ハリケーン襲来
イスペルニア国のゴヤ岬の真西二〇海里、ポートカレー国の南東三一海里。ノストラム海への入り口を扼するフェリペ海峡を目の前にするそこは一際風が強く、暗礁が多いことで船乗りたちに恐れられている場所でした。
慎重を期するべく水兵たちが投鉛台と舷縁から身を乗り出し、可航水路を操舵手に伝えていきます。しかし、朝早くから吹き続ける風と、徐々に高まりつつある南からのうねりによって、キーツ艦隊はゆっくりと確実にその水路から外れていくのでした。
このままでは座礁をしてしまう。その可能性を危惧したエリアス様は艦尾楼で空の模様を確認していたイェイツ艦長に投錨すべきだと具申しました。
「錨を下ろす? 何故そんなことをしなければならない。教科書でも読み直したまえ」
イェイツ艦長の答えは否定でした。そしてそれを隣で聞いていたのは、エリアス様の代わりに主席海尉となったジョージ・ダンでした。彼はすぐさまエリアス様を嘲笑しました。
「どうした、エリアス、そんなに船酔いが酷いのか? だけど、お前のためにこの艦を止めるなんてことはできないんだよ。そんなに揺れるのが嫌だったら、さっさと飛び降りて陸にでも戻るんだな」
結局、エリアス様の案はキーツ提督へは伝えられず、不採用に終わりました。そもそもイェイツ艦長には皆の前でエリアス様の意見がどれだけ正しかろうと、それを受け入れる余地などなかったように思えます。
水兵の反乱によって降格された人間の考えを重用しては、反乱の意義を否定するようなもの。それこそまた争いの火種をエリーゼにばら撒くことになってしまいます。エリアス様はそういった周りのことを考える器量は、まだその時にはありませんでした。
一〇月二一日。次第に天気は荒れ、エリアス様の不安を表すかのように嵐の模様を呈してきました。このまま座して、暗礁の多いこの海域で嵐と遭遇することは避けなければなりません。
嵐を前に投錨しないとなると、キーツ艦隊の取る選択肢は一旦来た路を戻り、北西のローレイロ湾を目指すか、このままゴヤ岬がある東のフェリペ海峡を越えて、この海域を抜け出るかになります。
しかしローレイロ湾に戻ることは、艦隊に余計に時間を取らせ、目的地の到着時間を遅らせることになります。反対にフェリペ海峡を出るに当たっては、陸の近くを通ることになり、嵐に追いつかれて場合、岸壁にその身をぶつけ、艦隊が全滅してしまう恐れがあります。
その二つの選択肢を目の前にして、キーツ提督は安全を取ってローレイロ湾を目指すことにしました。しかし、結局そこに辿り着けたのは、僅か二隻だけでした。折から強まる風と、視界を塞ぐような大雨に動きを阻まれたのです。
夜半過ぎになると、風は南東へと向きを変えました。このまま雨と風を間切ってローレイロ湾に向かうことを不可能と判断したキーツ提督は、直ちに隷下の艦に転針を伝達しました。
しかしそれは大雨により、全ての艦には伝わることはなく、また視界の悪さにより、旗艦ロータスの動きも完全に把握できた艦も多くはありませんでした。
そのままキーツ艦隊は投錨すべき場所を探して南進を続けていると、風と雨は弱まっていきました。波による縦揺れは相変わらず酷いものでしたが、アウェリア海軍ならば、この程度で操艦を間違えたりしません。
艦隊を指揮するキーツ提督も、そう判断したのでしょう。キーツ提督は、思い切ってこのまま追風を受けて、ゴヤ岬を抜けることを決意なさいました。
しかし翌日になると、キーツ提督を嘲笑うように風は暴風に変わり、キーツ艦隊はゴヤ岬を抜け出るのは不可能な状態になりました。結局、キーツ艦隊はエリアス様が初めに具申した海域を右往左往することになり、夕方にようやく見つけた浅海域に投錨することに成功しました。ですが、それで無事に終えられるほど、ハリケーンは優しいものではありませんでした。
それから朝を迎えるまで、キーツ艦隊は地獄のような時間を耐えなければなりませんでした。荒れ狂う風と波は時間ごとに強くなり、暗闇の空から降る雨は、弾丸のように水兵たちに襲いかかりました。その時の様子を旗艦ロータスの水兵であるオースティンが、つぶさに記録しています。
◇ ◇ ◇
一〇月二三日のハリケーンは強大なものだった。視界を覆いつくすかのような土砂降りと身体を吹き飛ばすかのような強風で、我々水兵の作業は思うとおりに進まなかった。中には作業中に転倒して怪我を負うものがいた。だけど、それだけで済んだ彼らは幸いだっただろう。夜になって二四日に差しかかった頃、より一層激しくなった風に煽られて、その身を艦から落下させた仲間がいたのだ。彼は歩哨に立っていた海兵の一人だった。潮の流れは異常に速く、救助に出るには絶望的な状況だった。我々にできることは彼のことを忘れて、一刻も早く自らの作業に戻ることだけだった。
◇ ◇ ◇
荒れ狂うハリケーンはその一挙一動につき、私たちの眼前に死を突きつけてきました。国のために勇猛果敢に敵と戦う姿を見せるアウェリア海軍の兵たちも、自然の驚異を目の当たりにして恐怖の色を、その顔に映すのでした。
その中で一番最初に悲劇が襲ったのは、キーツ艦隊に所属する一等級戦列艦エスプリでした。夜に入る頃、強烈な風と波によって容赦なく錨索は切られ、暗礁へと乗り上げってしまったのです。
一等級戦列艦ですらそうなるのですから、フリゲート艦などは嵐のなすがままです。まるで子どもの手の中にあるオモチャのように振り回され、最後にはその全てが海の藻屑と消えていきました。
多くの水兵たちたがフリゲート艦やエスプリのようになるのを避けるべくエリーゼを走り回っている間、エリアス様は一際青白くなった顔を幽鬼のように浮かべ、中甲板の隅っこで一人、胃の中身をバケツに吐しゃしていました。
私はそれを見るまで船酔いなど大した問題ではないと思っていましたが、どうやらそれは見当違いのようでした。ほとんどの水兵たちはエリアス様に気がついていませんでしたが、彼を目にとめた何人かはあからさまな舌打ちをしていました。
このまま醜態を晒し続けてもらっては、それこそホレイショー様のお顔に泥を塗るようなもの。私は敢然とエリアス様のもとに歩み寄り、叱咤することにしました。
「エリアス様、こんなところで何をしておられるのですか! 皆が一生懸命働いているというのに、エリアス様は恥ずかしくないのですか!」
「た、頼むから……話しかけないでくれ。今は気持ち……悪いんだ」
「エリアス様、私はそんな言い訳は聞きたくありません。エリアス様はこんな大変な時に何もせずに過ごされるおつもりですか?」
「あ、あのな、俺だって好きでこうしているわけじゃない……ぞ」
「では、どうかお願いですから働いてください!」
「だけど、い、今の俺に何をすることがある? いや、何ができる? 俺は病人だぞ。こ、れはしょうがないことなんだ」
「何を甘ったれたことを! 大体、何をするかなんて、水兵ではない私には分かはずがありません。ですが、海尉であるエリアス様には、お分かりになられることでしょう?」
「俺はもう海尉じゃない! それに何より俺はホレイショーじゃない! ただの人だ! ……って、気持ち悪っ。そ、それにこんな俺が何をしたところで、なな、何の役に立つ? 周りに迷惑をかけるだけだ」
「……では、こうしていることが、何かの役に立つとお思いで? このまま何もしないでいては、何も始まりません。エリアス様、意志あるところに道は拓くのです。人には誰でも失敗はありますが、それを恥ずかしがる必要はどこにもありません。きっとその先には成功が待っているのですから。エリアス様、成せば成るのです」
「あっそう」エリアス様はしきりにお腹をさすりながら、どうでもよさげに呟きました。
「このクズめ!」私は心中、エリアス様に叫びました。「一体誰のためにわざわざ進言していると思っているんですか!」
ここに至り、ようやく私はエリアス様に見切りをつけました。人の心配を無下にする人としてあるまじき姿。またこんな状況にあっても、無関心を貫き、力なく打ちひしがれたまま。
この男は本当にホレイショー様のご子息なのか。誰よりもホレイショー様を敬愛している私ですら、その血脈に疑問を感じてしまうのでした。いえ、この場合は誰よりも敬愛しているからでしょうか。それくらいにエリアス様は情けなく、ホレイショー様の存在を否定していたのです。
私は溜息を吐き、踵を返しました。エリアス・ニーソンはホレイショー様のご子息であるはずがない。彼がホレイショー様の息子であるというのは、何かの間違いだろう。本当の子どもは、違うところにいる。私はそう結論づけて、その場を後にしました。




