まつみや 2
彼女は立って、食べ終わった鯛焼きの紙袋を、店の出入り口のすぐ外に設置されていたくずかごに捨てた。またベンチに戻ってきて、どさっと座る。
私は入れ違いに立ち上がって同じようにゴミを捨てると、くずかごの隣の自動販売機でペットボトルの温かいお茶を二本買った。
一本を彼女に渡すと、その隣にもう一度腰掛けた。
「いくらだ」
「いりませんよ、私が勝手に買ってきたんですから」
それでも彼女は几帳面に財布をだしてのぞき込んだが、悔しそうに呻いた。
「さっきの鯛焼きをちょうどで払ったから小銭がない」
「今度、一本おごってください。それでチャラです」
なぜ自分がこの人と今度の約束をしているのか、自分でもわからなかった。彼女の顔を見ないようにして付け足した。
「おとと焼きを食べたんなら、絶対飲んだ方がいいです。あれはとにかく青海苔が付くんです」
うっ、と彼女が息を詰める気配がした。
「この借りは必ず返すからな」
悔しそうに言って、ボトルの封を切る音がした。なぜだろう、親切なことをしたつもりだったのに、敵討ちを誓われた気分だ。
お茶を二、三口飲み、こそこそとこちらに背を向けてバッグの中からポーチを取り出して、何やかや私にはわからないことをしてから、彼女は前に向き直ってぼそっと言った。
「市村のことだけど」
「何ですか」
「そんなに気にしていたか」
「多分。あんなこと言ってましたけど、あいつ、あなたの詩集、きっちり読んでましたよ。ブログもチェックしてたんじゃないですか。自分のライトな持ち味に自信がもてないらしいことは時々こぼしていましたから、指摘がよけい、ぐさぐさ刺さったと思います」
「個人的な攻撃や人格の否定をするつもりじゃなかったんだ」
「あいつも頭を冷やせばわかります。今ごろ、部長に絞られて、しおれているかもしれません」
「すまなかったと、伝えておいてくれないか」
驚いた。誰に対しても、この人が謝罪の言葉を口にするのを見るのは初めてだった。
「自分で言えばいいじゃないですか」
「来週、ちょっと東京に行く用があって、登校できないんだ。出版社の人に会ったりとか色々なんだけど。遅くなると部誌に間に合わないだろう」
「私が言ったって信じませんよ。私だって、今自分の目と耳を疑っているくらいです」
「何でだ」
「あなたの指摘が間違っていたわけではないのに、謝るなんて、らしくないと思って」
彼女は少し下を向いた。下唇に力が入って、への字の口になる。
「苦手なんだ。人の気持ちが分からないと、今まで何度責められてきたことか。友達をなくすよと、しかる教師も何人かいた。
初めは、理の通らないことを言う向こうがおかしいと思っていたし、そんな奴らは友達でも何でもないから構わないと思っていた。でも、このごろ、違うんじゃないかという気がしてきたんだよ」
「違うって?」
「何かがおかしくて、あるべきものが欠損しているのは私の方じゃないかって。みんな、ごく当たり前に冗談を言ったり、笑ったり、友達になったりしてるだろう。
私の周りの他人は、私本人よりもその肩書きや成果を見て本心ではないおもねりを言ったり、勝手に私の考えを想像して突っかかってきたり、まともに会話できない。だけど、それは周りが変なんじゃなくて、私がふつうの反応をできないから、周りがそういう風に変なリアクションをせざるをえなくなるんじゃないか、と思うようになった。文学が好きな人間なら、わかりあえるかもしれないと思って、亨に誘われるままに文芸部にも入ったけれど、結果は他の人たちを困らせただけだった。
市村だってそうだろう。あんな風に声を荒げて人を罵倒するタイプじゃないのに、私がそこに追い込んだんじゃないかと。
だから、謝りたい。でも、その謝罪でさえ、変な結果を生まないかと怖いんだ」
彼女は自分の膝の上に両手で頬杖をついた。ひどく疲れたような顔をしていた。
私は何も言えなかった。私だとて、彼女の言う周囲の人間と大して変わらない。その才能をうらやみ、彼女の態度を傲岸不遜だと感じてきた。その裏で彼女がこれだけ苦しんでいたと、一瞬たりとも想像してみたことはなかった。
「こんなに長い時間、私がぶち切れないで話せたのは、家族以外ではおまえと亨くらいだ。亨は幼稚園から一緒の腐れ縁なんだよ。まあ、家族の延長みたいなもんだ。だから、おまえは相当の変人ということになるんだが」
「ぼけっとしてますからね」
「変人でも、他のやつとちゃんと話せるだろう。私にしてみればうらやましい」
この人が他人をうらやむことがあるのか。才能に恵まれ、容姿は端麗。いつも自分の言動には百パーセントの自信と誇りと責任を感じているように私には見えていた。立ち居振る舞いも堂々として、大人に混ざっても一歩も引けを取らない。見た目も中身も、田舎の進学校ではあらゆる意味で浮いてしまっていたのが鈴本絹野ということになる。
「でも、あなたの思っていることをかわりに市村に伝えるのは、私には無理です。さすがに荷が重すぎる」
私はふと思いついて言った。
「書いたらどうでしょう。文芸部なんだから。エッセイのよかったところ、気になったところ。さっきの小説、私は読んでませんが、それもよかったところと、気になったところがあれば。鈴本先輩、ほめなさすぎなだけじゃないですか。一つほめられるだけで、市村は完全に先輩のシンパになりますよ。もともとファンなんだから」
「それはそれで困るんだが」
本当に眉尻を下げて困った顔が思いがけずかわいらしくて、私は笑った。
「書いたものなら預かります」
そう言うと、彼女は意を決したようにうなずいた。
「ルーズリーフ、一枚くれ」
「持ってないんですか? ルーズリーフも入ってないなら、そのサンドバッグの中には何が入っているんですか」
私があきれると、彼女はむっとしたように腕を組んだ。
「どうせ教科書と資料集をきっちり覚えれば、あとはそれに毛の生えたような授業しかやらないんだ。どうしても気になる新情報があったときだけ余白にメモを取れば足りる。数学の計算なんかついでの裏紙で十分だ」
教科書と資料集をきっちり覚える。しれっと地獄のようなことを言う。今この人は凡人の受験生全員を敵に回した。そう思ったけれど、おかしいだけでちっとも腹は立たなかった。ルーズリーフを持っていないのに私があきれた時、隠していたミスが見つかってしまった子どものような決まりの悪そうな表情が一瞬浮かんだのを目撃したせいかもしれない。
「それにしちゃ、しっかり重いじゃないですか」
「歳時記と類語辞典、オノマトペ辞典が入っているからかな」
「せめて授業に関係ない辞書は電子書籍にすればいいのに」
言いながらリュックサックから一枚、罫線のはいった紙をだして渡すと、彼女は受け取りながら目を丸くした。
「それ、いいな。できるやつはそうしよう」
調子が狂う。
店の軒先に設置された蛍光灯の明かりの中で、彼女はあの几帳面な〈鈴本フォント〉で、何行も何行も書き付けた。その途中で何度も手を止め、虚空をにらむようにして考え込んでいた。
しばらくして彼女は、できた、とつぶやくと、ぎっしり両面に字の書き込まれたルーズリーフを丁寧に四つに折り畳んだ。ボールペンをかちりとノックして芯を戻し、ペンケースにしまう。
「じゃあ、荘介、後は頼んだぞ」
「はい」
私はうなずくと、渡されたルーズリーフを受け取って、大事な書類を挟むクリアファイルに入れた。
「そろそろ行きましょう」
あたりはすっかり暗くなっていた。
歩き出しながら、彼女はぽつりと言った。
「まさか、犬川が見つかるなんて思ってもみなかったんだ」
「八犬士ですか」
「あと六人、揃ったら、いいことあるかな。願い事が叶ったりとか」
「それは作品が違うでしょう。星のついている玉を集めるマンガとか。犬士は御家再興のお役に立つだけですから、個人の願いは叶わないんじゃないですか」
「でも、いいことくらい、あってもいいだろう。神通力なんだから」
「そうだとしても、しんどい名前が続きますよ。犬坂毛野がクリアできたのは結構奇跡的ですけど、犬村大角とか犬飼現八はかなり厳しいような」
「夢のないやつだなあ」
彼女はむっとしたように腕を組んだ。
彼女の歩き方はふわふわとしていて、重たいバッグに引きずられているように見えた。このままでは、三十分に一本しか来ない電車に間に合わない。
「それ貸してください、急ぎますよ」
私は結局手を出して、彼女の肩からバッグを奪い取った。
深く息を吸い込むと、風の底に、ほのかに甘いサザンカの香りがした。
彼女は呟くように言った。
「もしも、願い事が一つだけ叶うとしたらどうする?」
◇
何とか時間に間に合って駅にたどり着き、駆け上がったホームで、私の乗る電車が滑り込んでくる直前、彼女が向かいのホームのエスカレーターの出口から出てきて、こちらを見た。ぱっと笑顔になって、地面にどさっとバッグを落として両手を振る。近づく電車の音に負けない大声で彼女は叫んだ。
「荘介! バッグ、ありがとう!」
今も私の記憶に焼き付いて離れないのは、あの笑顔の鈴本先輩だ。
そのときの私は少々照れくさくなりながら、小さく手を挙げて応えた。
もっときちんと返事をすればよかった。後悔してもしきれないことのひとつである。














