夕暮れの展望広場 2
「それは――」
彼女は何か言い掛けたようだったが、言葉を飲んだ。あの奇妙な表情といい、何かを言いかけてやめるのといい、どこか、普段の彼女とは様子が違った。彼女は言いかけた言葉の代わりのように問うた。
「荘介、おまえ副部長は押しつけられたと思っていたのか」
「桝田先輩が部長なのはわかりますよ。実力と人望とを足したら、部内で一番です。誰かさんは実力を補って余りある人望のマイナスポイントがありますから」
僕の嫌味に、彼女は低く笑った。
「自覚はあるよ。で、おまえは」
「筆力は最下位確定でしょう。あなたが言うとおり、私は昼行灯ですから、人望があるとも思えません。断らない人間に面倒を押しつけただけではないですか。うちの学年はそうとがった人間はいませんから、誰でも務まります」
ふうん、と彼女は呆れたように鼻を鳴らした。
「まあいいや。おまえの学年がそんなに丸く粒がそろってるとは、たぶん亨も思っていないだろうが、引いてしまった貧乏くじだ。投げ捨てないで部長までちゃんと務めろよ」
亨。桝田部長を下の名前で呼び捨てにできるのは、彼女くらいだ。
「おまえは人を買いかぶってるし、自分を過小評価しがちだ。私だって書くのはいつも怖い。亨もそうだよ」
「そうなんですか」
意外だった。いつでも自信満々で、人にも自分にも一番厳しい鈴本先輩が?
「ああ、怖い。言葉はいつだって怖い。使い方を誤れば人を殺す力だってあるんだ。ペンは剣よりも強いという言葉は、平和的に物事を解決しましょうという意味ではなく、言葉は、実際の凶器よりもさらに深く人を傷つけうるという意味において正しい。だからこそ、本当の意味で人を救うこともできるのが言葉であるべきだ。私はいつかそんな言葉を書きたい。まだぜんぜん到達しないがね。このままでは一生たどり着けないかもしれない。
私が本当に怖いのはむしろそちらだ。道半ばで私が書けなくなれば、私が書くはずだったものは永遠に存在できなくなる。そう思うと、叫びだしたいほど恐ろしくなる」
「鈴本先輩がたどり着けないなら、誰がたどり着けるんですか。誰よりも先を登っているのに」
彼女はまた笑った。
「だから、おまえは人を買いかぶりすぎだというんだ。私の登るべき山とおまえの登るべき山は違う。みんな違うんだよ。決められたそこを登るしかない」
「誰が決めるんですか」
「私の場合は、超越的な何かだ。向こうからくるもの。神様といってもいいかもしれない」
「私の場合?」
「荘介の場合は違うかもしれない。おまえは自分の登る山を自分で決めているのかもしれない」
私から見ればうらやましいけどな、と彼女は付け足した。
長い沈黙が下りた。
彼女はまた空を見上げた。蜂蜜色だった雲は、いつの間にか傾いていた夕暮れの陽射しに、下の方のもこもこしたちぎれ雲は淡いグレーに、上空のすっと刷毛で掃いて描いたような高い雲は、杏色と桃色のグラデーションに変わっていた。
「絹雲だ」
彼女は色鮮やかな雲を指差して笑顔になった。お気に入りのものを見つけた子どものような、含みのない素直な笑顔だった。
「好きなんですか? そういえば、先輩の雲ですね」
下の名前で呼ぶ勇気のある人間がうちの高校にいるとは思えないが、彼女の名前は絹野なのだ。
溶けていきそうにはかなくて、空に一番近い。どの雲より高いところで陽の光に染まって鮮烈に輝く雲。ぴったりだ、と思った。
それを声に出して言う気はしなかったけれども。
「それより、おまえ、電話に出なくていいのか? さっきからずっと鳴ってるぞ」
「え!」
私は慌てて手すりの柱に寄りかからせていたリュックサックに飛びついた。校内では放課後になるまで使用禁止なのだ。朝、マナーモードにして、そのままになっていた。
リュックサックの前ポケットに入れっぱなしにしていたスマホの振動を、手すりに背中を預けていた彼女は感じることができたのだろう。にもかかわらず、今の今まで黙っていたなんて。人が悪いにもほどがある。
画面に表示されていた時計を見て、部室を飛び出してから小一時間がたっていたのに気がついた。
着信は桝田部長からだった。一旦は切れてしまったそれに、鈴本先輩から数歩離れて、慌ててコールバックした。
「すみません、リュックに入れたままになっていて」
『鈴本は見つかったか』
いつも冷静な部長の声には、珍しく憔悴の色があった。
「はい。ここにいます」
部長の安堵のため息が電話越しにもはっきり聞こえた。
『よかった。見つからなければ逆に連絡してくるだろう、連絡がないということは、見つけて、そのまま鈴本に散々からまれて、電話どころじゃないんだろうと思ってはいたんだが』
見てきたように言う。お見通しというやつだ。
「その通りです。着信、気がつかなくてすみませんでした」
『それはいいんだ。悪いが、頼みを聞いてくれるか』
「私にできることなら」
鈴本先輩を説得して、部室に連れて帰れ、とか言われたら即断るつもりだった。この人にしたくないことをさせるのはお釈迦様でも無理だ。
『鈴本から目を離さないで、駅まで送ってほしい。駅で別れたらすぐ連絡をくれ。鈴本がすぐに帰るつもりがないなら、それはそれで構わないから目を離すな。それ以外でももし何かあればすぐに連絡してほしい』
私は面食らった。桝田部長がこんな強引な依頼をするのは今までに記憶がなかった。形式的にはお願いだが、語調はほぼ命令である。
「あの、私の方の都合は……」
『ん? 渡井、この後なんか予定あるのか』
「……いえ、何も」
明日が締め切りの数学の課題がまだ五、六ページも手つかずなのが、この後の予定、にカウントされないのであれば、だが。
『じゃあ、頼む。他の奴には頼めないんだ。オレも今は動けない』
市村の対応だろうか。そう思うとむげに断ることもできない。
「わかりました」
『すまない』
「電話、亨か?」
鈴本先輩が手すりから身を起こした。私がうなずくと、珍しく嬉しそうな顔になって、駆け寄ってきた。
「ちょっと貸せ」
抵抗する間もなく、飛びつくようにして襲ってきた彼女にスマホを奪われた。どちらかといえば小柄な鈴本先輩に対して、こちらは筋力こそさほどなく、ひょろっとしてはいるが、身長は標準的な高二男子である。不意をつかれたとしか言いようがない。
こんなに敏捷に動く人だったのか。
「亨? 何だよストーカー活動か」
笑いながら言うことではないと思う。心配のあまり憔悴していた部長の第一声と、その後の安堵の吐息を思い起こして、私は雲の上の人だと思っていた部長に、妙に同情した。部長が雲の上なら鈴本先輩は雲上どころか天上人のはずだったが、こうやって話していると、調子が狂う。
鈴本先輩は、うん、わかってる、いやそれはダメだ、などと返事をしながら、部長の言うことを聞いていた。多少のお叱言を食らったのか、しかめっ面だ。
「うるさいな。わかってるよ、脱走はしない。ちゃんと荘介に駅まで送ってもらうから安心しろ」
鈴本先輩は捨てぜりふのように言うと、勝手に通話を切ってしまった。半ば放るようにスマホを返してよこすので慌てて受け取った。
これで、彼女本人に余計な世話だと断られてめでたく放免になるという淡い希望は潰えた。
どうやらもう少し、お仕えしなければならないらしい。