01.目覚まし時計が飛んできた日
「ガチャーーン! ゴトッ! ゴロゴロゴロ……チーン!」
母によって投げつけられた目覚まし時計が、標的である父を大きく外れて、賃貸の壁に激突した。そこから本棚の上を転がり落ち、最後には床にぶつかって止まった。
私の最も古い記憶は、このときの目覚まし時計の音だ。床に落ちたときの「チーン!」という情けない音が部屋に残響し、なんだか妙に面白くなってしまったのを、今でも覚えている。
「おお、目覚ましが飛んできたぞ」
私はそんなことを呑気に思いながら、床に転がる目覚まし時計を見ていた。
父と母は、特別仲が悪かったわけではない。ただ、母はとにかく要領が悪くて鈍くさい性格で、父は時々それにカチンとくることがあったのかもしれない。
母は典型的なシングルタスカーで、同時に二つ以上のことができなかった。家事に関しても、一点にこだわりすぎて、他が疎かになるタイプだった。部屋の掃除に夢中になると洗濯物を干し忘れたり、料理中に何かに気を取られてすぐに焦がしてしまったり。
そんな鈍くさい母に、父はよくイライラしていた。今回の喧嘩も、恐らくそういう理由だったのだろう。
私は、夫婦喧嘩に巻き込まれないよう、そそくさとリビングを離れた。和室に入ると、そこには姉がいた。「こっちにおいで」と言いたげな、優しい目をしていた。
私は姉のそばに座り、気を紛らわせるようにぬいぐるみで遊んだ。隣の部屋からは、父と母の言い争う声が聞こえてくる。怖いなあと思いながら、部屋の隅で小さくなって、おままごとを続ける日々だった。
あの頃の私は、まだ幼稚園にも通えない年齢で、たぶん2歳から3歳くらいだったと思う。
「3歳なんて、何も覚えてないでしょ?」と思う人もいるかもしれないが、そんなことはない。今、私にも3歳の子どもがいる。記憶に残るかどうかはともかく、大人として見本になる姿を見せ続ける必要がある。あの頃の自分を思い出すたびに、改めてそう感じている。
とはいえ、完璧な親なんて、どこにもいないこともよくわかっている。父と母は喧嘩が多かったけれど、私はふたりのことが大好きだったし、今でも尊敬している。喧嘩が激しかったからといって、ダメな大人だなんて思ったことはない。私だって、夫と喧嘩することはある。目覚まし時計は投げないけど……。
余裕がなくなると、他人にも、子どもにも、そして自分にも気を配れなくなってしまう。自分が親になってみて、その気持ちは痛いほどよくわかる。
あのときの父と母も、きっと余裕がなかったのだろう。それでも、そんな中で私を育ててくれた。ほんとうに、サンキューである。
私は、母と姉がいる家が大好きだった。両親の喧嘩は嫌いだったが、父は仕事が忙しく、ほとんど家にいなかったため、喧嘩の頻度はそれほど多くはなかった。
母は子どものことが大好きで、大学では教育学部に通い、教員免許まで取っていた。そんな母の愛娘である私は、母からたっぷりの愛情を受けて、すくすく育った。
家の中では、ほとんど姉と一緒に遊んでいた。私はごっこ遊びが大好きで、家中のぬいぐるみを集めては、よくおままごとをしていた。
私のごっこ遊びには独特の世界観があり、ぬいぐるみ一体一体に設定した性格もあった。姉はその世界観と設定を崩さず、私に合わせて一緒に遊んでくれた。
父や母、たまに家に来る従兄弟たちも、私と遊ぼうとぬいぐるみを手に取り、声をかけてくれたが、なんだかいつもピンとこなかった。「そっちで遊ぶー」と、すぐにそっぽを向いてしまう私だった。
友達が頻繁に家に来たり、母のママ友や父の同僚が訪ねてきたりすることは一切なく、静かな家だった。でも私は、そんな家で落ち着いて自分の世界に没頭できるのが、とても好きだった。
今思えば、そんな内向的な私の性格は、人付き合いがあまり得意とは言えなかった父と母の血を、きっちり引き継いでいたのだと思う。
「アカネちゃん、そろそろ『お外』にチャレンジしてみよっか!」
その日は、突然訪れた。たまに修羅場があったものの、平穏だった日々は、母のその一言でガラリと変わることになる。
その『お外』は、実にとんでもない場所だった。認可もされておらず、保育園ですらない。そこで横行していたのは、幼児虐待。
そんな恐ろしい施設が、私の最初の『外の世界』だった。