いやな人 3
今度は鈴本先輩は机の上に伏せてある原稿に手も触れず、背もたれに寄りかかったままだった。
「ないかな」
須磨さんが提出したのは散文詩で、鈴本先輩の一番得意なフィールドのひとつだった。須磨さんは鈴本先輩を食い入るように見つめていた。おそらく、鈴本先輩の本を読んで、彼女にあこがれて文芸部に入ったのだろう。その様子に、須磨さんの詩に一つ二つ感想がないではない私も手を挙げかねて、事態を見守った。
誰も手を挙げなかった。
斎藤部長はちらりと鈴本先輩を見た。
鈴本先輩は表情一つ動かさず、答えた。
「私が批評する水準にない」
須磨さんは机に突っ伏してしまった。二年生の桝田副部長が、鬼のような形相で鈴本先輩をにらんでいたのを覚えている。誰も何も言わず、気まずい沈黙が数瞬続いた。
「五分休憩」
斎藤部長が宣言して、ようやくみんなが、張りつめ、凍りついた雰囲気から動き出した。
トイレか水飲み場にいったん避難する連中、泣きじゃくってしまった須磨さんを取り囲む連中が、ざわざわと教室を交錯した。鈴本先輩は微動だにせず、端然と背筋を伸ばして窓際の一番前の席に座ったまま、前を向いていた。そこに、鬼の形相を崩さなかった副部長が近寄って、何か一言、二言声を掛けていた。
以来、部長が鈴本先輩に視線を送っても、鈴本先輩が何も言うことがない時は首を横に振るだけになった。だがそれは『批評する水準にない』作品だという意味だとあの日その場にいた全員が理解していた。ちなみに、西山さんと須磨さんは、その日を境に、ミーティングには来なくなった。風のうわさで、別の部に籍を移したらしいと聞いた。
こうした、厳しい批評か無関心しか示さない彼女の態度は、その後もたびたび繰り返された。多くのメンバーが発表するたびに彼女に切り伏せられ、あるいは反応してすらもらえず、怒りや反感を覚えていたことは間違いない。作品は、それぞれが心を砕いて文字に起こし、傷つきやすい己そのものを差し出すように提示したものだ。それを、街頭で手渡されたチラシをその場のごみ箱に捨てるように、あっさり投げ捨てられたと感じて、発表者が受けるダメージははかりしれないものがあった。
彼女への反感はコアメンバーの部員の間に次第に広まっていった。彼女がミーティングの教室からあっさり帰宅した後で部室に集まり直して、自分の作品をこき下ろされたと感じ、崩壊寸前まで追い込まれた発表者をなぐさめたり、逆に彼女の態度をこき下ろしたりするのが、他の部員たちの習慣となっていった。部誌に掲載したければ発表三回、のノルマがある以上、全員が明日はわが身である。
たちが悪いと言えるのは、彼女の厳しい指摘が、すべて的を射たものだったということである。発表者が、真剣に取り組み、志を高く持っていればいるほど、その指摘は深く鋭く刺さり、ダメージが深刻になった。また、そうした部員の渾身の作品ほど、彼女の批評のターゲットになることが多かった。だからこそ、彼女はいやな人であり、彼女の言葉は後を引いて痛みを残すのだった。
文芸部の狭い部室で、悪い酒に酔うように彼女の悪口を言っていた部員たちも、そのほとんどはどこかでそれに気が付き、そのためよけいに自分を惨めな気分に追い込んでいることが、傍から見ている私にはよくわかった。だから、悪口など、言うだけ無駄だし、有害なのである。私はそう思って、なるべくミーティング中に作品について肯定的な発言をするよう意識したり、部室に戻った時に発表者をなぐさめはしたものの、彼女自身を悪しざまにこき下ろす言動とは一線を置いていた。私の見るかぎり、そうしていたのは桝田先輩と私くらいで、後の部員は多かれ少なかれうっぷん晴らしに参加するか、その雰囲気を嫌って、ミーティングが終わると部室には立ち寄らずに帰宅するようになっていった。共通の敵の幻影というまやかしの連帯意識に酔っぱらっていた連中が、そうした私の微妙な立ち位置の違いに気が付いていたとは思わないが、そんなことはどうでもよかった。
彼女の嵐のような指摘に一度は圧倒され、ぼろぼろになりながらも、時間をかけて破れを結び合わせ、新しい視点を取り込んで、作品を、あるいは書く主体としての自己を磨き上げられた人間だけが、一つ殻を破ってより質の高い作品を発表することができるのだろう。しかし、それができていたのは桝田先輩だけだったと私は思っている。後は小手先でつじつまを合わせただけでそのまま発表するか、その原稿が死産になるかのいずれかだった。
ちなみに、私の作品は、一度も、彼女の批評の水準に達したことはなかった。箸にも棒にもかからない、というやつだ。それでもさすがに、というべきか、コアメンバーでそこまでひどい扱いを受ける連続記録をうちたてているのは私一人だった。
もっとも、だからこそ、私は、他の部員とはほんの少し違った立ち位置で彼女を観察することができたのかもしれない。
私が入部したときにはもう十分に浮いた存在だった彼女は、その次の一年でさらに孤立を深めていった。西山さんや須磨さんといった、私の学年の有望な部員候補が、彼女の厳しすぎる批評のせいで定着しなかったことも、反感の要因の一つだったらしい。一部のメンバーはあからさまに彼女を無視したり、聞こえよがしの嫌味を言うようになった。
彼女たちが二年生、私が一年生の秋、その実力と人柄に厚い信頼を寄せられていた桝田先輩が、全会一致で推され、斎藤先輩から引き継いで部長となった。彼女に面と向かって意見や反論できるのは桝田先輩だけだったし、彼女の唯一の理解者でもあったので、部の全体をまとめられる可能性があったのは桝田先輩だけだったと言えるだろう。その桝田部長も、部員と彼女の間の溝には手を焼いていたようである。取り持とうとする部長の繊細な努力は、たいてい、彼女自身の直接的で遠慮のない言動によってぶち壊されていた。
もっとも、当の彼女は、学校生活が進むにつれて、どんどん敵が増えていく状況を、さほど意に介していないように見えた。活動日には欠かさず現れたし、その舌鋒鋭い批評はちっとも切れ味を失わなかった。
桝田先輩が部長になるのと同時に、私の学年から副部長を選出する段になって、なぜか一番筆力がない私にお鉢が回ってきたのには驚いた。しかしこれもなぜか全会一致だった。私の学年はもめごとを起こしそうなとがったメンバーもいなかったので、面倒を嫌った誰かが、文句を言わず引き受けそうなやつ、ということで、渡井荘介を副部長に、と裏でキャンペーンでも張っていたのであろう。特段断る理由もなかったので引き受けた。