いやな人 1
鈴本先輩は、一言でいうと、いやな人だった。
痛み始めた虫歯のような、と言えば、元文芸部員らしいだろうか。
そこにあるだけで強烈な存在感と不快感をもたらす。たとえその場にいなくても、その言葉は私の脳裡のどこかで、ぽかりと真っ黒な穴を広げる。あるべき秩序の欠落を鮮やかに主張し続け、片時も忘れさせてくれない。私の心臓に食い込み、私の鼓動に合わせて、ずきり、ずきりと刺してくる。
そう思っていたのは私だけではないだろう。
私よりも一学年上の、文芸部の先輩である。
彼女は部の誇りであると同時に部員全員の頭痛の種であり、理解者など求めようともしない孤高の人であり、部の正と負のエネルギーの中心だった。
彼女の経歴は華々しかった。
彼女が中学三年生の時、それまでブログに発表し続けていた俳句と散文詩が出版社の目に留まり、詩集として出版された。それが著名な文学新人賞を受賞したことで、彼女は一躍時の人となった。天才中学生詩人。美少女すぎる俳句界の新星。完全に使い古された陳腐な肩書とともに、彼女は文学界を超えて話題になり、テレビや雑誌にも取り上げられた。彼女の才能は詩歌にとどまらず、その中学生離れした知識量と分析力、表現力は驚嘆をもってむかえられた。
その彼女が進学先に選んだのが、地元の公立進学校だったため、周囲は浮足立った。彼女ほどの才能があれば、地元を離れて都会の私立高校に進むのではないかと噂されていたこともあり、学校側の熱の上がりようは尋常ではなかったようだ。我が校始まって以来の才媛。将来必ず大きなことを成し遂げるであろう逸材。入学前から、職員室でも、上級生たちの教室でも、彼女の話題で持ちきりだったという。入学式での新入生総代を、別の新入生が務めたことで、噂はさらに大きくなった。総代になって目立つのを嫌がって、数学の記述問題を一つ丸々白紙で出したらしい、などというまことしやかな怪情報まで飛んでいたらしい。
彼女が文芸部に所属することになって、文芸部の校内での扱いは飛躍的に向上したという。それまでは決まった部室はなく、ミーティングの曜日に顧問教師の担任する教室に集まってくる以外には部員の集まれる場所はなかったが、彼女が入学した年度には、国語科の教材準備室を片付けて半分スペースを空け、そこに長机をおいて常設の部室として利用できることになった。幽霊部員やミーティングにだけ参加する部員も含めるとそこそこ大所帯になる部だったので、ミーティングにはやはり放課後の教室を使い続けたが、部誌の編集や会計作業などは居場所となる部室があれば格段にやりやすくなる。私が入学した年度の途中には部室にパソコンとプリンターも設置された。過去の年度に比べても破格の対応だったと言える。
彼女の挙動はなんでも話題になり、噂の的になった。
だが、その熱狂も、二か月ほどで下火になったという。理由はいくつかあるだろうが、彼女自身が、周囲がいくら騒ごうとも冷静で超然とし、人を寄せ付けない態度だったことが大きかったようだ。
教師の大半は彼女を絶賛していたが、一部の教師からはほどなく毛嫌いされるようになった。その筆頭が、生活指導主任を兼務する体育教師だ。彼は、他の教師たちからほめそやされている彼女に対して、当初からいい顔をせず、風当たりがきつかったようである。一方の彼女はといえば、体育のほうはあまり発揮できる才能がないらしかった。いつも背筋をすっと伸ばして端然とした姿勢を保ち、筋肉質でこそないが細身な彼女は、どこが悪いようにも見えなかったのだが、当たり前のようにしょっちゅう授業を見学し、持久走や水泳といった負荷の大きい授業になると、魔法のように医師の診断書を持ってきてひらりひらりと参加をかわすので、体育教師の心証は悪くなる一方だった。彼が陰で、医者まで丸め込んで診断書なんか持って来やがって、どうせ仮病のくせに、と悪態をついていたのを、たまたま居合わせた体育館で私も聞いてしまったことがある。
さらに、生活指導上の問題としては、彼女は制服や持ち物、髪形といったルールにこそ厳格すぎるほど厳格にしたがっていたにもかかわらず、遅刻早退がとにかく多かった。それも、保護者から連絡があっての遅刻、保健室判断での早退だけならば、いたしかたないということもできただろうが、重役出勤よろしく、無断で少しだけ遅れるパターンの遅刻がかなり多かった。そんな様子も、件の教師にとってみれば、周囲からおだてられて図に乗っているという見立てを裏付けていると感じられたらしく、生活指導主任としては見過ごせないという怒りの火に油を注ぐ結果となったようだ。
他にも、授業中に彼女に質問されて答えられなかったり、説明やテストの模範解答の不備をつかれて論破された一部の教師の中には、露骨に彼女を避けて、彼女が挙手していてさえ授業中に指名しないようにしたり、厳しく当たったりするものも一人ならずいたという。こちらに関しては、我が母校の教員として情けないというほかない。
文芸部でも、入学当初の熱狂的な歓迎から、事態は少しずつ変化していったようである。彼女がこの文芸部に入部することは、文字通り、アマチュアの団体にプロが紛れ込もうとすることに他ならなかった。彼女は単行本を出版して印税を受け取っているという意味ですでにプロだった。趣味で文章を書き始めたばかりの高校生たちにしっくりなじめると思う方に無理があるといえば、まさにその通りだったのである。
彼女が文芸部に参加することに何のメリットがあるのか、文芸部員がいちばん理解できなかったと言っていいだろう。傍目からすれば、彼女は詩で世間から評価されたんだから文芸部でいいじゃないか、ということになるのだが。
まず、彼女ほどの実績があれば、文芸部に所属することは意味がない。作品を書けば、懇意の編集者が奔走して発表の場を探してくれるだろう。作品へのアドバイスも、プロの視点から一流のものが受けられたはずだ。彼女がそんなものを欲したかどうかはまた別の話として。彼女が文芸部から得られるものなどないのではないか、それなら、その時間を独りで高尚な執筆活動にあてた方が、よほど、時間を有効に使えるのではないかという感想を持ったとしても当然である。
一方の部員の側でも、彼女の存在を受け入れがたいと思っていたメンバーは少なくなかった。
これがもし、例えば野球部に超高校級の一年生が入ってきたとしたら、話は違う。彼は甲子園への金の切符だ。集団に多少の動揺はありつつ、彼の実力が認められれば、練習もチーム作りも彼を中心に組み立てられていくことになるだろう。だが、そこは文芸部である。彼女が在学中にどんな実績を上げたとしても、高校の名前を少々宣伝する役に立つくらいで、他の部員には、実際にはほとんど何のおこぼれもない。弁論大会にせよ、作文や詩歌のコンクールにせよ、個人が努力して引き寄せない限り、実績も栄光も何も訪れない。彼女が部に参加したことで活動環境は少々改善したかもしれないが、そのことも喉元を過ぎ去ってみれば、大して恩恵としては感じなくなっていた部員も多かった。
私の母校の文芸部は、秋の文化祭に合わせて部誌を編むことだけが部として形を残す成果であり、後は、部の活動日にお互いの作品を読んで批評しあうことが主な活動だった。部誌に掲載するのは、活動日に最低三回のプレゼンをし、彫琢を重ねた作品のみ。そして、卒業に必要な単位として指定されている『クラブ活動』の単位は、文芸部では、部誌への最低一作品の掲載をもって認められた。
幽霊部員の多くは、なんとか季語のはいった五七五を一つ、二つひねり出し、秋の文化祭までのどこかで三回、活動日に顔を出す。そこで毒にも薬にもならないようなあいまいな笑顔で迎えられれば、後はその『俳句』を部誌の原稿締切日までに顧問に提出して、めでたくクラブ活動の単位取得となる。部活に時間を割くくらいなら他のことをやりたい生徒には好都合な部の一つと言えた。
そんな大量の幽霊部員を抱え、名目上の所属人数だけは多い文芸部で、毎度活動日に顔を出すのは、それなりに熱意があり、執筆活動をしたい、文芸を通じて仲間とかかわりあいたいという志の高いメンバーということになる。その文芸部のコアメンバーを、彼女はほとんどすべて、敵に回していった。
理由は単純で、彼女の要求水準が途方もなく高かったからである。