旅立ち
◇ ◇ ◇
セリア・ロングフェローという人間は、私にとって余りに強烈な人間だった。他人の意見に全く耳を貸さず、自分の考えのみを妄信して、それを他人に押し付ける。おおよそ一人の人間としては、褒められたものではなかった。事実、私自身、セリアに会って直ちに相容れない輩だと悟った。しかしそんな思いとは裏腹に、私は彼女を受け入れてしまった。
あの時点で、彼女を追い出すことは出来ただろう。幾ら相手が伯爵の意向を携えてやって来たとしても、所詮は何の利も生み出さない善意の押し付けだ。こちらが手を伸ばさなければ、自然と向こうの手は下がったはず。だが結局の所、私は相手の手を取ってしまった。
私は期待してしまったのかもしれない。年端もいかない少女が自分とは違って、意志を持ち、そこにしっかりと立っている。それはどこに行くこともなく暗い水底に溜まっているヘドロのような私にとって、全てを洗い流す激流のように思われた。
そしてそんな水の勢いに身を任せれば、自分の中にある汚泥は流れ、自分は変われるのではないか、今という境遇から抜け出せるのではないか。私は不覚にもそんなことを思ってしまったのだ。
認めたくはないが、セリアとの出会いによって、私の人生は変わった。それほどの行動力、またそれに付随した影響力があったのだ。もっともその変化が私にとって良かったのか、悪かったのか、いまだに分からないが……。
「我が航海」 エリアス・ニーソン著
◇ ◇ ◇
私がエリアス様の家に行ってから、一週間の時が経ちました。そしてその一週間で私はエリアス様の生活全てを把握してしまいました。それほどエリアス様の生活は単純なものでした。
まず昼過ぎまで寝て、やおら起き上がると、コーヒーハウスへ出かけていき、たった一杯のコーヒーで何時間も粘る。そこで知り合いが見つかれば、問題なし。知り合いが見つからなければ、他のコーヒーハウスへ探しに行くという有様でした。
そして連れが見つかると、エリアス様たちはギャンブルを始め、それを朝まで続けるというろくでもないものでした。呆れ果てた私はある日、エリアス様に訊ねました。
「エリアス様は一日中何をしておられるのですか?」
「……色々だ」
「色々、と申しますと?」
「それは色々だ」
「それは有益なことなのですか?」
「場合によっては」
「エリアス様の人生において、それは有益なことなのですか?」
「いいか、セリア、有益なことを続けるのが人生というわけではない。人は何かのためにだけ時間を費やせるほど、出来た存在ではないんだ。例えば、そうだな、セリアが磨いてくれている銀の食器もそうだ。ナイフやフォークが役に立つからといって、ずっと何もせずに使い続けていては、汚れていく一方だ。そしてしまいには誰にも見向きもされず、ゴミ箱に捨てられてしまう。そうならないために、セリアは銀の食器を磨いてくれているのだろう? 人もそういうものなんだ。何かのために、と使い続けては汚れ、輝きを失ってしまう。だから自らを長く保たせるためには、それとは違う時間が必要なんだ」
「なるほど、エリアス様は銀の食器のように、ご自分を磨いていらっしゃる、と?」
「まあ、そうだな」エリアス様は苦笑しながら答えました。
「それでエリアス様はいつご自分を、お使いになるので? 私が銀の食器を磨くのは、エリアス様のためにです。エリアス様には少しでも快適な食事をしていただくために磨くのです。然るに人はどんな時間を過ごすのであれ、何かのために生きている存在だと私は考えます。エリアス様は一体何のために自らをお磨きになっているのですか?」
私の質問にエリアス様は沈黙を貫きました。エリアス様ご自身が明確な答えを有していなかったのか、それとも使用人の分を弁えぬ主張に閉口してしまったのかは分かりません。しかしエリアス様のご機嫌が、そのお顔と一緒に段々と下を向いていったのは確かのようでした。
「話は変わりますが」と、私はエリアス様に話しかけました。
「何だ?」
「ホレイショー様はエリアス様と同じお歳には、既に海軍の水兵として独り立ちしておられたとか……」
私は偉大なるホレイショー様の薫陶を期待して、話をしてみました。ホレイショー様のご子息であらせられるエリアス様なら、きっとそれに感化されて、踏み外してしまった道から元に戻ってくれるだろうと信じて。しかし残念ながら、返ってきたのはエリアス様のお怒りのお言葉でした。
「うるさい! お前に何が分かる!」
今ではエリアス様のお怒りの由来は分かります。誰からも父親と比べられ、自身をちゃんと見られることがなかったのでは、ホレイショー様の名前も疎ましく思うこともあるでしょう。
後年、エリアス様は語っていました。「あの頃は、みんながみんな私に父のようになれと言っていた。私にはその期待が重かった。それほど父は私の前に厚い壁となって存在していたのだ」と。
私の言葉はエリアス様に単なる重石を乗せただけで、何ら励ましとはなっていなかったのです。しかし、それは後になって分かることであり、十二歳であった私には単にエリアス様の無作法な態度が目に付くだけでした。そうして腹の据えかねた私は、ある一つの決心をすることになりました。それはエリアス様の存在と居所を強制徴募隊に知らせることでした。
強制徴募隊とは、その名の通り強制的に徴兵する部隊の名前です。彼らには一八歳から五五歳までの成人男性を問答無用で強制的に兵役につかせる権限が与えられていました。彼らによって被害にあう人々は多数いましたし、いきなり一家の大黒柱を失ってしまう悲惨な家族もいました。
そのため彼らは悪名高く、人々から恨まれ、忌避されるような存在でした。しかし、エリアス様の生活態度を見た私にとって、市民から恐れられる強制徴募隊は、まるで救いの女神のように思えました。
翌日、強制徴募隊の皆々様方は暴れまわるエリアス様をしたたかに打ち据えながら、港へと連れ去っていきました。私はその様を一通り眺め終わると、ホッと安堵の息を吐き、再びコリングウッド卿のお屋敷へと戻ることにしたのでした。




