道中
分かっている。これはただの現実逃避だ。不愉快な者たちから離れたところで、問題は解決しない。しかしトランクに荷物を詰めながら、どうしようもなく心が浮き立った。
いっそ開き直ってしまえばいい。どうせアレと結婚するしかないのなら、その前に一つくらい、自分も勝手をしてもいいじゃないか。ここで胃を痛め続けるよりずっと健全だ。
早朝、最低限の荷物だけを詰めたトランクを手に馬車に乗り込む。
学園の前には、ぱらぱらと他の留学推薦を受けた者たちが集まってきていた。学長や他の教師たちの姿も見える。その中にシェーラを推薦してくれた新任教師を見つけた。
一人だけとても眠そうな、気の抜けた顔をしている。彼はミシェルに気づくと笑顔で駆け寄ってきた。
「おはようございます、先生」
「おはよう、ミシェル君。もうすぐお別れだね。寂しくなるよ。と言っても知り合ってまだ数週間だけど」
おどけた調子の言葉にミシェルは苦笑する。
「まあ、確かに。でも突然の申し出を受けてくださって、とても感謝しています」
「構わないよ。優秀な学生の願いだ。それにここだけの話、希望者が全然集まらないから枠は空いていたんだ。春まで帰れない上に、情報が少ない国だからね。尻込みする気持ちも分かる。ミシェル君は不安じゃない?」
「不安はもちろんありますが、それ以上に楽しみです。きっと一生の思い出になるでしょうね」
「帰ってきたら色々と話を聞かせてくれよ」
話しているうちに皆揃ったようだ。
学長が重々しく口を開く。
「彼の厳しい冬の地で、皆さんが国の為に学んできてくれることを喜ばしく思います。さまざまな出会いが皆さんの経験となるでしょう。礼節を忘れず、学園の名に恥じぬよう日々勉学に励んでください。それでは、春にまたお会いしましょう」
生徒たちは、用意された馬車に4人ずつ分けられて乗り込んだ。
「ちょっと狭いわ!もっとつめてよ!」
「詰めてる!文句言うなら御者席にでも行けよ!」
「騒ぐと他の方の迷惑になりますから、えっと、喧嘩はやめてください......」
......賑やかな道中になりそうだ。
馬車が動き始めると、ひとまずは落ち着いた。
「長くなるんだ、自己紹介くらいはしておこう。俺はレイズ=マフィ。三度の飯より勉強が好き。以上」
「ふん、根暗ね。私はローズマリー=トット。留学したら箔がつくって聞いたの。高位貴族と結婚して贅沢して暮らすのが目標よ」
「しょうもな。学長に謝れ」
「何ですって?」
また口喧嘩になりそうだ。ミシェルは慌てて割って入った。
「まあまあ、目標があるのはいいことだよな。それじゃ次は俺が名乗るよ」
「待って、私あなたのこと知ってるわ。ミシェル=フィートでしょ?名ばかり婚約者」
あまりの言いようにレイズは眉を顰めて言う。
「お前気遣いってものがないのか。しかもフィートって伯爵家だろ」
「伯爵家だから何?魅力が無くて放置されてるのは本当でしょ。みんな言ってるわよ」
「面と向かってはなかなか言わないけど。まあいい、事実だ」
気にした様子の無いミシェルに、ローズマリーはふんと鼻を鳴らした。
室内の目は最後残された気弱そうな少女へ向いた。それぞれ自己紹介をするたびに顔色が悪くなっていたが、大丈夫だろうか。
「はっはい!私はロッテ=エルドラ。エルドラ商会の娘です。すみません、平民がご一緒してすみません......」
「卑屈ね」
「おい」
「うるさいわね、いちいち突っかかってこないでよ。別に平民だからって虐めたりしないわ。それにエルドラ商会って言ったら、下手な貴族よりお金持ちじゃない」
王都でその名を知らぬものはいない商会だ。貧しい下級貴族など、むしろ彼女の顔色をうかがうだろう。確か、長男が学園にいたはずだが。
「お兄さんも留学を?」
「いいえ。後継にもしもの事があってはいけないと、私が代わりに......」
ロッテは苦笑いで言う。あまり深く聞かない方が良さそうだ。
****
カーテンを少し引いて窓の外を見る。今どの辺りだろう。前方に森が見えるから、国境付近かもしれない。周囲に建物はなく、ちらほらと雪が降り始めていた。
カーテンを閉じて座席に座り直す。ずっと座っていて尻が痛い。どこかで休憩を挟むはずだが、まだだろうか。
車内にはすーすーとローズマリーの寝息だけがしている。1時間前の騒ぎが嘘のようだ。
本を読んでいたレイズが、不意にパタンと閉じた。
「......酔った」
ぼそりとつぶやかれた言葉に、思わずミシェルは吹き出した。ロッテもくすくす笑っている。
「しばらく遠くの景色を眺めると良いよ」
「そうだな......いや、停まりそうだ」
ありがたいことに、森に入ってすぐ馬車が止まった。やっと体を伸ばせる。
ドアを開けると、冷たい空気が入り込んできた。
「はっくしゅ!」
ローズマリーがくしゃみとともに起きた。眠たげな目でシェーラを見上げる。
「休憩だ。外の空気を吸いに行こう」
数秒ぼんやりとしていたが、急にはっと目を見開いた。
「着いたの?」
「休憩だって」
笑って同じ言葉を繰り返す。ローズマリーはそう、と何事もなかったかのように立ち上がってさっさと外へ出て行った。しかしその耳は赤くなっていた。
ミシェルも出て、大きく伸びをする。はぁ、とはいた息は白くなっていた。ついでにあとどのくらいで着くか聞いてみよう。
休憩をとっている御者に声をかけた。
「すみません。あとどのくらいで到着しますか」
御者は懐から出した時計を見ながら答える。
「問題が起きなければ、1時には着きます。次の休憩はありませんから、しっかり休んでおいてください」
「分かりました。ありがとうございます」
凝り固まった筋肉をほぐす為、停車している馬車の列に沿って歩く。馬車は9台あり、先頭まで来たところで妙なものが見えた。ある線を境に厚手の布をかぶせたように地面と木々が白くなっているのだ。
あれは雪?ああも綺麗に天気が分かれるものだろうか。目を凝らしていると、木々の合間に何か動くのが見えた。ぱちぱち瞬きして正体を見極めようとしたが、もう出てこなかった。
気のせいか。寒くなってきたし、そろそろ戻ろう。
踵を返したが、ふと道脇に立つ木に目が止まった。樹皮の一部が捲れて中が剥き出しになっている。獣が爪研ぎをしたのだろう。木の深くまで食い込んだ大きな爪痕を見て、ミシェルは背筋にひやりとしたものを感じた。