コーンポタージュとコーヒー 2
桝田先輩は机の上に置いた手の指を組み合わせ、それを見つめるようにしてゆっくり話し始めた。
「最初に体調を崩したのは、たぶん中学生の半ばくらいだったんだろうと思う。出版の話が持ち上がった少し後、でも本がでる前だったはずだ。
初めは、たぶん、本人も家族も、過労か、風邪かなくらいの話だったと思う。劇的な何かがあったわけじゃないはずだ。正直、オレも覚えていないくらいだ。でも、微熱がなかなか引かなかったり、しょっちゅう身体がだるいとか頭が痛いとこぼしていたし、疲れやすくなって、不調を訴えることが増えていた。お母さんがそれを心配してあちこち病院に行って、結局、何ヶ月かして診断がついたらしい。本が出た頃かな。
でも、不調が数週間続いた頃からもう、鈴本はオレと病気の話をしたがらなくなっていた。母親同士が小さい頃からしょっちゅう子どもを預け合ったりして、きょうだい同然に育ってきたが、同級生の男子でもあるから、言いたくないこともあったんじゃないかな。
オレも正直、聞けば心配になるし、安易にすぐよくなるよとも言えない、辛いのがわかっても代わってやれるわけでもないから、どう接していいかわからなかったんだ。鈴本が話したがらないのをこれ幸いと、その話題は避けていたと思う」
先輩は目を閉じて、眼鏡のブリッジの下あたりを揉んだ。
私はどうにも言う言葉が見つからず、はいと呟いて、仕方なしにコーンポタージュを一口だけ含んだ。ザラザラとして、妙に甘かった。
「出版に関係して、プロモーションであちこち引っ張り回されるような格好になったけど、あいつは本当につらそうだった。そんなことになるとは本人も家族も思ってなかったんじゃないか。よく知らないが、普通はせいぜい、新人作家なんて書店とかに挨拶に行って、いくつかサイン本を作ったりするぐらいじゃないか。ましてや中学生なんだから、人前に立たせたりはしないだろうと思っていたと、あいつのお母さんがうちの母に涙ながらにグチっていたのを聞いてしまったこともあったし。
でも、不幸なことにあいつは頭と見てくれが良すぎた。周りの大人が、こいつは絵になる、撮れる、と食いついてしまったんだ。結局あいつは才気煥発な見た目のいい女子中学生として、アイドルタレントみたいな消費のされ方をした。
病名の診断がつくかつかないかの一番しんどい時期に、あいつは、家族以外にいっさいそれを気づかせないまま、完全に求められた役割をやりきった。自分の作品が活字になって、本として世に出ることが純粋に嬉しかったから、出版社の人たちに恩返しがしたいという気持ちだったんだと思う。
でも、もともとあまりうまくいっていなかった中学校でのあいつの人間関係は、あの出版騒動を境に、完全に崩壊した」
何となく想像がついた。何の疑問も持たず、ただ単純に仲良くできる小学生や、受験を経てある程度他人と自分の違いに自覚的になれる人間が増えてくる高校生とはちがう、独特の同調圧力があるのが中学生社会だ。その中学校というコミュニティで、周囲と違いすぎるくらい違い、それをただ合わせるためだけに合わせることをよしとしない彼女は、さぞや生きづらかっただろう。
「中三の時のあいつはもうずっとぴりぴりしていた。今思えば体調も悪かったはずで、にもかかわらず、勉強面でも、対人関係面でも、絶対に他人に弱みを見せまいとしていた。
出版社との付き合い方も、一通り先方の要求に応じてプロモーションをこなした後は、傍目からも多少変わったように見えた。高校受験、そしてその後は大学受験が続くから、表にでるのはセーブしたいと申し入れていたようだ。今使えるだけ使って先のことはどうでもいいという大人ばかりでもなかったようで、担当についてくれた編集者さんがずいぶん尽力して、次に書けたものをまた本にしよう、だから今は雑音を少なくしよう、と周りを説得してくれたらしい。あいつは本になればどういうことになるか骨身にしみてわかっていたから、高校在学中に形にする気はなかったと思うが」
桝田先輩は言葉を切って、窓の外を見つめた。冬の日暮れ、もう辺りは街灯や看板灯が点きはじめて、群青の空とコントラストをなしていた。
「高校に入ってからは、それでも、ずいぶんよかったんだ。診断がついて、薬もある程度合ってきたようだったし、周りも、よそよそしかったけれど、必要以上にあいつを追いつめたりせず、一定の距離と人としての敬意を保って接してくれていた。部活も本人なりに熱心に取り組んでいたし、ずいぶん人間らしい顔つきに戻っていたと思う」
あれで、『ずいぶんよかった』なのか。私からはずいぶん浮いていたように見えたけれど、鈴本先輩にとっては居場所と見なされていたんだろうか。
居場所と思えた部活、学校だったから、悩んだのだろうか。周りとうまく行かない自分のことを。
〈まつみや〉の店先のベンチで、口をへの字にして、苦手なんだ、と呟いた彼女の横顔がどうしようもなく脳裡に浮かんだ。
「去年……もう一昨年か。春、おまえが入部してきたとき、あいつはずいぶん面白がっていたんだ。犬川だぞって」
「八犬伝ですね。先日、聞きました。鈴本先輩は犬坂だと」
「ああ、その話はしたのか」
よかった、と桝田先輩は小さく口の中で呟いたようだった。あまりに小さな呟きだったので、何がよかったのか聞き返すことはできなかった。
「おまえ、鈴本がガンガンつっこんだ批評のあとで、いつもふわーっとほめてたろう。あれだけ先輩が、しかも鈴本みたいに見た目自信満々のやつが発言した後で、全然違うベクトルの話なんて並大抵の神経じゃできないと思うんだが、鈴本に楯突いてた訳じゃなくて、書き手にちゃんとフォーカスして話していただろう? あれで、話の流れが鈴本から発表者にちゃんと戻るんで、斎藤さんもオレも、本当に助かっていたんだ」
「そうなんですか?」
全くそんなことは思っても見なかったので面食らった。
桝田先輩は苦笑した。
「全然意識しないでやってたのか」
「いえ、あんまりボコボコにされてるんで、自分のいいと思ったところはきちんと言語化して伝えようとは思っていました。筆を折ったら気の毒だ、退部はしないでくれたらいい、くらいの発想はありましたが、話の流れをどうこうとまでは思っていませんでしたし、発表者以外の、桝田先輩や斎藤先輩がそう思っていたなんて思ってもみなかったので」
「おまえも部長になったらちょっと身にしみてきたんじゃないか。フロアで建設的な議論にならないと、ミーティングが機能しなくなるんだ。鈴本のパワーは強すぎて、ついていけない面々が多いと、議論が空転しがちなところがあった。あいつのパワーにいっさい左右されないで、ケンカでもなく遠慮でもなく、自分の思ったことをぽんという渡井が入ってミーティングがずいぶん変わったんだ。自分ではわからないだろうなあ」
「桝田先輩、暗に私が全然空気読めないってけなしてたりしませんか」
こんなにほめられたのは初めてで、ついついひがみっぽい冗談を言ってしまった。
「まあそういう面もなきにしもあらずだよ」
先輩もにやりと笑って、冗談めかして切り返してくれた。それから、その笑顔がすっと消えて、先輩は話の続きに戻った。
「あいつはお前のこと、ずいぶん気に入っていたよ。おまえの発言や、出した作品のことも、しょっちゅう話してた。そういうときのあいつは本当に楽しそうで、何も考えなくてよかった小学生の頃に戻ったみたいだった」
「え?」
混乱した。私の書いたものなんて箸にも棒にも掛からないと思っていた。違う人の話と取り違えているのではあるまいか。
桝田先輩は渋い顔になった。
「そうだよな。あいつ、ミーティングではおまえの作品無視してたから、急に言われても信じられないよな」
だから言ったんだ、とひとりごちる。
「きょうだい同然に育ったといったけれど、あいつの考えていることがわからないことはたびたびある。これもそのひとつで、オレは何度も、後で言わないで本人の前で作品の話をしてやれと言ってたんだ。部長としても、あいつがおまえの作品を無視した格好になると、おまえ以外の部員は無駄に空気を読むからコメントがしづらくなる。後半は一年生を中心にだんだん他のメンバーも発言するようになってよかったけど、おまえ、本当にあの空気の中でよく折れずにやってくれたと思うよ」
そこまでひどい空気だっただろうか。鈴本先輩への風当たりの強さは感じていたけれど。冗談抜きで、私も相当空気が読めない変人なのかもしれない。
そういえば彼女からも、面と向かって嬉しそうに変人だの昼行灯だのいろいろ言われた。本当に楽しそうだった。
「だから、前、九月ぐらいかな。帰りにたまたま会って話したことがあったんだろう? 何を話したかはいっさい言わなかったけど、鈴本は本当に喜んでたんだ。やっぱりあいつ変なやつだった、って。鈴本にとって、変なやつっていうのは最高のほめ言葉なんだよ」
鈴本の方がよっぽど変なんだけど、と桝田先輩は苦笑した。生意気で出来の悪い妹のことを溺愛している兄貴みたいな口調だった。
「市村とトラブったとき、おまえが追いかけたって高野さんと上村さんから聞いて、じゃあ大丈夫だ、と正直ほっとしたんだ。なかなか連絡がつかなかったから、もしも追いつかなかったら、という心配はあったけど。市村に話を聞いて、フォローがなかったらあいつも相当メンタルをやられてかねない一件だったと思っていたけど、帰ってきたあいつと後で電話で話したときはかなり普通にしてた。むしろ、その前の数日より調子が良さそうなくらいだった」
私は圧倒されっぱなしだった話の中で、ようやく手がかりを見つけて、桝田先輩に問い返した。
「桝田先輩、あの日、めちゃくちゃ心配してましたよね。駅まで送れって、どういうことだったんですか。鈴本先輩も、確かあのとき、脱走はしない、と言っていました。トラブルに動転してとっさにその場を離れただけの人だったら、そんな言い方しないでしょう。何か他に心配することがあったんじゃないですか」
「病気の話につながるのが、そこなんだ」
桝田先輩は、たぶんもう室温まで冷め切っているコーヒーを口に運んだ。軽くのどを湿らせるように含んで、視線を手元に落とした。














