破談は突然に 01
「今夜の王宮の晩餐会やだな……行きたくない……」
ビビは自室のソファに行儀悪くしなだれかかりながら愚痴を漏らした。
「お気持ちはお察し致しますがお嬢様、そろそろ準備をしなければいけませんよ。はい、ドレッサーの前に移動してください」
声をかけてきたのはビビの身支度の為に訪れたノエリアだ。女性の支度には時間がかかるものだ。夜の晩餐に出席するためには、その三時間前には準備を始めなくてはならない。
「あの人本当に何なの? 何を考えているかわからない……」
エリスとビビの結婚が一年半後に予定されているのは、新たな聖女が今年の春分に降臨するためだ。
既に身罷った先王――エリスの祖父にあたる人物に嫁いだ先代の聖女は、昨年の冬至にその役目を終えて生き人形に戻った。なお、先代の聖女はエリスの祖母でもある。
聖女は降臨と同時にレナード王太子の婚約者となる。聖婚は年末の予定で、王太子と聖女の婚姻を待ってから第二王子の婚姻が執り行われるべきだという国の意向が働きそう決まった。
王家の美術品の為なら割り切れる。割り切れるはずなのだが、憂鬱に感じてしまうのはマリッジブルーという奴なのかもしれない。
はあ、と深いため息をつき、身支度のために渋々と重い腰を上げようとした時だった。外から自室のドアがノックされた。
何事かと思いノエリアに応対してもらうと、そこに居たのはこのタウンハウスを取りまとめる執事だった。
「申し訳ございませんお嬢様。実はエリアス殿下がお越しになっていまして……」
「……そんなお約束はなかったと思うんだけど」
「ええ、左様でございますが、何でも緊急のお話があるとの事で……旦那様が応対されていたのですが、その旦那様がお嬢様をお呼びになっているのでございます」
夜は愛人のいる別邸に入り浸りの父のグリフィスだが、一応日中は侯爵としての執務の為本邸に顔を出す。
それはさておき一体何事だろう。
ビビは眉をひそめるとソファから立ち上がり、グリフィスとエリスが待つ応接室へと向かった。
そしてその場で聞かされたのは、レナード王太子が『真実の愛』とやらに目覚めて、お相手のお嬢様とどこぞへ出奔したという前代未聞の大事件が発生したという話だった。
「兄上がこんな無責任な事を仕出かすとは思わなかった。後は頼むという書置きを置いて、どうやら東の大陸行きの船に乗り込んだらしい……」
ビビがグリフィスの隣に座ると、エリスからレナードがいなくなった状況をはじめから丁寧に説明してくれた。その表情はげっそりとやつれ果てている。
「……王太子殿下の捜索はどうなっていらっしゃるんですか?」
「もちろん人をやって捜索しているが、探し当てたとしてもきっと素直には戻ってこられないだろうし、何よりもこのような駆け落ち騒ぎを起こした時点で王太子としても聖女の夫としても失格だ。このような不祥事を起こした者が相手では、《母なる君》の怒りを買ってしまう」
聖女は伴侶の愛を受けて自我を持たぬ人形から神の現身へと姿を変える。
伴侶の愛、国民の信仰、そのどちらが欠けても国土の実りに大きな影響を与えると言われている。
「……という事は、エリス殿下が次代の国王に……?」
「そういう事になる」
「では、私たちの婚約は……」
「…………」
「残念ながら破談という事になるな。エリアス殿下は聖女猊下の伴侶となられるのだから」
ぐっと黙り込んだエリスに代わって、核心をつく言葉を述べたのはグリフィスだった。
(何て事……!)
婚約がなくなる。その話を聞いてビビの心の中に沸き上がったのは喜びと虚しさがないまぜになった何とも複雑な感情だった。
この気持ちをどう形容したらいいのだろう。うまい言葉が思いつかない。
ただ一つ言えるのは、目の合わないエリスとの接触はビビにとっては大きなストレスになっていたという事だ。
ギリ、とエリスの方から歯を食いしばるような音が聞こえてきた。そしてぼそりとつぶやいた。
「……こんな事になって何と言ったらいいのか……ビビはもしかして喜んでいるのかもしれないが……」
「いえ……そんな事は……」
嬉しいという気持ちはある。だけど、それだけではないので、ビビは茫然としながら気が付いたらエリスの言葉を否定していた。
「いいんだ。取り繕わなくても。ビビが王家の要請を断り切れず私との婚約を受け入れた事は知っている。でも、これだけは知っておいて欲しい。私は君の事が好きだった」
相変わらず目は合わないし表情も変わらない。だけどどこか悲痛な響きをもつ声で告げられて、ビビはぽかんと目と口を開けた。
コホンと隣から小さな咳払いの音が聞こえてきた。グリフィスだ。
「私は少し席を外させて貰う」
自称愛の狩人グリフィスはそう囁くと、ビビが止める間もなく颯爽と立ち上がり、意味ありげな目配せをエリスに送ってから応接室を出て行った。
取り残されたビビは困り果ててしまう。
「正直好きだったと言われても信じられません。だって一度も私の顔を真正面から見て下さらなかったではありませんか。殿下は否定されていましたけれど……それに贈り物だって、ご自身で選ばれた事は一度もなかったのではありませんか?」
「それは……! 私は自分のセンスに自信がないんだ。普段それなりに見えるのは周りがいいようにしてくれるからで……侍従がいなかったら適当に目についた服を着て周りを失望させるような人間なんだ」
いえ、そのお顔立ちなら何を着ても似合うと思いますけど、という言葉をビビは心の中に呑み込んだ。
「目が合わない事への言い訳は何を用意されているんですか?」
「……っ、それは、ビビの顔が、愛らしすぎて……」
その言い訳を聞いた瞬間、ビビの頭の中に浮かんだのは、「は?」の一文字だった。
(何言ってんだこいつ)
ビビはノエリアに吹き込まれ……いや、教わった庶民言葉を心の中でつぶやくと、まじまじとエリスの氷の精霊のような顔を見つめた。
「ビビの顔を見て自制できる自信が無かったんだ。昔、可愛がりがすぎて猫を自殺に追い込んだ事があって……その時のようになるのではと兄上に忠告されて……」
「……周りから強制的に婚約者として私を押し付けられたので、てっきり嫌われているから目が合わないのだと思っていましたが」
「そんな事はない! 最終候補に残った女性の中からビビを選んだのは私だ! 私はずっと前から君の事が気になっていたんだ」
やっと目が合った。かと思ったら、いつもの取り澄ました顔はどこへやら、かあっと顔を赤らめて再び目を逸らされてしまった。
「婚約が内定するまで殿下と私の接点などなかったと思いますが……」
「……その通りだ。私が一方的にビビを見た事があるだけだ。こっそりと変装して王立美術館に出かけた時に、じっくりと絵に見入り、キラキラと目を輝かせる君の横顔に思わず見とれた」
「はあ……」
「その後、妃選定の最終候補の中に君の絵姿を見た時は運命かと思った」
「さようでございますか……」
切なげな声での告白だったが、自分でも驚くほど心は動かされなかった。
むしろビビの中に沸き上がったのは怒りだ。
なんてくだらない。
そんな理由のせいでこれまで自分は悩まされていたのかと思うと、猛烈に腹が立ってきた。
「今更そのような事を告白されても仕方ない事ですね。殿下は聖女猊下をお迎えしなくてはいけないのですから」
冷たく突き放すと、エリスの顔が泣き笑いのように歪んだ。
「ビビの言う通りだ。……私が選んだばっかりにこんな嫌な思いをさせてすまない。そもそも君にとってもこの婚約は最初から本意ではなかったんだろうし……」
いや、そこは違う。
王子妃は公務があるからちょっと面倒だなと思ったけれど、美形の夫、実家への利益、王家の美術品を間近で見られる権利の三つが手に入るから、かなり自分にとって黒字になると計算して受けたので嫌々ではない。
と心の中で否定はしたが、あえて伝える必要はないかと思い、ビビは黙っておく事にした。
これからエリスは国の為に聖女の夫とならなければいけないのだ。ならばその決意を揺るがすような発言はすべきではない。
憤りと同時に、何か喪失感のようなものを感じるような気がするが、きっと気のせいだ。
ビビは自分の感情に蓋をすると、目を閉じて深く息をついた。