まつみや 1
彼女は片腕を空に向かって突き上げ、もう片手でその肘のあたりを引っ張るようにして大きく伸びをした。桝田部長と電話で話して、ずいぶん気分が変わったのか、にこにこと上機嫌だ。
「よし行くか」
「帰るんですか」
私が喜んで自分のリュックをしょい直すと、冷たい目でにらまれた。
「おまえはバカか。こんないい天気でまだ明るい。今日は今日しかないんだぞ。かき氷食べに行くのに決まってるじゃないか」
「もう十一月です。とっくに、〈まつみや〉は鯛焼き屋に転向してますよ」
高校近くの駄菓子屋である。駄菓子の他に年中おでんを売っていて、夏はかき氷、冬は鯛焼きと焼き芋を売る。土間に、昭和の遺物のようなテーブルとガタガタするパイプスツールがいくつかおいてあって、近所の子どもたちのたまり場でもあり、鍋を持っておでんを買いにきた近所のおばちゃんたちが世間話に花を咲かせる場でもあり、そのがちゃがちゃした特有の雰囲気が嫌いではないうちの高校の生徒のごく一部が、放課後の小腹を満たしにいく店でもあった。
「なんだ、気の利かない店だなあ。鯛焼きより断然、かき氷の方がおいしいのに」
「気が利かないのはどっちですか。十一月にかき氷なんて、俳句だったら箸にも棒にもかかりません」
「しょうがない、鯛焼きで妥協するか。気分は絶対かき氷だったんだけど。この前からずっと食べたかったんだ」
不可解な人である。
「ほら、バッグ持てよ」
「先輩のでしょう。自分で持ってくださいよ」
「やだよ。重いから置いてきたんだ。勝手に持ってきたのは荘介だろう」
すたすたと歩き出す。仕方なく私は彼女のスポーツバッグも担いで、その後を追いかけた。
「だってどうする気だったんですか。どのみち、取りに行かなければいけないんじゃないですか」
「定期はこっちの制服のポケットだし、置いたままでもいいと思うんだけど、多分、亨が持ってきただろうな。国語科の先生方にご迷惑がかかるとか言って」
再度深く、部長に同情した。気苦労が絶えないことだろう。そういえば、部長と鈴本先輩は、出身中学が同じだった。
展望広場から、一段下の大芝生広場まで戻り、そこから高校のある方向とは逆に進んで、反対側の出口から、宿場町の面影を全面にだして観光地化を狙っている旧市街に出た。目指す〈まつみや〉への最短ルートだ。
宿場町風のまちづくりを推したところで、結局、観光客に紹介できるのは、城跡公園に平成に入ってから復元した天守閣のミニチュアと、どこにでもありそうな、内容の薄い郷土資料館くらい。後はせいぜい、地元民向けの、コブハクチョウが飼われている小さな池と、市立図書館しかない。行政の鳴り物入りで宿場町風にした商店街も、シャッターが下りたままの店舗も多いし、一歩裏路地に折れると、宿場町のイメージとはかけ離れた昭和の木造建築が並ぶ。時流に乗ろうとして乗り切れない、いまいち垢抜けない街の裏路地に、〈まつみや〉はもう五十年以上も店を構えているという。隠れた地元の名店である。
「荘介、何にする?」
カウンターの上に掲げられた、毛筆手書きの味わいのあるお品書きを、彼女は腕を背中で組んで首を傾げ、真剣な眼差しで見上げた。私は即答した。
「小倉の鯛焼きです」
「つまんない奴だなあ」
「いいんです」
むっとしつつ、自分の鯛焼きを買った。私の母とたいして変わらない年齢であろう女性店主が、薄茶色の紙袋に入れて、ほかほかのまま手渡してくれる。
「あれ、なんだ? おとと焼きって」
彼女がお品書きを指差すと、私が何か言うより早く、カウンターの中から答えが飛んできた。
「鯛焼きなんだけど、小倉あんのかわりに刻みキャベツと青ネギ、桜エビの揚げ玉、紅ショウガが入ってて、お好みソースとマヨネーズを掛けるよ。アレルギーがあったら、もっとちゃんと確認して答えるから聞いてね」
何度も何度も答えてきた質問なのだろう、立て板に水だ。
「それにする! アレルギーはないから大丈夫。マヨネーズ抜きで、ソースちょっと多め、できる?」
店主はにこにことうなずいて、手を動かしながら返事をした。
「もちろん! 青海苔と混合節と辛子は、おでんの前のケースから使ってね」
混合節は、イワシとサバからできた削り節で、青海苔とあわせて地元では欠かせないおでんの薬味である。辛子以外は、他の地域では使わないと聞いたが、未だに信じられない。
もちろんお好み焼き風味の鯛焼きにもぴったりの粉をソースの上からたっぷりまぶした彼女を促して、店の外のベンチに座った。店内はこれからの時間、おでんのテイクアウトの客が出入りするため、かえって騒がしいし、座っているとじゃまになるのだ。
日が下がって次第に空気が冷えてきた中に、湯気を立てて温かい鯛焼きはよく合った。
「かき氷じゃなくて正解だったでしょう?」
「ほんとだ。季節、いつの間にか変わってたんだな。……このしょっぱい鯛焼きが最高だ。もう三年生なのに知らなかった。これがあるんなら、もっと前から来ればよかったよ。あんことカスタードは苦手なんだ」
彼女は上機嫌で、普段と比べるとかなり饒舌だった。
しかし、鯛焼き屋に来ておいて、これはなかなかにご無体な発言である。
「じゃあ、そもそも鯛焼きって何を食べるつもりだったんですか」
「チョコ。なければ鯛焼きはあきらめて、おでんだな。こんにゃくと、黒はんぺんと、卵」
地元民の人気トップスリー、永遠の定番である。
「鉄板ですね。人の小倉を笑えないじゃないですか」
「確かにそうだ」
彼女は声を上げて笑った。
そのまま何となく会話が途絶えて、私と彼女はぼんやりと道行く人を眺めながら鯛焼きをかじった。
夕方の人たちは、誰もが同じ方に向かって道を急ぐ朝とは違って、様々だった。わき目もふらず早足で忙しそうに進む人、重そうな買い物袋を下げてゆるゆると歩く人、つれている犬が気の向くままあちこちのぞき込むのを辛抱強く待つ人、知り合いを見つけておしゃべりに余念がない人、それぞれ思い思いの時間を過ごしていて、私と先輩がベンチに座って黙りこくっているのすら風景の一部に取り込まれているような気がした。誰もがおたがいをさほど気にせず、当たり前の日常の流れに溶けこんで気持ちよく流されている感覚。
うちの高校から駅へのルートからはかなり大きく外れているせいで、同じ高校の制服はほとんど見かけなかった。
「荘介、お前、長いの書けよ」
不意に彼女がぽつりと言った。
「長いのですか」
「そう。たくさんキャラクターが出てきて、いろいろあって、それで最後はみんな幸せになるのがいい」
「ずいぶんざっくりしたこと言いますね」
「南総里見八犬伝はもちろん原文で読んでるだろう。あれは完結までに三十年くらいかかってるんだ。時間かかってもいいからさ、長くておもしろいの書けよ。そっちの方が向いてるよ」
愛読書の一つを挙げられて驚いた。
「読んでるだろうって、さらっといいますね。なんでわかったんですか?」
私が持っているのは岩波文庫の版だ。文庫本で全十巻。元は父の蔵書である。中学三年の夏休み、入試からの現実逃避で読み始め、面白くてやめられなくなり通読した。古文の勉強をしていると言い訳していたが、夏休み明けの数学のテストは惨憺たる結果だったので、母にこっぴどく叱られた。
「だって、入部当初の自己紹介で好きな本にあげてたじゃないか」
おぼろげな記憶がよみがえってきた。全員が自己紹介用紙を出して、ごく短くプレゼンしたのだ。そういえば、今思い出した。言うに事欠いて目の前のこの人は、八犬伝は原文か、と一言問いかけ、私はただうなずいたのだった。
「よく覚えてますねそんなこと」
「嫌でも覚えるよ。だって、ソウスケが八犬伝だろう。犬川じゃないか。インパクトが強くて忘れようがない。ご両親が読んでたのか」
作中に、犬川荘助という主要キャラクターがいるのだ。私の名前はそこからとって一文字変えてつけられた。博覧強記のこの人が気がつかないわけがなかった。盲点だった。
「父です」
「私の場合は祖父なんだ」
「え?」
「絹野だよ。本当は祖父は毛野とつけたかったんだ。でも、それじゃあんまりそのまますぎるし、女の子が年頃になったとき、毛の付く名前じゃ苦労しそうだ、と母が止めた。それで、毛よりも見映えのいい織物で、絹にしようって。祖父は絹はケンで犬に通じるって大笑いして、いたく気に入ったんだそうだ。イカレたじいさんだよ」
口調は乱暴だったが、彼女の横顔はうっすら微笑んでいた。大好きなお祖父さんなのだろう。
犬坂毛野も南総里見八犬伝の作中人物である。中盤のストーリーでトリックスターのようなはたらきをする、魅力的なキャラクターだ。切れ者の戦略家である上に中性的な絶世の美形として描かれてもいて、確かに、鈴本先輩によく似合う感じがした。
「だからさ。長いのでも怖がらないで書けよ。行き詰まったら寝かせて、書けるところから書き直してさ。止めなければ、いつかは書けるよ」
「どうしてですか。先輩が書けばいいじゃないですか」
「私には無理なんだ」
彼女は食べ終わったおとと焼きの紙袋を、余ったソースがこぼれでないように几帳面に畳んだ。鯛焼きを選んでいたときや、おじいさんの話をしていたついさっきの楽しそうな様子とは打って変わった、暗く、どこか投げやりで刹那的な表情だった。
「どうしてですか」
「さっき、登る山が違うって言っただろう。どうしてどうしてってうるさい奴だなあ」
軽くため息をついて、彼女は言った。














