ハリケーン
エリアス・ニーソンを頭から追いやった私は、エリーゼの様子を探ろうと上甲板に出ました。その瞬間、艦内に悲鳴とも怒号ともつかない声が、嵐に負けず支配しました。エリーゼの錨は浅堆に上手く引っかかっていたのですが、錨索が切れ、錨を失ってしまったのです。
途端にエリーゼはその場から流されます。このままでエリーゼもエスプリの二の舞です。エリーゼの主であるイェイツ艦長をはじめ、皆の目が座礁したエスプリに向けられました。
「風上に舵を切れ!」
イェイツ艦長の金切り声が聞こえました。迫る危険を回避すべく、操舵手はただちに言うとおりにします。何のかんの言っても、イェイツ艦長はその重職にまでのぼりつめたお方です。
その判断には人後に落ちないものがあります。そしてそれを証明するかのようにエリーゼは浅瀬に竜骨をこすらせながらも、何とか迂回することに成功しました。しかし、最悪はこれだけで終わりを見せませんでした。
この時、キーツ艦隊所属二等級戦列艦エランが錨を引きずりながら、その右舷をエリーゼに向けて迫ってきたのです。私をはじめ、多くの水兵、海兵が、猛然と迫ってくるエランに目を向けました。
このままではエリーゼとエランは衝突してしまう。誰もがそのことに思い至りながらも、その未来に恐怖するあまり、身体を竦ませ、動くことができませんでした。ですが、その中でただ一人、声を上げ、エリーゼに乗る人々に忘れられてしまった時間を取り戻させるようとする人がいました。
「おええぇぇぇっ!」
エリアス・ニーソン様です。中甲板で蹲っていたはずのエリアス様は、いつの間にか上に来て、舷縁から嘔吐していました。
頬にある殴られた痕から、どうやら下から追い立てられたようです。何とも情けない様でした。しかしそんなエリアス様も、迫り来るエランに気がついたのでしょう。やおら顔を上げると、一層顔を蒼くして勢いよく報告してきました。
「イ、イェイツ艦長! 右舷艦首前方より、僚艦が接近! い、急いで回避運動を!」
「知っています! とっくの昔に!」今更なことに、私は思わず声を荒げてしまいました。
とはいえ、エリアス様の言葉により、イェイツ艦長は恐慌状態より回復なさいました。そして皆がイェイツ艦長の命令を聞くべく、顔を向けます。
しかし、それでも嵐に振り回されるエリーゼを、どうしたらいいのか分からなかったのでしょう。イェイツ艦長の口から、命令が飛んできませんでした。
勿論、それは艦長としてはあってはいけない行動でした。どんな時も艦長は毅然と構え、適切な命令を部下に下さなければならないのです。ですが、この沸騰するように沸き返る海で、ほとんど操艦不能な状態で、一体どれだけの人間が、その職務を全うできたでしょうか。
ことアウェリアにおいても、その数は決して多くはないでしょう。それほどハリケーンは暴虐に満ちていたのです。
「エランが来るぞ!」
甲板にて乗組員の声が聞こえてきました。イェイツ艦長の懊悩を斟酌することなく、依然とエランの接近はやまず、ますますその距離を詰めてきました。
いよいよ衝突の時間は残り少なくってきています。エリアス様に最早躊躇っている暇はありませんでした。
「前檣支索帆を揚げる準備を! 合図をしたら、すぐに揚げろ!」
それはエリアス様の声だったと、私は間違いなく記憶しております。エリアス様は、嵐の咆哮よりも尚大きな音で、叫び声を上げました。
イェイツ艦長を無視しての命令は越権行為であり、鞭によって咎められるべきもの。ですが、死を目前にして真っ白になった水兵たちの頭の中には、何の抵抗なく届けられることになりました。
そして水兵たちが持ち場に着くと同時に、エランは空を覆うかのような波と共にエリーゼに向かってきました。
「今だ! 帆を揚げろ!」エリアス様が腕を振るいながら、喉を震わせました。
普通、錨が意味を成さないような荒天で帆を張るのは考えられない行為でした。そのように吹き荒む風では、どの帆も持ちこたえられないからです。
しかし、それだけの強大な風の力があれば、素早い行動が可能なことも事実でした。エランがぶつかると思った瞬間、暴風を孕んだ帆により、エリーゼの艦首が急速回頭。エランの猛烈な体当たりを受け流そうとします。
「帆をたため! 舵中央!」
エランを見据えながら、エリアス様は迅速に命令を下し、水兵もそれを行動に移していきます。しかし、それでもハリケーンの中では無駄な足掻きだったのかもしれません。
エリーゼの回避運動も空しく、荒波に押し流されたエランが、その巨体をエリーゼにぶつけてきたのです。猛烈な破壊音が、嵐の音を押しのけ、場を支配します。
私の息は止まりました。このまま死ぬのだ、と。眼前にまでやってきた死に、私は呼吸することすら忘れ、棒立ちとなってしまいました。
しかし、いつまで経ってもエリーゼもエランも沈没することはありませんでした。二つの艦は艦首斜檣と帆桁端を接触させるだけで済んだのです。
私は右舷をこすらせるだけのエランを見て、ようやく息を吐くとことができました。しかし、それも束の間に再びエリアス様の声が、私の耳に届きました。
「全員ロープを切れ! 今すぐにだ! このままじゃエラン諸共沈没だ!」
エリーゼとエランの艦首斜檣がぶつかり、それと前檣を繋ぐ前檣前支索が近くにいた水兵たちにぶつかり、次々と荒れ狂う海に落としていったのです。
更にエランは前檣横静索を巻き込み、索具装置をエリーゼの甲板に振り落としていきました。このままではエリアス様の言うとおり、ロープが二隻の艦に絡み合い、今以上の衝撃と破壊がエリーゼとエランにもたらされるでしょう。
エリアス様はそれを防ぐべく、足をふらつかせながら必死に駆け出しました。しかし、その足取りでは危険を未然に防ぐには十分とは言えないものでした。
どんなに毅然に振る舞おうとしても、エリアス様の身体を犯す酔いは治まらなかったのです。エリアス様はそんな自分に対して、悔しさでお顔を塗りつぶしました。
このままでは、最悪の未来が現実となる。それは圧倒的な暴力となって、エリアス様の上に降り注ごうとしていました。そしてそれら一連の様を見届けた私は瞬時にサーベルを鞘から抜き、矢のように甲板を駆け抜けました。
エリアス様は本当にどうしようもない人間でした。愛想がない、人付き合いが悪い、向上心がない、おまけに船酔いであることを笠に着て、先程まで自らの仕事を投げ出していた始末。おおよそ人間としての落第点を、恥じることなく盛大に獲得していました。
ですが、今この瞬間、エリアス様はその評価を力強く押しのけたのです。そこにはまさしくホレイショー様の血脈が、太陽のように燦然と輝き照らし出されていたのでした。
それに気がついた私がすることなどは、決まっていました。私はホレイショー様のご子息であらせられるエリアス様のメイドなのです。エリアス様のこれからの道を拓くため、私はロープを切り刻みました。
二等級戦列艦を形作るそれらは数が多く、また簡単には切れないほど丈夫なものでした。ですが、今この時こそエリアス様に、引いてはホレイショー様に報いるチャンス。その認識はかつてないほどの力を、私に注ぎ込んでくれました。
ダンッ、と空で蠢く雷鳴をもかき消すほどの踏み抜きで艦の板を叩き、一閃。コールタールにまみれたロープは、見事切り裂かれました。
一つが成るのであれば、後は簡単。同じことを繰り返すだけです。私は降りしきる雨の中に混じり、尚それに負けぬように篠突く斬撃を繰り出しました。
全てのロープを切った後は祈るのみでした。その祈りが天に届いたかは分かりませんが、エリーゼとエランは帆桁を接触させながら、通り過ぎていきました。右舷後方にエランを見送ると、全員がやっと息を吐くことができるのでした。
朝になると、嵐はやみました。雲間から注がれる朝の光は、私や多くの水兵にとって、救いの光のように思えました。




