「皇族降下の施行準則」は無かったことにされたのか
日本の天皇家の皇位継承者は現在三人、これでは少ないと旧皇族(伏見系)を皇族に復帰すべき、との意見が以前よりある(もっとも、伏見系全員ではなく、「適切な人を」との但し書きが付けられているのだが)。
1947年(昭和22年)11月14日、当時の皇族のうち11宮家51人が「臣籍降下」し皇族を外れた。これはGHQ指令により皇室の財産を制限されて(国の所有に戻された)多数の皇族を養えなくなったため、内廷と直宮三家(秩父宮・高松宮・三笠宮)を残し、他の11宮家(すべてが伏見系であった)を臣籍降下させたものである(昭和天皇の戦争責任を回避する目的があったともされる)。この方針は、昭和天皇裕仁より伏見系各宮家に前年(昭和21年)11月に伝えられ、旧皇族が臣籍降下の請願をした形で進められた。皇后良子(のちの香淳皇后)の実家である久邇宮も、成子内親王の嫁ぎ先である東久邇宮も例外ではなかった。
結果として、11宮家の中には生活が困窮し、また断絶した家もある。
では、この臣籍降下がなければ皇位継承者は潤沢だったのか、を考えてみると、一概にそうも言えない。
歴代天皇はその代で一人なので、過去に天皇にならなかった皇族男子が多数いた。その男子は(権力闘争で殺し合い失われたものもいるが)皇位継承者(親王)として皇族に残る(親王家)。しかし時の天皇と直系で大きく離れれば皇位を継承する可能性が低くなるため、随時臣籍降下させ、皇族から外してきた。源氏とか平氏はそうして皇族から降下し武士になった氏族である。
通常、親王家は何代か後に臣籍降下させていたが、室町初期に世襲親王家(天皇の血筋より遠く離れてもスペアとして親王を維持し続ける家)が出来た。初期は伏見宮(断絶見込み)、のちに桂宮(1881年断絶)、有栖川宮(1913年断絶)、閑院宮(1988年断絶)が設立され、世襲親王家が四家になった。天皇の直系ではないが、親王宣下を受けて親王の位に留まった。
明治天皇睦仁には後継となる男子が明宮嘉仁親王(のちの大正天皇嘉仁)ただ一人しかなく(明治天皇の子は男子五人女子十人のうち成人したのは男子一人女子四人だった)、また病弱だったため、幕末から明治にかけて伏見系の新たな親王家(山階宮・北白川宮・梨本宮・久邇宮・賀陽宮・東伏見宮・竹田宮・朝香宮・東久邇宮)が設立された。そして1889年(明治22年)制定の(旧)皇室典範では皇族は子孫も皇族であり続ける「永世皇族制」が導入された。
しかしその後、迪宮裕仁親王(のちに昭和天皇)、淳宮雍仁親王(秩父宮)、光宮宣仁親王(高松宮)、澄宮崇仁親王(三笠宮)と直系の親王が誕生し、また皇族が増えることによる費用の増大も懸念されたため、1907年(明治40年)制定の皇室典範増補で「請願により臣籍降下できる」と定めたが、実際に臣籍降下したものが一例だけだった。このため、1920年(大正9年)制定の「皇族降下の施行準則」で天皇より5世(=親王ではなく王となる)で嫡子でない次男以下の系統と、嫡子であっても9世以下を強制的に臣籍降下することになった。この際、伏見系は共通祖先の伏見宮邦家親王が一六世であったため、この子を特例一世王とし、特例五世より臣籍降下させることになっていた。このため伏見系で皇族の身分を保持できたのは、伏見宮博明王、賀陽宮邦寿王、久邇宮邦昭王、朝香宮誠彦王、東久邇宮信彦王、竹田宮恒正王、北白川宮永久王の世代までである。これにより、1947年の11宮家臣籍降下がなかったとしても2024年現在、特例四世王とその王妃の数人(すべて80歳代〜90歳代)のみが皇族として残っていた筈であった。
今上天皇徳仁より年少の皇位継承者は、増えなかった。
(ここまでは、所功「皇室典範と女性宮家」第6章「皇族降下の施行準則」解説、を参考にした。http://tokoroisao.jp/wp-content/uploads/2020/04/355901561dc9c36fa2f1eec1312a736a.pdf)
ここで日本会議シンパの方へ耳寄りな情報をお知らせする。
皇族降下の施行準則(大正9年)、および皇室典範増補(明治40年)は(旧)皇室典範(明治22年)および大日本帝国憲法とともに1947年(昭和22年)5月2日を以って廃止された。同年11月14日の11宮家臣籍降下は(新)皇室典範第11条により行われており、皇族降下の施行準則とは関係がない。ここに強弁の余地がある。
しかし一方では皇室典範第11条第2項で「〜やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。)とあり、事前に昭和天皇裕仁より「内廷と直宮を維持したい」との意向が伝えられたこともあり、11宮家臣籍降下を事前であれ事後であれ覆す事は難しかったと考える。
あれ?耳障りだったか。