南風
風向きは、風が吹いていく方向ではなく、風が吹いてくる方向のことです。
つまり、南風は、南から北へ吹く風のことです。
火薬運搬員として砲甲板と火薬庫を行ったり来たりしていた私ですら、外の様子は分からなくても、水兵たちの様子の変化で戦場における天秤の揺れ具合を計ることができました。
戦闘開始直後は熱狂的とも言える雰囲気の下、砲弾を撃ち続ける。まだこの時は天秤が吊り合った状態ですから、勝利を意気込む気持ちはあれど、比較的冷静に行動します。火薬は適量で、大砲の熱を冷ますのにも、次射を撃つのにも焦りは見られません。
ですが、敵の砲弾をもらい、天秤が向こうへ傾くと、場の様子は一変します。早く天秤を元に戻そうと躍起になる余り、照準が甘くなり、また火薬の量もいい加減になり、敵へ与える損害が低くなります。
そしてそういった状態に砲手たちは精神を荒廃させます。敵や味方、そして自分への罵声が飛び交い、戦況に目を向け過ぎて、負傷者への手当てすら疎かにしてしまいます。
逆に天秤がこちらに傾けば、兵士たちは有能足りえます。日頃の練習成果を遺憾なく発揮していると言えるでしょう。砲弾の狙いは正確で、例えこちらに被害が及ぼうとも、決して慌てることなく状況に対処し、負傷者も速やかに軍医のいる船倉へと届けられます。
勿論、兵たちには勝利を掴み取ったという驕りは見られません。かといって、今にも切れそうなほどの緊張の糸をピンと張り詰めているわけでもありません。目前のことに集中できる、ほどよい冷たい空気がそこにあるのです。そして私はそういった雰囲気を自分の肌で感じ取っていたのでした。
幸いなことに、エリアス様はご無事でいらっしゃいました。お顔は砲煙の煤で真っ黒になり、大砲の放熱によって暑くなった砲甲板で少しでも涼むためか、上半身は裸になっており、下半身も下着一枚だけのお姿。また負傷者の血によって濡れた床で足を滑らせないためか、靴を脱いで裸足になっていました。
随分とみすぼらしい格好でしたが、五体満足。エリアス様は周りの兵たちにこき使われながら、必死にご自分の義務を果たしておいででした。
その様子を見て、私も戦いに勝ったような興奮と充足感を得ました。無事に戦いを終えられて、エリアス様は成長した。そのことが私の胸の中を満たし、心を昂ぶらせたのです。
私は戦いの最中にありながら、エリアス様のこれからの生活をどうするべきかに意識を向けていました。そしてそれが如何に愚かであるかを、次の瞬間に思い知らされたのでした。
ヴェルレーヌ艦隊の動きが変わったのは、朝を迎えてからでした。それを機としたのは、北西から南西への風向きの変化でした。〇六時三二分、ヴェルレーヌ艦隊は錨を揚げ、艦同士を繋いでいた鎖を解いたのです。
その行動の意味するところを真っ先に悟ったのはアウェリアのキーツ提督でした。キーツ提督はただちに太索を解くように味方の艦隊に旗旈信号を送りました。
しかし、それが伝わったのは海側にいたキーツ艦隊のみ。陸側にいたエランとエリーゼには、キーツ、ヴェルレーヌ両艦隊の砲煙が邪魔をして確認することができませんでした。
もっとも例えそれが見ることができたとしても、果たしてその後の結果に違いが出たでしょうか。そう疑問に思ってしまうほど、ヴェルレーヌ艦隊の動きは迅速なものでした。
今まで北からの風により艦を動かすことができず、救援に回ることもできなかったヴェルレーヌ艦隊が帆を広げ、キーツ艦隊に向かってきたのです。
それにキーツ提督並びに隷下の艦長らは意表を突かれるものがありました。取り分けエラン、エリーゼの両艦長のそれは甚大なものでした。
何故ならその二隻があったのは砂州が広がる航行困難な場所だったからです。確かにエランとエリーゼも敵の後背に回ることには成功しましたが、それは何時間も時間をかけたゆっくりとしたもの。それもエリートの犠牲の上でのことです。
ですから、例え残存したヴェルレーヌ艦隊が救援に来るとしても、目前の敵艦を掃討した後というのが、エラン、エリーゼ両艦長の目算でした。そしてその上でなら十分に敵に抗しきれる余地が自分たちには残っている。
そう考えていただけに、二隻の艦は虚を突かれ最悪という形で敵を迎えることになりました。横に並ぶ敵艦に対してエランとエリーゼは垂直になってしまったのです。
普通、艦隊同士の戦いは共に横並びになり、砲撃を撃ち合うというものです。それは大砲が舷側に配置されていることから当然のことでした。
戦艦の理想の形として前と後ろにも十全に大砲を配置して死角を無くしたものが求められます。しかし、それを殊更追求すると艦は円形となってしまい、航行が極めて難しいものとなってしまいます。
そのため艦の形は細長く、艦首と艦尾には片手で数えられるだけの大砲しか置けないものとなるのでした。そしてエランとエリーゼはその数少ない大砲だけで圧倒するように砲を並べる敵艦隊と対峙しなければならなかったのです。
更に厄介なことにエリーゼからの攻撃は艦首前方にあるエランが邪魔となっているため、攻撃ができないのでした。事態はまさしく最悪の様相を示すものでした。




