デビュタント・ボール 02
無事デビュタント・ボールを終え、トラジェット侯爵家が首都に所有するタウンハウスに帰ってきたビビを待っていたのは侍女のノエリアだった。
ノエリアは漆黒の髪に茶色の瞳のどこにでもいそうな顔立ちをした女性である。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま。遅くまでありがとう」
ノエリアをねぎらいながら外套を預けると、ビビは自分の部屋のソファにぐったりと身を預けて座り込んだ。
「いかがでしたか? 今日のデビュタント・ボールは」
「どうもこうもないわ。いつも通りよ。今日もエリス殿下とは目が合わなかった」
むっつりとしながら答えると、ノエリアはため息をついた。
「またあの方は……」
エリスはビビの何が気に食わないのだろう。
性格を挙げられたらどうしようもないが、少なくとも家柄や容姿はエリスの横に並んでも見劣りしないと思っている。
ビビの顔は四十後半になっても尚ご婦人方の視線を惹きつけるグリフィスにそっくりだ。
グリフィスは娘のビビから見ても若々しく妖艶な魅力を備えた美形である。
金色の髪もつり目がちの緑の瞳も、ビビの容姿はグリフィスとの血の繋がりを色濃く感じさせるもので、そこにノエリア達侍女の努力が加わっているから、十分に美人の範疇に入るもののはずだ。
髪を解き、化粧を落としてもらってから、ビビは私室に付属する浴室で浴槽に浸かり、一日の疲れを癒しながら舞踏会でのダンスを反芻した。
身体能力の高いエリスとのダンスは踊りやすいけれどつまらない。
目が合わない事への意趣返しにわざと躓いたりリズムを崩してみても、涼しい顔をして取り繕ってしまうのだから。
やり過ぎて足を踏むというミスを犯してしまっても、「ビビは羽根のように軽いから大丈夫」的な体が痒くなる台詞が返って来る。
ビビに言わせるとエリスの性質の悪いところは、他の人から見ると非常に理想的な婚約者として振舞っているという所にある。
だから嫌われている気がすると言っても誰も取り合ってはくれない。
殿下も恥ずかしがっているだけだ、ビビの考えすぎじゃないのか、などと言われるだけなので、ビビの中にはエリスに対するもやもやとした気持ちが、澱のように積もっていくのだった。
そっちがそのつもりなら、こっちは第二王子妃としての立場を最大限に活用してやる、と考えてはいるものの、ふとした時にこの結婚の話がなくならないだろうかと思ってしまうのは、マリッジブルーという奴なのかもしれない。
目を合わせて貰えない理由がどうしてもわからなくて、ビビはこれまでのエリスとの接点を顧みた。
思い返してみれば、ビビはエリスとの婚約が決まるまでほとんど言葉を交わした事がなかった。
デビュー前の貴族の娘はそもそもあまり外を出歩かないものだ。
家庭教師から淑女教育を受け、出歩くとしても親しい友人の家へのティーパーティーに出かけたり、侍女と一緒に公園や博物館などを散歩する程度である。
エリスは第二王子だ。絵姿が出回っている上に、特別な式典の際などに遠目に見た事があるから顔だけは知っていたし、家柄から妃候補に上がっていた事も把握はしていたけれど、実際に対面して言葉を交わしたのは婚約が内定してからのエリスとの顔合わせの席だった。
家柄、派閥、貴族間のパワーバランス、本人や家族の思想傾向、近親者に障害を持つ者がいないか――王子妃として必要な要件を満たす年頃の令嬢は、王宮で開かれる王妃主催のティーパーティーやサロンに招かれ、慎重に資質を見極められる。
その結果国王夫妻や廷臣の意見を元に選定されたのがビビだったらしいので、彼としても本当は異論があったのに何も言えなかったのかもしれない。
(我慢して結婚生活を送って下さったらいいけれど……鬱憤をぶつけられたら怖いわ……)
ビビは顔を鼻まで浴槽に沈め、はしたないがぶくぶくと鼻から息を吐きだした。
ノエリアはさすがにそんな事はないと思う、と否定してくれたけれど、相手は何を考えているのか得体のしれない人物である。ありとあらゆる可能性を考えて備えておいた方がいい。
(そんな事をされたら、例え不敬罪に問われても殿下を私の生活領域から締め出すしかない)
いや、むしろノエリアに協力してもらって、股間に一撃を加え男性機能を失わせるべきだろうか。
男性の暴力性の源は男性機能にあるという学説を聞いた事がある。
ノエリアは王家に嫁いだ後も女官として同行してくれる事になっている。少し年上の彼女はビビの事をとても慕ってくれていて、もしエリスが暴力的行為に出た場合は反撃に協力してくれると言ってくれた。
(男性機能に攻撃を加えた場合、罪に問われるよりも、男の恥として公表なさらない可能性があるわ。そうなったら私は第二王子妃の立場だけを受け取っていい思いができるのではないかしら)
人としてどうかという危険思想だが、眠気とストレスでちょっとおかしくなっている今のビビには大変魅力的に感じられた。
ビビにとってエリスに嫁ぐメリットは地位や身分が手に入るというだけではない。実は王室に代々伝わる有名な宝飾品や美術品が目当てだった。
ビビの趣味は芸術鑑賞だ。エリスとの婚約の話が来た時頷いてしまったのは、それらを間近に見て、あわよくば手に取れるかもしれないと思ってしまったからだった。
既にエリスとの顔合わせを済ませてはいたが、その時は美貌の王子様に気後れして緊張していたので、彼の態度がおかしい事にビビはまだ気付いていなかったのだ。
デビュタント・ボールが終わったので、ビビはこれから一人前の成人としてエリスにパートナーが必要な時には駆り出される事になる。
それだけではなく、婚約者としてプリシラ王妃から結婚後の公務について学ぶ事にもなっていた。
幸いビビはプリシラ王妃に可愛がってもらっているので、公務の勉強をするのは構わないのだが、エリスと一緒に社交に駆り出されるのは気が重い。
ビビは深くため息をつくと、浴槽の淵にもたれかかった。