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絹雲  作者: 藤倉楠之
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雨上がりの展望広場 1

 私がその日、彼女を見かけたのは、全くの偶然だった。


 私の母校は戦国時代の武将が拠点を置いた小さな山城の遺構である小高い丘の横に立っていた。


 彼女が相変わらず暴れ放題に暴れた部の定例ミーティングの後、私は、何となく他の部員と一緒にいるのも疲れて、一人、一足先に部室を出たのだ。校門を出て駅に向かおうとすると、ふと、高校の構内によく出入りして生徒たちからかわいがられている野良猫の姿が目に留まった。猫はさっと道路をわたると、城の遺構が今では市民公園として整備されている、木々の生い茂った丘へと歩いていった。


 あいつ、こっちの公園も縄張りにしていたのか。


 私が猫を追っていったのはほんの出来心に過ぎなかった。いや、何となく気が晴れなくて、家のある方に向かう下り電車にすぐには乗れないという気持ちからの寄り道だったのかもしれない。


 だらだらと続く九月の雨が昼過ぎに上がり、季節が戻ったかのように蒸し暑い日だった。ちょっとした坂道を登るだけでも汗が噴き出し、制服のシャツは不快に肌に貼りついた。


 猫の姿はとうに見えなくなっていたが、私は惰性で坂道を上り続けた。登り切ったところに、天守閣の跡地を利用した、市街地を見晴らせるちょっとした展望広場があるのだ。雨が上がったばかりのむしむしした夕方、わざわざこの坂道を上る酔狂な輩が自分以外にいるとも思えなかったので、ひとりで心静かに開けた景色を見て、気分を入れ替えてから帰るのもいいかもしれない、という気になっていた。


 両側にうっそうと立木が茂るだらだらした坂道を上がりきって、展望広場の入り口にたどり着いたとき、私は内心で舌打ちした。先客がいたのだ。白いシャツの背中をこちらに向け、手すりに寄りかかるようにして、ぼんやりと風景を眺めているらしいその人物は、私の存在には気がついていないようだった。


 何てはた迷惑な酔狂野郎だ。


 いや、チェック柄でもライン入りでもなんでもない、ただただ地味なことが今となっては特徴的な紺サージのプリーツスカートに、そっけない白のカッターシャツは、うちの高校の女子の夏服だ。野郎ではなく、酔狂女というべきか。


 完全な八つ当たりを内心で一人ごちながらきびすを返そうとして、私は酔狂女の足元に置かれたバッグに気がついた。見覚えのあるスポーツブランドのロゴが入っただけの、キーホルダーもシュシュもついていない素っ気ないカバン。ついさっき、部室にもよらず、ミーティング会場だった二年B組から去った、彼女のものと同じだった。


 曇り空に溶けていってしまいそうなほど線の細い後ろ姿は、改めて見れば見間違えようがない。ほとんどの女子が丈をいじったりして少しでもかわいく着こなそうと腐心していると聞く、悪名高い紺スカートを、学校指定の洋品店が仕立てたままのいかにも中途半端で野暮ったい長さで身に付けているのが、彼女にだけは奇跡のように似合っていた。まっすぐの黒髪は肩につく程度に切り揃えられ、学校の指定通りの白いソックスを履いた姿は、戦後すぐくらいからほとんど変わらないという私の母校の女子制服の見本写真にでもできそうだった。数十年前の写真から抜け出してきたような、天然記念物のような姿なのである。


 私は思わずその後ろ姿に向かって歩み寄り、声をかけていた。


「鈴本先輩」


 彼女は、不意に強く吹いた風に散らされかけた髪を手で押さえながら振り返った。目を細めるようにして私をじっと見る。


「なんだ、荘介か」


 私は一瞬たじろいだ。彼女が私の名前を認識していたこと自体に衝撃を受けたからだ。一年以上、毎週部活で顔を合わせていながら、直接、会話をしたのはこれが初めてだった。彼女が孤高の人で、世間話はおろか、作品以外の部員のディテールに興味を持つ様子が一切なかったせいだ。彼女がコメントを拒否し続けた私の一連の作品が、私のものだという認識すらなかったのではあるまいか。


 その本音が思わず口をついて出てしまった。半分あきれ混じりだったと思う。


「私の名前、ご存じだったんですね」


「おまえは私を阿呆だと思っているのか。その程度の情報を覚えられない訳があるか」


「いえ、興味がないのかと」


「嫌でも覚えるよ」


 薄く笑った彼女の真意は僕にはつかみかねた。ただ、人間というよりは人形のように整った彼女の顔立ちに表情が乗って動くと、見慣れない不思議な印象だった。この人が口元だけの半笑い以上に笑顔を浮かべたのは初めて見た気がした。


「それで、その荘介が私に何の用だ」


「いえ。特に用があったわけでは。たまたま見かけたものですから」


 ではさようなら、帰り道はお気をつけて、と逃げ出しかけた私の影にナイフを投げて地面に縫い止め、動けなくするかのように、彼女の言葉がまっすぐに飛んできた。


「荘介はさっきの作品どう思った? 一年生が出した異世界ファンタジーものの『短編』」


 私は内心、胃が縮むような思いがした。だが、答えないという選択肢は許さない気配が彼女の言葉にはあった。


「着想はおもしろいと思いました。鈴本先輩の言うように、文章はもっと主語と述語をきちんと対応させて短く切っていかないと読みづらいし、彼のねらっている小気味いいテンポ感も出せないと思いますが。少なくとも、先は読んでみたいと思いました」


「先か。つまり、あの作品は短編ではない。壮大な構想のもとに書かれるべき長い長い小説の、事件すら始まっていないさわりの部分でしかない」


「はい。そうかもしれません。でも、それでもいいと私は思いました。彼の構想のすべてが在学中に形になるかはわかりませんが、彼は心から書きたいと思ったもの、あるいは自分が読みたいと思ったものを紙面にすくい上げようとしていました。私からすれば、その姿勢だけでも十分評価されるべきではないかと」


 彼女は軽く鼻を鳴らした。


「在学中、ね。あれは未完の大作になるよ、きっと。流行りの要素が、蓋の閉まらない幕の内弁当みたいに手当たり次第に詰め込まれた内容だった。彼が自分の内面から絞り出したものがどれだけある? 流行りが廃れる頃には、きっと彼自身があのストーリーに飽きている」


 彼女の、本人にさっき直接言ったよりさらに辛辣なコメントを聞いて、私が最初に抱いた感想は、何だ、こう見えてこの人はこの人なりに、配慮してコメントを手控えていたのか、ということだった。そういう忖度とは無縁の人柄だと思っていたので少し意外だった。


「未完の大作ばかりだ。短くてもいい、大層な事件が起こらなくてもいいから、書き手の内面が切実に要求する主題で完成まで書き上げた作品を持ってきてくれないものか。今年度に入ってから特にひどい」


「そんなことないですよ。去年と大して変わらない」


 彼女は形のいい眉をひそめた。


「私が短気になったんだろうか。あの手の『作品』は堪え難い」


「未完でもいいじゃないですか。なぜそんなに周囲を切って回るんですか」


「書き始めたら、完結を示すのが最低限の礼儀じゃないか。だから私は詩なんだ」


「芥川も太宰も、未完の作品がありませんでしたか」


「その点ではまったく評価できない。しかし、彼らには少なくとも内面の必然から生まれた完結作がある」


 文豪も切って捨てるか。鈴本無双である。


「荘介は未完の大作だらけの連中を擁護するのか。せめて完結作の一つも書いてこいよとは思わないのか。それこそ芥川も太宰も読んだことがないくせに、小説が好きだと自称して、甘ったるいどこかでみたようなモチーフを何の苦労もせず詰め込んだだけの出来合いの総菜弁当みたいなものを自分のものだと言い張ったあげく、どうにもならなくなれば蓋も閉めずに逃げるような連中を」


「鈴本先輩だからそう言えるんですよ」


「どういう意味だ」


 むわり、と湿った風が吹いて、ざあっと音をたてて立木を揺らした。


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