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戦闘準備

 水平線の向こうに発見された敵艦の数は全部で二七隻。ノストラム海艦隊と合流し、再編した一六隻のキーツ艦隊より十隻以上も多い数でした。その数の差は海戦においては絶望的。必勝を期するなら、是非避けるべき戦闘です。


 しかし、キーツ提督がアウェリアから請け負った責任は、それほど軽いものではありませんでした。それに何よりここまで来て踵を返していたら、アウェリア海軍の名折れです。


 海兵の鼓手は勇んで「全員戦闘配置につけ」のドラムを鳴らしました。水兵と海兵はただちに持ち場につき、戦闘準備に取り掛かります。


 甲板では、敵の砲弾の威力を少しでも軽減するためにハンモックを舷側に網目状に張り、その上に敵の海兵隊の侵入を防ぐためにネットを幾重にも張ります。


 これには他にも落下してきた破片や死骸によって甲板上の人間の作業を滞らせるのを防ぐためでもありました。ここまで厳重に張り巡らされたそれは最早壁といっても等しく、日の光さえまばらにしか届きません。しかし、これでも敵の大砲を防ぎきるには足りません。


 ネットを張り終えますと、次は攻撃による帆桁(ヤード)の落下を防ぐために、それを鉄の鎖でしっかりと固定。そして甲板には血で滑らないように砂がまかれます。喫水線より上の甲板では、更に戦闘中の移動に支障をきたさないために粗布カンバスの仕切りを含めた全ての隔壁が取り除かれます。


 また家具、行李、箱といった水兵の私物も障害物とならないように船倉の奥にしまわれるか、後ろに曳航えいこうしている短艦(ボート)に移されます。ここまでしてやっと戦闘準備が完了となります。


 最後に、主席海尉の確認を経て、艦長への報告。そしてそれを受けたイェイツ艦長が激励を込めた演説を行います。


「皆、今までの長い航海を耐えて、よく頑張ってきた。今回の航海においては色々なことが起こった。各員はそれらについて何かしら思うこともあるだろう。だが、今はそれを自分の胸にだけ留めてもらいたい。我らがアウェリアの敵は、この海の向こうに確かにいるのだ。それを忘れないでもらいたい。そして各員が協力してことに当たれば、エリーゼの奮迅の働きでもってガウルとアリュートスを撃退し、その栄誉でもって祖国アウェリアに帰ることができるだろうと私は確信している。かかる戦いは、アウェリアのみならずエウーロ大州の趨勢を決める重大な局面である。我らの勝利でもって、アマルナ湾に凱歌を挙げよ! 我らの勝利でもって、アウェリアを讃えよ!」


 イェイツ艦長の力強い演説から三時間が経過した頃、ようやく目的地あるアリュートスのアマルナ湾に着きました。時刻は一六時〇七分。風向きは北西。既に陽は傾き始めていました。


 そこにいたのはガウルのジュール・ヴェルレーヌ提督率いる砲門一二〇の旗艦シトロエンをはじめとする二七隻にも及ぶガウルとアリュートスの連合艦隊でした。


 ヴェルレーヌ提督はエウーロ大戦を生き抜いた老将です。その苛烈な攻勢は、海にあって「烈火」の二つ名を頂いたほどで、また「常勝」のニーソン提督の右目を奪ったことでも有名な方でした。


 その「烈火」のヴェルレーヌ艦隊の投錨列線は陸を背にアマルナ湾周辺砂洲の南西端から北東に延びていました。その自然の地形を利用した布陣はキーツ艦隊を迎えるにあたって、まさに鉄壁なものでした。


 これに対して「慧眼」のキーツ提督が用いた作戦は艦隊による挟撃でした。勿論、それは無謀とも言えるものです。


 ガウル・アリュートスのヴェルレーヌ艦隊はアマルナ湾の陸側に位置し、その湾には浅瀬が広がっているのです。その上、視界が利かない夜とあっては座礁する確率も高く、その中での艦隊運用は自殺といっても過言ではありません。


 しかし、キーツ提督の決断はそういった事実を目の前にしても、決して揺らぐものではありませんでした。そしてその後背を突くように命令されたのが、一等級戦列艦エリート、二等級戦列艦エラン、そしてエリアス様の乗る二等級戦列艦エリーゼでした。


 夜になり、月が隠れると、まず一番艦としてエランが暗闇の中を測深しつつ、ゆっくりと砂州の間を進んでいきます。そして北東の敵の艦首をかわして、陸岸側に回りこみ投錨し、僚艦の目標として設定。以後、二番艦であるエリーゼ、三番艦であるエリートと続き、敵の列線を残りの艦と左右から挟み込むように投錨し、攻撃の開始となります。


 段々と夜が深くなる中をエリーゼは微風に吹かれながら、エランの航跡を辿ります。エリーゼの中は粛々たるものでした。これから始まる戦いにおける不安なのか、それとも座礁して戦いに参加できない恐れなのかは分かりません。


 しかし、水兵たちは自分たちに与えられた義務を全うすべく、精一杯働いていました。小さな怒鳴り声で何度も情報を伝達し、確認し、エリーゼの操艦を慎重に行います。そういったピリピリとした空気に当てられたのか、操舵に関係ない海兵たちの表情も引き締まっていきました。


 そのまま三時間も経つと、エリーゼは目標の場所へと無事に到着。残念ながら、三番艦であるエリートは途中で座礁してしまいましたが、大方はキーツ提督の思惑どおりに事を運ぶことができました。


 布陣を引き終えると、艦内の空気が再び変わりました。意気揚々とはしゃぐもの、そわそわと動き回るもの、一人じっと腕を組んで佇んでいるもの、とたくさんの人の姿が見られました。中には遺言を預けあう方たちまでいました。


 そんな中、エリアス様はというと、手斧ハンド・アックスとナイフを腰に下げ、砲甲板(ガン・デッキ)で挙動不審にうろついて回っておりました。戦いによる緊張によってか、船酔いは見られませんでした。しかし、ダン海尉の「船酔いは邪魔だから」という嫌がらせで、急遽砲甲板に配属されることになっては、戸惑いや不安はどうあっても表出してしまいます。


 エリアス様は盛んに首を振っては視線を色々なものにぶつけ、立ち居地も一〇秒と経たず頻繁に変わるという何とも忙しないご様子でした。そういった振る舞いをしている方は、勿論他にも多く見かけましたが、それがあのホレイショー様のご子息のお姿だと思うと、途端に情けなくなるのも、また事実でした。


 火薬運搬員(パウダーモンキー)として配置された私は、戦闘前だというのに関わらず、思わずエリアス様に詰め寄ってしまいました。


「何をしておいでですか、エリアス様。そのような落ち着きのない様では周りに不安を与えてしまいます。それではまだ生まれたての小鹿のほうが立派というもの。どうかしっかりと足を地につけてください」


「ん、ああ、すまない」


 私は度肝を抜かれました。平生のエリアス様なら、ここで一つ、二つの皮肉でも言って、こちらの神経を逆撫でします。そのエリアス様が素直に私の言葉を聞き入れて、謝ったのです。


 これは天変地異の前触れでしょうか。とはいえ、これから自分の命をかけた戦いが始まるのです。


 そんな状況ともなれば、やはり人はいつもと違うのかもしれません。そして此度の戦いがエリアス様にとって初陣であったというのが、それに輪をかけたものだったのでしょう。


 実際、エリアス様が前回に乗った艦は北洋探検航海で戦闘には何ら縁があるものでなく、戦争に赴く軍艦に乗るのも今回が初めてだったのです。


 そんなエリアス様が無理矢理にキーツ艦隊所属のエリーゼに乗せられたとあっては、ある程度覚悟をもって軍艦に乗ることにした他の水兵や海兵たちと違って、気持ちの整理に時間がかかるのかもしれません。そのことを思うと、私は少なからず心を咎められる思いがしました。


 エリアス様は軍とは関係なく日々を過ごしていた民間人だったのです。私はそれを何の顧みもせずに軍に放り込み、エリーゼに乗せたのですから、罪悪感を覚えます。しかし、以前のように時間を無為に潰しているエリアス様の存在も決して許せるものではありませんでした。


 例えどれだけ私の身が汚されようと、どれほど私の心が責め立てられようと、私がいただいたホレイショー様のご慈悲は、それらに勝る大切なものなのです。ですから、私自身がエリアス様から憎悪を向けられても、私には十分に耐えられることができました。


 それほど私にとって、ホレイショー様は重い存在だったのです。とはいえ、私はエリアス様に仕えるメイド。エリアス様の役に立ってこそ、私に価値が生じてくるものです。


「これから戦闘が始まります」私はエリアス様を鼓舞するべく話しかけました。


「ああ」


「ホレイショー様なら、この場合どう振舞ったでしょうか。少なくとも今のエリアス様のように、震えていたことはないでしょう。エリアス様はホレイショー様のご子息なのです。その血脈はアウェリアを導く灯台となるものなのです。どうかそのことを心に留めてください」


「……またホレイショー様か」


 エリアス様は私の言葉を耳に入れると、眉をひそめて、私をねめつけました。所在なさげに動いていた両の手も、今では拳が握られています。そこにエリアス様の喜び以外の感情が表れていることは明白でした。


 しかし、それでも私はエリアス様に恐怖や不安を抱えたまま戦闘に臨んで欲しくはなかったのです。その不必要な感情に囚われて咄嗟の判断をできずにいたら、それこそ命を落としてしまうかもしれないというのが戦場なのです。私はエリアス様から目を逸らさず励ましの言葉を並べました。


「ええ、ホレイショー様は幾多もの戦いにも怯えることなく、勇敢に戦い抜き、アウェリアに勝利を届けてきました。そのホレイショー様のご子息であらせられるエリアス様が、慄然りつぜんとしていてはおかしいというもの。大丈夫、エリアス様ならできます。あのハリケーンの日、エリアス様はご立派に恐怖を克服なさって、勇気を見せてくれたではないですか。そのエリアス様なら、たかだかガウルとアリュートスの連合軍を目の前にして足を竦ませる必要はないのです。そしてそれこそホレイショー様の血を継ぐものとして当然のこと。今はそれを証し立てるための絶好の機会でもあるのです」


「はっ、何故ホレイショーの息子であることを証明するために、そんなことをしなければならない。そんなもの俺は求めてやしない。俺は俺のやりたいようにやって、俺の在り方を示す。ホレイショーなんか関係ない。父親なんか関係ない。俺は俺であって他の何者でもない。俺はただのエリアス・ニーソンなんだ。頼むから、セリア、お前は黙っていてくれ」


「ただの、ではありません。今のエリアス様はホレイショー様と同じアウェリア海軍の軍人。泣き言は許される立場にはないのです」


「ここに勝手に連れてきたのは、セリアだというのにか?」


「過程はどうあれ、今のエリアス様の立場が変わることはありません。それをお忘れなきようお願いします」


「はっ、忘れてなんかいないさ、忘れられるもんか。問題の元凶が絶えず俺の目の前にいるんだからな」


「なるほど、さすがはエリアス様です。確かに敵であるガウルを目の前にしては、その存在を忘れられるわけがありません。私ごときが過ぎたことを口にしました。申し訳ありません」


「俺の最も憎むべき敵は、今俺の手の届くところにいるんだが?」


「それなら私は尚更エリアス様の側を離れるわけにはいきません。主人を守るのもまたメイドの務め」


「そのメイドが主人の命を危険に晒しているのでは?」


「まあ、そんなメイドがどこにいるのでしょう! そのような輩を目にしたら、是非メイドとしての嗜みを教えて差し上げたいところです」


「なるほど、俺はセリアのことは好きになれないな。いや、やはり嫌いだ。俺はそれを再確認したよ。本当にありがとう、セリア」


「どういたしまして。私の存在が少しでもエリアス様の一助となれば、これに勝る喜びはありません」


 私が真顔でお礼を言いますと、エリアス様は嘆息して、目線を外へと向けました。その佇まいはぶっきらぼうで、戦闘を前にしての姿にしては、どこか頼りないままです。


 ですが、肩から力を抜けたエリアス様を見るに、それは良かったと私には思われました。そして私はそれを見届けると、大人しく奥に引っ込みました。


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