に自然と溶け込み始めていた。
だが、その穏やかな時間の中に、ふとした違和感が混じるようになった。
晴人が、ときどき「遠く」へ行ってしまうような表情を見せるのだ。
言葉が途切れ、視線がどこか宙に浮き、すぐには戻ってこない。
それは一瞬だが、遥にはわかった。
——何かを、隠している。
ある日、帰り道の歩道橋で、遥はふいに言葉を投げかけた。
「ねえ、晴人。聞いてもいい?」
「……うん」
「なにか、私に言ってないことある?」
風が吹いて、彼の髪が少し乱れた。
晴人は数秒、視線を遠くに置いたまま、静かに言った。
「……あるよ」
遥は足を止めた。
「でも、まだ言えない。ごめん」
「私のこと、信じてない?」
「違う。信じてる。……でも、それでも、言葉にしたら、何かが壊れそうで怖いんだ」
遥は、黙った。
彼の言葉には、どこか「別れ」の匂いが混じっていた。
そう、遥は感じた。
そして、確かに彼の中にまだ“過去”があることを、知った。
その夜、遥はベッドの中で、じっと天井を見つめていた。
繋がりかけた手が、すり抜けていく感覚。
言葉が届かない距離に、また誰かがいるという現実。
——それでも、もう一度失いたくない。
そう思う自分がいた。
数日後、晴人から連絡が来た。
「週末、時間ある? 一緒に富山に行ってくれないか」
突然の誘いに遥は驚いたが、すぐに「行く」と答えた。
富山——晴人が大学を卒業してから就職し、数年間暮らしていた場所。
彼の“空白の時間”のすべてが詰まった場所。
富山駅に着いたのは、土曜の正午だった。
夏の終わりの風は、東京よりもずっと優しく、空が広くて静かだった。
「……昔の同僚が、最近亡くなってね。君に、話したかった」
晴人はぽつりと言った。
彼が案内したのは、小さな古本屋だった。
シャッターは下りたままで、店の看板には「日暮堂」という文字が色褪せて残っていた。
「ここで、編集とは別に、少しの間だけ手伝ってた。
店主の女性が、すごく不思議な人でさ。…まるで“物語”の中から出てきたみたいだった」
遥は静かに頷いた。
「彼女は、誰にでも“自分だけの本”を選んでくれた。
でも、自分の話はほとんどしなかった。…亡くなったのも、誰にも知らせずに静かに消えたらしい」
「晴人は、彼女に何かもらったの?」
「うん。これ」
彼が取り出したのは、一冊のノートだった。
手書きの文字で埋められたその中には、詩や小説の断片、誰かへの手紙のような文が綴られていた。
「…全部、彼女の書いたもの?」
「わからない。たぶん、半分は、彼女自身じゃなくて……俺のことを書いてたんだと思う」
遥はノートをめくった。
そこには、確かに晴人のことを語るような言葉があった。
“沈黙の中にしか住めない人がいる。
声を出せば、何かが壊れてしまうと信じている人。
でも、その人の中には、きっと言葉よりもずっと深い愛がある。”
遥は、そっと目を閉じた。
晴人はずっと、自分の中に言葉を閉じ込めてきた。
誰かの痛みに寄り添いながら、自分の痛みは黙ってきたのだ。
「……ねえ、晴人」
「うん?」
「もう、黙らないで。私には、ちゃんと話して。怖くてもいいから。私は、逃げないから」
風が吹いた。
晴人の目に、うっすらと涙がにじんでいた。
「……ありがとう。
俺、ずっと“過去”に赦されてないと思ってた。
でも、それを赦すのって、本当は自分自身なんだよな……遥に言われて、今わかった」
遥はそっと、彼の手を握った。
あのとき繋げなかった手を、ようやく重ねたように。
この日、ふたりは過去に別れを告げた。
すれ違った五年のすべてが、ようやく一つの言葉に変わり始めていた。
第五章 声が重なる場所で
東京に戻ってからの数週間、遥の心はどこか軽くなっていた。
晴人の「過去」に触れたことで、はじめて彼の「現在」と真っすぐ向き合えるようになった気がしていた。
晴人もまた、表情がやわらいだ。
かつてのように沈黙に逃げ込むことはなくなり、遥の言葉にしっかりと応えるようになった。
会話の端々には、未来の気配が混じるようになった。
ある夜、ふたりで新宿の高層ビルの展望ラウンジに立ったとき、遥はふとつぶやいた。
「こうして、誰かと一緒に高い場所に立つの、初めてかもしれない」
晴人は横を向いた。
「昔、一緒に代々木公園の展望台に登ったの、覚えてる?」
「うん。晴れてるのに、何も見えなかった日。湿気で全部、霞んでた」
「俺、あのときさ、君にプロポーズしようと思ってたんだ」
遥は驚いて目を見開いた。
「……え?」
「冗談じゃなく、本当に。指輪も買ってた。安いやつだったけど」
「なんで、やめたの?」
晴人は少し笑って、そして遠くの夜景を見た。
「君の目が、ものすごく疲れてたから。
俺の隣にいるのに、まるでどこかに閉じこもってるみたいだったから」
遥は、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。
あのときの自分を、晴人はちゃんと見ていた。
それなのに、自分は気づこうとしなかった。
「……言ってくれたら、変わってたのかな」
「言ったら、逃げられる気がした」
ふたりは沈黙した。だが、今はその沈黙すらやさしかった。
「でも、今言える。……遥、君とまた一緒に未来を考えたい」
その一言は、五年の空白を一気に埋めた。
遥は答えた。
「うん、私も。……今なら、ちゃんと隣にいられる気がする」
ふたりの声が、同じ高さで重なっていた。
数日後、遥は晴人の部屋で、ふと古びたスーツケースを見つけた。
「それ、なに?」
「……開けてみる?」
中には、過去の写真、ノート、手紙、大学時代の二人の写真もあった。
その中の一枚に、遥は目を留めた。
——大学の文化祭で撮った写真。
晴人が笑っていて、遥の肩にそっと手を置いている。
カメラのピントは甘く、光が滲んでいた。
「ねえ、これ……」
「うん。君が送ってくれた最後の写真。
別れたあとも、何度も見返してた。
“もう一度だけ、この人に会えたら”って思いながら」
遥は、そっと彼の手を握った。
「私も、ずっと同じこと思ってた。
でも、会えたってだけじゃ、意味がなかったんだよね。
ちゃんと向き合わなきゃ、再会はただの偶然になる」
「偶然を運命に変えるには、選び直す勇気が必要だった」
彼の言葉に、遥はうなずいた。
—
日々は穏やかに、しかし確実に変わっていった。
晴人は来年、小さな文芸誌を立ち上げることを決めた。
遥は転職を考え始めた。「自分の名前で、言葉を届ける仕事がしたい」と初めて思えた。
ふたりは週末のたびに、どこかに出かけた。
特別な場所じゃなくても、ただ歩くだけでも、そこには「ふたりでいる」意味があった。
ある秋の日、神楽坂の裏通りで、ふと遥が口にした。
「ねえ、もし名前って、人生でひとつしか呼ばれなかったら……誰に呼ばれたい?」
晴人は、笑った。
「決まってるじゃん。……君だよ」
遥は、うっすら涙を浮かべて笑った。
「私も。晴人に呼ばれる“遥”が、いちばん好きだったから」
その瞬間、風が吹いた。金木犀の香りが、どこからか漂ってきた。
——声と声が重なる場所。
そこに、ようやくたどり着けたのだと思った。
第六章 すべての言葉のあとに
冬がすぐそこまで来ていた。
街の空気は少しずつ澄み、夕方になると吐く息が白くなりはじめた。
イルミネーションの灯りが、都心の雑踏にやさしい彩りを加えていた。
遥は、晴人の家のキッチンで小さな湯気の立つ鍋を覗き込みながら、思った。
こんな風に、人と季節を感じながら過ごす冬は、何年ぶりだろう。
——「おかえり」と言う場所。
——「ただいま」と言える人。
それは、かつて諦めたはずの願いだった。
でも今、確かにこの手の中にある。
リビングから晴人の声がした。
「遥、ワイン開けてもいい?」
「うん、お願い」
遥は鍋を火から下ろし、手を拭いてリビングへ戻った。
テーブルには、ふたりで選んだ小さなチーズとバゲット、そしてワイングラスが並んでいる。
こんな風景が、特別じゃなくなっていくことに、遥は深い安心を覚えていた。
グラスを合わせると、晴人が言った。
「……出版、決まりそうなんだ。自分が企画してた短編集」
遥の目が輝いた。
「ほんとに? おめでとう……!」
「ありがとう。でも、まだこれからが勝負だけどね」
晴人は少し照れたように笑った。
「実はね、巻末に、エッセイを一本入れさせてもらえることになったんだ。
テーマは、“名前”について」
遥は一瞬だけ動きを止めた。
そして静かに言った。
「……私、何かのモデルになってる?」
「うん。というか、君の名前から始まってる。
“最後に呼びたい名前”について、書こうと思ってるんだ」
それは、遥にとって告白にも似た言葉だった。
思えば、ふたりの始まりも、終わりも、再会もすべて“名前”から始まっていた。
名前を呼び合うこと。
それは、相手をひとりの人間として尊重し、必要としているという証だった。
「……私ね、昔、職場の誰にも名前で呼ばれなかったの。名字ばっかりで。
それがすごく寂しかった。だから、晴人が“遥”って呼んでくれたとき、すごくうれしかったんだよ」
晴人は頷いた。
「俺も、遥って名前を呼ぶたびに、自分を取り戻してた。
君の名前には、そういう力があった」
ふたりはしばらく黙ってグラスを傾けた。
言葉がなくても、充分に伝わるものがある。
すべての言葉のあとに残るのは、たった一つの静かな真実だった。
—
その夜、眠る前に晴人が言った。
「遥。……来年、同じ家で暮らさないか?」
遥は、驚きと喜びと、すこしの戸惑いでいっぱいになった。
「……うれしい。でも、少し考えさせて」
「もちろん。急がないよ。
でも、こうして一緒にいる時間を、もっと当たり前にしたいんだ」
それは、プロポーズではなかった。
けれど、それ以上にやさしくて、誠実な申し出だった。
遥は、うなずいた。
「ありがとう。……私も、きっとそう思ってた」
—
そして、夜が更けていった。
東京の空は澄み渡り、遠くの星が、やさしくまたたいていた。
ふたりは、すべての言葉のあとに、ただ名前を呼び合う。
静かで、確かな光のように。
第七章 君が最後の名前だった
年が明け、東京に小さな雪が降った朝。
遥は、晴人と暮らす部屋を探し始めていた。
いくつかの物件を見てまわったあと、ふたりが気に入ったのは、下北沢の古いマンションの2階にある部屋だった。
駅から少し歩くが、静かで、近くに小さな本屋があって、春には桜が見えるという。
契約が済んだ日、ふたりは駅前のカフェでホットココアを飲んだ。
「この先、ずっと順調にいくとは思ってない」
晴人が言った。
「きっとまた、ぶつかったり、すれ違ったりする。でも、それでも、君といる未来を選びたい」
遥は、ココアのカップを両手で包みながらうなずいた。
「うん、私も。逃げないって決めたから。
怖くても、ちゃんと伝えていくって、約束する」
晴人は笑って言った。
「じゃあ、君がくれた“遥”って名前、ずっと呼び続けていい?」
「いいよ。……それが、私にとっての救いだったから」
—
三月。
晴人の企画した短編集『声を綴る日』が、小さな書店に並んだ。
巻末のエッセイには、確かに遥のことが書かれていた。
「名前」というのは不思議なものだ。
誰かを呼ぶためにあるけれど、
呼ぶ人がいなければ、その名前は風に溶けてしまう。
たくさんの出会いがあって、たくさんの別れがある中で、
最後に呼びたい名前がひとつだけあるとしたら、
僕は迷わず、それを口にするだろう。
その名前を呼ぶことで、僕は僕になれたのだから。
本を読んだ遥は、こっそり涙をぬぐった。
この名前が、自分でよかったと、心から思えた。
—
春、ふたりは引っ越しを終え、新しい生活を始めた。
朝は少し早起きしてコーヒーを淹れ、夜はそれぞれの好きな音楽を聴きながら読書をする。
特別ではないけれど、確かに「ふたりの時間」が日々積み重なっていった。
ある夜、ベランダでふたり並んで星を見上げていたとき、遥が言った。
「晴人。……私、いつか絵本を書いてみたい」
「絵本?」
「うん。昔は文章の仕事がしたかったけど……今は、もっと小さな、でも温かい世界を描きたいなって思うの」
「それ、すごくいいと思う。……タイトル、もう決めてる?」
遥は照れたように笑った。
「まだ。でも、いつか書きあがったら、“あなたの名前”を出したいなって思ってる」
「僕の?」
「うん。きっと、“晴人”って名前が出てくる。
私の世界を明るくしてくれた人だから」
晴人は、何も言わずに遥の肩にそっと手を置いた。
——それは、言葉よりも深い「ありがとう」だった。
—
六月、ふたりは一緒に初めての旅行に出かけた。
行き先は、京都。昔、大学の卒業旅行で来るはずだった場所。
夜、鴨川沿いの宿で、晴人が突然ポケットから小さな箱を取り出した。
「……なんで今?」
遥が驚いた顔で聞いた。
晴人は、笑って答えた。
「“最後の名前”は、たぶん、もう変わらないと思ったから。
この先、何度でも呼びたいと思ったから」
箱の中には、小さな指輪。
シンプルで、でもどこかあたたかい光を宿していた。
遥は、それを見つめて、目を閉じた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう。……じゃあ、私も一つ言っていい?」
「うん?」
「“君が最後の名前だった”って。……私の物語の、ラストページに書きたい言葉」
晴人は、静かに彼女の手を握った。
その夜、窓の外に広がる星空は、まるで未来の地図のようだった。
ふたりは、その地図の上に、これからの足跡を描いていくのだろう。
名前を呼び合いながら。
互いを照らし合いながら。
— 完 —
『君が最後の名前だった』
ご愛読ありがとうございました。
あとがき
この物語は、「名前」にまつわる一つの問いから始まりました。
——人は人生の最後に、誰の名前を呼びたいのだろうか?
そしてその問いは、自然ともう一つの問いへとつながっていきました。
——自分が呼ばれたい名前は、誰の声で響いてほしいのか。
名前は、呼ばれることで意味を持ちます。
それは単なる記号ではなく、記憶であり、願いであり、誰かとの関係そのものです。
そして呼びかけの先には、必ず応答を望む心があります。
この物語の主人公・遥と晴人は、かつてお互いを愛しながらも、それぞれの道を選び、
再び交差するまでに五年という空白を経ました。
その五年間の「沈黙」こそが、ふたりを育て、変え、赦し合う準備だったのだと、私は思っています。
人と人は、言葉だけでつながっているわけではありません。
それでも「名前を呼ぶこと」、そして「名前で呼ばれること」は、
生きていく中で最も深く、静かな愛の表現の一つではないでしょうか。
“君が最後の名前だった”というタイトルは、
誰かを愛し切ることの決意であり、
もう誰とも比べないという静かな確信でもあります。
あなたにも、心の中でそっと呼びたい「最後の名前」があるでしょうか。
もし、この物語の中に少しでも自分の記憶や願いを重ねていただけたなら、
書き手としてこれほど幸せなことはありません。
最後まで読んでくださったあなたに、心からの感謝を込めて。