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絹雲  作者: 藤倉楠之
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雨上がりの展望広場 2

 私は鈴本先輩の隣に並んで、手すりに手を突いた。


「みんな、そこまでの覚悟はまだできていないし、そこまでの技術には到達していないんです。言うまでもないですが、私も」


 雨は上がったのにどんよりと曇ったままの、曖昧な薄闇ににじむ街を見下ろしながら、私は言葉を探した。


「幼稚園児のお母さんたちはお弁当を作りますね。中には、冷凍食品や出来合いのパック入りのおかずが一切禁止の園があるそうです。ご家庭の事情は様々でしょうから、私自身は冷凍食品で何が悪い、と思いますが。冷凍食品では愛情が伝わらないというのは、教育機関にはあるまじき偏見ではないかと。逆に、お菓子を入れるのは困るけれど、それ以外でなら、好きなものだけを入れてやれ、苦手なものを一切入れないように、というルールの園もあるんだとか。残さず食べたという達成感を重視しているんだそうです」


「いろんな分野に首を突っ込むタイプだとは思っていたが、幼児教育にまで興味があるとは思わなかったな」


 彼女はまた、あの薄い笑いを浮かべた。よくわからないが、この状況を面白がっているようだった。


「母が幼稚園教諭をしているというだけです。他意はありません」


 あの鈴本先輩と一対一でしゃべっていると言うだけで恐ろしいのに、なぜか反論をする羽目になっている。我に返ると足がすくみそうだった。私は深呼吸をして、制服のズボンで手のひらににじんだ汗を拭き、体勢を整えた。


「料理が苦手なお母さんがお弁当を作って、一人では食べ慣れない子どもが一生懸命箸を使って食べているようなものなんです、今の私たちは。子供っぽい味付けのものもある。出来合いの力を借りることもある。でも、何とか形になれば嬉しいし、子どもが弁当を完食してくれるように、今は未完でも最後のセンテンスまで読んでもらえれば、明日また弁当を作る元気がわくんですよ。明日は明日でまた違う弁当になったとしても、少しでもそこに、愛情を弁当に込めるみたいに、自分の思いを作品に乗せる技量が上がれば、それはそれでありなんじゃないでしょうか」


 息を継いで、続ける。彼女は手すりにもたれたまま、遠くを眺めるような目で町を見下ろしていた。興味のなさそうなそぶりだったが、聞いているということはわかった。


「読む方だってそうです。著名な文豪の作品をあれもこれも読んでないからと言って、それが恥ずかしいということにはならないのではないですか。小学生で太宰を読んだとしても、今読めばまた違う作品のように感じられて、全く違う感想を持つでしょう。いつ読むかは、結局出会いの問題でしかないし、今、甘くて口当たりのいい読み物ばかりを読んでいるとしても、文字と言葉を媒介にした表現形態に親しんでいることには変わりがない。その経験があればこそ、いつか苦い作品のよさもわかるのではないですか。その上で甘党だというのなら、それは各人の趣味嗜好の問題だ」


「だけど、書くのは料理とは違う。上手く作れなかったからといって子どもに弁当を持たせないわけには行かないだろうが、書くことは誰かに強制されてするものではないのだから、上手く書けるまでそこに妥協が存在すべきではないだろう」


「それこそ、本質でしょう。私もあなたも書かずにはいられない。書けば誰かの前に出さずにはいられない。それだけははっきりしている。本能というべきか、業というべきかわかりませんが。彼らも私も、多少の甘えはあるかもしれないが、妥協があるわけではない。そこには大いに技量の差こそあるけれど、彼らが書いてきた努力を見ないのは違うと私は思います」


 そうか、と言ったきり彼女は押し黙った。


 どうしてこんなことになってしまったんだろう。


 彼女の背中をみて声をかけたときは、いや、彼女と出会ってから今日までいつだって、彼女と議論する気は私には一切なかったのだ。返り討ちにあって、達人の居合いの一撃のように、一分の無駄な動きもなく瞬時に斬り伏せられることなど分かり切った話だったのに。


 私は沈黙に耐えられなくなって、ちらりと彼女の方を見た。


 彼女は手すりにもたれて、先ほどまでの私と同じように街を見下ろしていた。いつも冷静沈着で、近寄ったものすべてに警戒して戦闘態勢を取っているように見える彼女の横顔が、今日はひどく無防備に、幼く見えた。その視線をたどると、私の乗る路線の電車が線路を走っていくのが、まるでジオラマを走る模型のように小さく見えた。


 見てはいけないものをみたような気がして、私は動揺した。


「荘介」


 不意に名前を呼ばれて、びくりとした。


「おまえ、いつも、出てきたやつぜんぶほめるだろう」


「……はい」


「私がさんざんネガティブなことを言った後でもほめる。あれは全部、本気か? ごまかしやお世辞はなしか」


「はい」


 機嫌を損ねていたのだろうか。彼女は他人のことなど気にしない、超越的な態度をとっていたので、他の誰が何を言ったかなんて聞いていないと思っていた。


「そうおびえるな」


 彼女は低く声を上げて笑った。


「本気か。だろうと思った。別にいいんだ。それぞれが思ったことを言うのがミーティングだ。嘘やごまかしがなければ、すべての意見が許容されるべきだ」


 だが、と彼女は続けた。


「コメントは鏡でもある。コメントは批評される作品を照らし出すのと同時に、批評した人物を照らし返し、映し出す。その覚悟がなければ発言すべきではない」


「わかっています」


 私は手すりを握る手に力を込めた。


「それも、予想通りだ。荘介はそれでいいと私も思う」


 唐突に肯定されて、驚いた。どう反応していいかわからずにいると、彼女は足下のバッグを拾い上げた。


「おまえ、去年の部誌に発表したときも本名だったな」


「……はい」


 話の展開についていけず、あやふやな返事をすると、彼女は、化粧っけもないのにいつも自然に赤い唇の片端を釣り上げた。


「今年何をやるつもりか知らないが、詩歌をやるなら雅号、俳号の一つもいるだろう。〈昼行灯〉はどうだ」


「……はあ」


「腑抜けた返事だな。へりくだった雅号をつけるのは普通のことだぞ。まあ好きにしろ。使うなら別に使ってかまわない」


 そうして彼女はバッグを肩に担ぐと、凛としたいつもの足取りで振り返りもせず去っていった。先ほど仄かに見えた無防備さは雲散霧消していた。幻覚ではなかったかと疑うほどに。


 他者の作品への私のコメントと、私自身の作品が、私という存在を映し出す。それを受け取った彼女が私を表した言葉が、〈昼行灯〉というわけか。


 薄らぼんやりしていてぱっとしない、人畜無害なタイプの人物を評する言葉だ。


 そんな切り口で斬られるとは、想像もしていなかった。私は生じてしかるべき怒りを、心のあちこちの隅をつついて掻き立てようとした。しかし、思ったように怒りはわいてこなかった。


 創作メモに使っている大学ノートを、自分のバッグから引っ張り出した。見開きで使い始める習慣があり、最初の一ページは白紙になっている。その真ん中に、インクブルーの耐水ペンで〈昼行灯〉と書いてみた。妙にしっくりくる気がした。


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