夕暮れの展望広場 1
廊下に出たが、彼女の姿はもうどこにも見えなかった。
カバンを持って行かなかったということは、おそらく駅に向かってはいないだろう。校内か、学校の近く。
校内は文化祭の準備が加速してきつつある時期だった。あらゆる教室、部室はおろか、廊下やピロティ、屋上まで、大道具や衣装を製作したり当日のシミュレーションをしている生徒たちでごったがえしていた。
数か所心当たりをチェックしてから考えた。校内に彼女が一人になれる場所はないのではないか。
私の予想は、三年の下駄箱に彼女の上履きがきちんと揃えられ、外靴がなかった時点で確信に変わった。
私は校門を出ると、城趾の市民公園へと走った。展望広場だ。最初に探すべきはそこだろう。
坂道を駆け上がる。急な運動に、わき腹が痛んだ。
なぜ私は走っているんだろう。あんな、いやな人のために。
それでも速度はゆるめられなかった。傲然と顔を上げて、嫌味なまでに落ち着き払って立ち去った後ろ姿の、一瞬の残像が脳裡から離れない。彼女が見せたかったであろう冷静な素振りを、一つだけ裏切っていた、その真っ白くなるまで握りしめられてわずかにふるえていた拳に、気がついてしまったのだ。
引き受けたからには副部長の任を果たさなくてはならない。どんなにいやな人でも、彼女は文芸部員だ。私には部活から彼女を無事に帰らせる責任がある。
もうそんなに彼女のことをいやな人だと思えないということにも、目を背け続けるわけにはいかなかった。
好むと好まざるとに関わらず、私は彼女を追いかけるしかなかったのだ。
立木の切れ目にたどり着いて、私は広場を見渡した。この前もたれ掛かっていた手すりのまさに同じ位置に、彼女は立っていた。ただし、今回は、こちらに正面を向けて、手すりに寄りかかるようにして。
私は安堵に崩れそうな膝に気合いを入れて、肩で息をしながら彼女に歩み寄った。
「なんだ、荘介か」
彼女は薄く笑って言った。その態度に、意地でも心配したとは言いたくなくなった。
「忘れ物です。こんな大きいもの忘れないでください」
スポーツバッグをつきだした。課題が多いため教科書や参考書を大量に持ち帰らせるうちの高校らしい、サンドバッグのように重いカバンだ。当然ながら自分のリュックサックも同様に重い。
「文化系ど真ん中の文芸部に、ウェイトつけて坂道ダッシュさせられるトレーニングメニューがあるなんて、聞いたことありませんでしたよ」
「走る文芸部か。悪くない」
彼女が受け取ろうとしないので、バッグは手すりの足元、砂利敷きの地面に置いた。数日来続いた気持ちのいい晴天のおかげで、地面はからりと乾いていた。
そのまま私は自分のリュックサックも隣に降ろして手すりにもたれ、街を眺めた。景色は、いつかの曇り空の日とはうってかわって、はるか遠くまで見渡せた。線路のさらに向こう、高速道路の高架を境に市街地が切れ、雑木林や田んぼが広がり始めるあたりまで、くっきりとした風景が、晩秋の日差しで蜂蜜色がかったトーンに染まっている。そのむこうには遙かにかすむ山並み。空は青さを次第に失い、妙に白々とした夕暮れ一歩前の色に変わりつつあった。
「ちょっと、やりすぎたかもしれませんね」
私は、空に浮かんだ、やはり蜂蜜色のちぎれ雲を、目で数えるともなく数えながらいった。
「何が」
「市村です。ミーティングでの指摘を気にしていたのは知っているでしょう」
「あの作品はよかったんだ。エッセイのほう」
「ミーティングでは、私の記憶する限り、確かに、結構な勢いでこき下ろしていましたよ。いつものことすぎて私も十分フォローし切れていなかったと思いますが。その点に関しては謝ります。申し訳ありませんでした」
「何で荘介が謝るんだ」
「部員のフォローは部長と副部長の仕事です。いくら、面倒だからって断らなさそうな私にみんなが押しつけてきた役職だろうと、私は副部長で、市村は私の同期ですから、私がもっと気を配ってやらなければいけなかったかと」
「それは違うだろう。言葉を受け止めるのは彼自身の責任で、他の誰も代わってやれないんだ。彼はもっとあのエッセイに自信を持って、磨けばよかった。あの作品を磨けるのは彼だけだったのに。
もっともっとよくなるはずだったのに、あれでは作品がかわいそうだ」
私は驚いて、彼女を振り返った。彼女は相変わらず手すりに背中を預けて、両ひじで身体を支えるように寄りかかり、空を見上げていた。
斜面を吹き上げてきた風が、その髪を散らして、表情を隠した。
「市村の作品をそんな風に思っていたんですか」
「どういうことだ」
「市村は絶対、そんなこと思ってもいませんよ。鈴本先輩に、ボロクソにけなされて、否定されたと思っています。一文の価値もないと言われたと」
今度は彼女が驚く番だった。私を、あの大きな切れ長の目で見つめる。
「私はそんなことを言ったか。ここを直したらもっとよくなるという箇所を一通り指摘しただけだ」
「市村はああ見えて繊細な男です。傷つきやすい自尊心を抱えて、たぶんその事に忸怩たる思いも抱えているからこそ、あの作風なんですよ」
「私は作品が良くなればそれでいいと思う。作品の前には個人の自尊心なんか無意味だ。作品の方が、書き手に書くことを強要するんだよ。書き手はそれにひれ伏して書くしかない。みんなそうじゃないのか」
私は絶句した。
「……それは、人それぞれではないですか。そこまで覚悟を決めて、自尊心を横においてまで著述に立ち向かえるかは」
「それが普通か」
「私は、鈴本先輩の言うような態度で取り組みたい。でも、やはり、怖いです」
「怖いか」
「何もかも自分を守るものを捨てて、言い訳も留保もなしで書くのは怖い。万人受けしそうなことはなにかと考えてしまう自分はいます。かっこつけたり、きれいに取り繕ったり、無難に逃げたり」
「だが、おまえの逃げは自覚的だ。わかっているんだろう」
「はい。だから私は、あなたからコメントがもらえないんでしょう。それはわかっている。私なりにずっとあがいているんです。私はあのエッセイが書けた市村が正直うらやましかった。あなたからあれだけの言葉を引きだせるものを書いたあいつが。私もあれはよかったと思っているんです。だから、さっきのすり替えに本当に腹を立てているのは私の方だといえるかもしれません」
彼女は奇妙な、聞いたことのない言語で唱えられた呪文を聞いたような顔をした。














