破談は突然に 02
どこか呆然とした様子でビビは自室に戻ってきた。
そんな彼女からエリスの来訪の目的と、その場で何があったのかを聞き出したノエリアは、思わず心の中で吐き捨てた。
(やっと素直になったのか、あのヘタレ)
目の合わない婚約者の王子様の真意はかなりバレバレだった。
ビビがよそ見をしている時は、ビビの姿を物言いたげにじっと見つめている姿がよく見受けられたからである。
ノエリアの大切なお嬢様は、ちょっと思い込みの激しい所がある。
いくらエリスがビビを大切にしていると思います、と周りが告げても信じてくれないし、また、エリスの言葉を伴わない態度に思うところもあったので、ノエリアは仕方なくビビに同調し共感する方向で彼女に寄り添う事にした。
結局はハッキリと気持ちを言葉にせず、露骨に目を逸らすという誤解を招きかねない行動を取ったあのヘタレ王子が悪いのだ。
彼には彼の言い分があるのだろうが、ノエリアに言わせれば、お嬢様を悲しませた時点で万死に値する。よって彼を擁護する気持ちにはとてもなれなかった。
(今更素直になっても手遅れですけどね……)
エリスはこれから人ならざる女神の化身と聖なる婚姻を結ばなければならない。
大切なお嬢様の婚約の結末に、ノエリアは塩とレモンを無理矢理口の中にねじ込まれたみたいな気分になった。
(お可哀想なお嬢様)
あんなヘタレ男に選ばれたせいで、十六歳からの二年間を無駄にするなんて。
トラジェット侯爵家は名門と呼ばれる名家だ。建国以来の忠臣でもある。その令嬢がフリーとなったのだ。きっと求婚者が列をなすはずである。
願わくばその中にエリスよりもずっと優れた男が居ればいい。
地位や顔では敵わなくても、中身でずっといい人はいくらでもいるはずだ。何しろこの世界の半分は男なのだから。
しかし、そんなノエリアの願いは叶わなかった。
――ノエリアの大切なお嬢様は、神殿に入るなどと言い出してしまったからである。
◆ ◆ ◆
「姉上! 神殿に入るって正気ですか?」
はしたなく大声を上げながら飛び込んできた弟のライナスに、ビビは眉をひそめた。
普段首都の寄宿制の学校に通っていて、面倒がって長期の休みにしか邸には顔を出さないライナスだが、どうやらビビが聖職者になると聞いて、驚いて飛んで帰ってきたらしい。
ビビはライナスの両方のこめかみに握り拳を当てると、思い切りぐりぐりしてやった。
「痛い痛い痛い! 何するんですか姉上!」
十三歳のライナスはまだビビより背が低い。だからこそできる攻撃だ。
「淑女の部屋に入る時はノックをしなさい! それを怠ったあなたが悪いのよ」
「……ごめんなさいお姉様。以後気を付けます」
姉弟の力関係は圧倒的にビビが上だ。ライナスはビビには強く出れないので、素直に謝ってから改めて詰め寄ってきた。
「それより聖職者になるだなんて正気ですか! まだ将来を悲観する歳じゃないでしょう! 殿下との婚約は残念な事になりましたが、いいお話が結構来ているって聞きましたよ!」
トラジェット侯爵家は名門である。
また破談にあたっては事情が事情なので、ビビには一切の瑕疵がない事を王家側が表明するという異例の形となった。
そのため、ビビへの求婚者は何人も現れた。
それも上は傍系王族たる公爵家から、家格は劣るものの中央で大きな権勢を振るう伯爵家まで。
ビビより少し年下の男性が多かったが、家柄にも人柄にも非の打ち所がないいい縁談はいくつもあった。
「確かにいいお話はあったんだけど……結婚というもの自体に心惹かれなかったのと、ふと今なら傷心を理由に神殿に入れば、男性に頼らずとも生きていけるのではと気付いてしまったのよね……」
ビビは主に自称愛の狩人のせいで男性に夢も希望も見いだせない。
両親の姿を見ていると、幸せな結婚生活もイメージができない。
だが世間がいつまでも未婚の女性に向ける視線は厳しい。
この国には男尊女卑が根強く、例えば学校教育も高等教育も男性のもので、女性はむしろ知識を付けすぎると生意気だと嫌われてしまうため、良妻賢母になるため以上の学習はさせてもらえない。それも学校ではなく家庭教師に付いて学ぶものとされている。
母、レイチェルは父の女好きを許容する事で望み通りの生活を手に入れた特殊例である。
彼女が商会を自由にできているのは、父との結婚と理解、そして庇護があったからで、実は商会の表向きの経営者は父という事になっている。
ある意味望み通りの生活を手に入れたレイチェルの事例は除外するとして、ビビがどこぞの貴公子に嫁いだ場合、待っているのは夫の性質や背景に大きく影響される貴族夫人としての生活だ。
だいたいの場合、第一に跡取りを産み、第二に夫を支える社交活動と、夫の両親と上手くやっていくよう求められる。
夫が善良な人物であればいいが、浮気癖はまだいい方で、強烈な両親が付いていたり、暴力や奇妙な性癖があったら待っているのは厳しい生活である。事前調査では問題がなくても蓋を開けてみれば……というのはよくある話だ。
それよりも気付いてしまったのだ。今なら傷心を理由に聖職者になれる。そして《母なる君》の聖職者は戒律で婚姻できない。結婚したければ還俗し、神の家を出なければいけないと決まっている。
夫くじの当たりを引き当てる確率に期待するよりも、《母なる君》に仕える聖職者として生きる方がより楽に生きられそうだと思った。
聖職者も霞を食べて生きている訳では無いので、その生活には寄付金がものを言うと聞いている。
正直ちょっと世俗権力に左右されすぎでは、と思わないでもないが、幸いトラジェット侯爵家はお金持ちだし、王家側の事情で破談になったから多額の慰謝料が支払われた。
「止めても無駄よ、ライナス。もうお父様とお母様からの了承は貰ったから」
ビビはライナスに向かってにっこりと微笑んだ。
「…………」
ライナスは塩っぱいものを食べた時の顔をして沈黙した。
ビビは両親を説得した時の事を思い返す。
商会の経営にしか興味のない放任主義のレイチェルはあっさりと神殿入りを許してくれた。
脳味噌お花畑の愛の狩人は、「女の幸せは望まれて結婚する事だ」などとのたまい渋ったものの、承知してくれなければ髪を毟ると言って脅したら許してくれた。
そんなビビを目の前に、ライナスはと言うと……。
(本当はエリアス殿下の事がショックだったのでは……)
なんて考えていた。
姉はエリアス王子と目が合わないことをやけに気にしていた。ライナスから見ればそれは過剰なように思えたので、姉は淡い気持ちをエリアスに対して抱いているのではと疑っていた。
しかしもしこの考えを口にすれば、姉はきっと烈火のごとく怒る。間違いない。
姉の性格はよく知っている。外ではお淑やかで通っているが、ライナスに対してはかなりの暴君である。
世の中の弟が大抵そうであるように、ライナスは五歳年上の姉には絶対に勝てなかった。なんなら下僕扱いも受けていた。
まあ好きか嫌いかで聞かれたら好き寄りではあるのだが。何だかんだでビビとライナスはこの世に二人きりの血を分けた姉弟で家族である。
しかしこの姉にどうやら惚れているらしいエリアスの気持ちは、ライナスには到底理解できなかった。顔は美人かもしれないが性格がきつすぎる。
(本性を知る前に破談になったのは殿下にとっては良かったのかも……)
こっそりと心の中でライナスはつぶやいた。