お休み
エリーゼに乗って私がそのことに気がついたのは、すぐのことでした。エリアス様と他の水兵や海兵たちとの関係にどこかギスギスしたものがあったのです。
当初は初めて会う人たちだから、早くに相手と距離を縮めるのは無理からぬことだろうと思っていましたが、それは時間が経っても変わらず、寧ろひどくなる一方でした。
私は仕事の合間に檣の影からこっそりとエリアス様を覗き見ました。果たしてこの原因は何にあるのでしょうか。私の不安をよそに、そこには仕事を淡々とこなすエリアス様がいるだけでした。大変青白い顔をしていらっしゃいましたが、それ以外どこにも問題はあるようには見えません。
てっきり私は陸で見たエリアス様の怠惰な生活がここにも表れて皆に疎まれていると思っていましたが、それは杞憂のようでした。とはいえ、真面目に仕事をこなすエリアス様の姿は大変誇らしく、私は熱くなる目頭を押さえながら、今は亡きホレイショー様にエリアス様のお姿を報告致しました。と、その時です。近くを通る若い士官候補生の二人がエリアス様を指差して笑ったのです。
「まだこんなところにいたのですか、ニーソン海尉。自分はてっきり陸に戻ったのかと思っていましたよ。陸なら船に酔うこともないでしょうからね」
「全くです。そんなんで他の仕官の方々に悪いとは思わないんですか? そんな様では戦闘では邪魔にしかなりませんよ。さっさといなくなってくれると助かるんですがね。いや、マジで」
他にも色々と言われていましたが、エリアス様は彼らを無視して自分の仕事をこなすだけでした。しかし、エリアス様を揶揄するような声は彼らだけでなく、他の水兵や海兵にも及ぶようだったのです。
私は彼らの傍若無人な振る舞いに腹を立てましたが、それよりも一切の反論をしないエリアス様の態度に疑問を大きく感じました。私は周りに誰もいなくなると、早速エリアス様のもとへ行き、その旨を訊ねてみました。
「うるさい。お前には関係ない」
私の質問に対する回答は、全て同じものでした。私はそれを聞いて嘆き悲しみました。艦での戦いはチームワークがものを言います。どのタイミングで舵を取り、どのタイミングで帆を張り、またたたむか。息の合った行動をしないと艦は思ったとおりに動かず、最悪停止してしまうことになります。
勿論、戦闘中にそんな状態に陥ってしまったとはあっては、それが意味することは一つ、即ち死です。それを避けるためにも艦の仲間同士は顔を向き合わせ、家族同然の付き合いをし、お互いの呼吸を合わせていくのが常でした。しかし、エリアス様はそれを全くしようとせずに、孤独を保ち続けているのです。
私はエリアス様のそんな姿に、ただただ失望を重ねていくのみでした。とはいえ、この問題を放っておくことなどできません。私はその夜、エリアス様を嘲笑った一人の士官候補生を部屋に呼びました。
「初めまして。私の名はセリア・ロングフェローと申します。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「ウィリアムだ」ウィリアム候補生はそう告げると、私の身体をそのいやらしい目で嘗め回しながら、ゴクリと音を立てて唾を飲み込みました。「つか、いいの? マジで? こんな時間に呼び出すんだから、当然あれだよな。いや、マジラッキー。実は俺、セリアちゃんのファンだったんだよね。セリアちゃんってかわいいじゃん? そのまっすぐに伸びた赤い髪とぷっくりとした唇がマジ情熱的っつうか、そそるんだよね。いや、マジ俺の好み。いや、ほんとマジでラッキーだわ」
「ええ、当然、私たちがすべきことは、決まっています」
「マジで?」
自らの低脳さを惜しげもなくさらす言葉を撒き散らしながら、ウィリアムという名の男が鼻息も荒々しく私のところに近寄ってきました。私はそんな彼に応えて笑顔を作り、そしてそれに頬を緩ませる彼の股間を思い切り蹴り上げて差し上げました。
「ふごぁぉぉぉッッ!」
知性を微塵も感じさせない声と共にウィリアム候補生が床に膝をついたのを確認すると、私は踵で彼の顔面を踏み倒し、壁にかけてあった私の愛剣であるサーベルを手に取り、その銀色に輝く刃を彼の喉元に突きつけました。
「な……何の……マネだ?」痛みに悶絶するウィリアム候補生は、状況を理解すると、息も絶え絶えに私に訊ねてきました。
「聞きたいことがありまして、この度はウィリアム様をお呼びさせていただきました」
「聞きたいこと? そ、それなら、これは……何だよ。質問には……関係ないだろ」
「それはウィリアム様が勘違いをして私を襲ってきたので、仕方なくのことです」
「か、勘違いだあ? こんな時間に女の部屋に呼ばれれば、誰だってそう思うだろうが!」
「それはウィリアム様の、いえ殿方の勝手な認識に過ぎません。淑女であらせられる方、またそうであろうとしている人々にとって、自らの部屋に男性を招くのは、その人の価値を正確に測るためのものです。然るに、ウィリアム様の価値はあまり高いものとはなりませんでした。この度の痛みは、自らを高める一つの買い物だと思っていただければ、こちらとしても幸いです」
「思えるかぁ!」
そう言って暴れまわろうとするウィリアム様を諌めるべく、私はすかさずサーベルの切っ先をほんの少し突き刺してやりました。途端に血の赤い筋が彼の喉にできあがります。そうして彼が蒼い顔をして大人しくなったのを確認すると、私は改めて口を開きました。
「私が聞きたいことは一つです。エリアス様は、いえ、エリアス・ニーソン海尉は何故皆に嫌われているのですか?」
「は? 何だって?」
「ですから、何故エリアス様は他の方々と付き合いが悪いのですか?」
「そんなことかよ!」
「そんなこととは何ですか! それにウィリアム様のそのふざけた態度はお止めになってください。正直、虫唾が走ります」
「マジ、ショックなんだけど、そう言われると」
「いいから答えなさい」
「ニーソン海尉だろ? あー、あいつが嫌われているのは、船酔いだからさ」
「船酔い?」
「ああ」
「そんなことのために?」
「そんなこと? 馬鹿言うなよ。船乗りにとって、それは重要なことだ。それが主席海尉ともなれば、尚更だ。あいつのせいで割を食った奴だっているんだ。俺だってあいつがいなけりゃ、きっと海尉になれていたさ」
「そう……ですか」
そう言いながら、私は彼の言っていることが上手く処理できませんでした。エリアス様と他の方々を分けるのは、もっと世界を揺るがすかのような重大なものだと思っていた私には、船酔いというたった一言で済まされる答えに納得がいきませんでした。それに気がついたかは知りませんが、ウィリアム候補生はまた新たに言葉を付け足してくれました。
「そうさ。それなのにあいつはホレイショー・ニーソン提督の息子ってだけで、一番の仕官になってやがる。皆言っているぜ。ニーソン海尉は親の七光りで、あそこにいるってな。そうでなきゃ、あんな船酔い野郎の出来損ないが海尉になれるわけねえさ」
彼の言葉で船酔いが如何に船乗りの価値を下げるかを、私は遅ればせながら理解しました。そしてホレイショー様の存在によって、如何に他人からやっかみの視線を受けているのかも。
私はウィリアム候補生をぞんざいに突き飛ばし、急いで部屋から逃げていく彼を横目にエリアス様の心情を思い、秘かに同情しました。エリアス様は正当なる評価を受けていなかったのです。私は急いでエリアス様のお部屋に向かいました。
「へぇー、最近のメイドは夜も仕事をこなすのか。さすがは伯爵家で働いていたことだけはあるな。本当に優秀だよ、お前は」
エリアス様はウィリアム候補生と同様に、紳士とはかけ離れた下卑た笑みと醜悪な言葉で私を迎えてくれました。
「ええ、本当はすぐにでも自分の部屋に行って横になりたいのですが、問題のある主人を窘めるのにはどうやら昼間の時間だけでは足りないようなので、足を運ばせてもらいました」
私はそう言いながら、エリアス様の部屋を見渡しました。角灯とろうそくは丁寧に配置されていましたが、周囲の暗闇を追い払うには足らず、寂しい様相をくっきりと見せています。その頼りない淡い光が波によって揺れながら照らすものも、そこにはほとんど何もありませんでした。おそらくは生活に必要なものが入っているであろうチェストボックス一つだけです。
無理矢理に、そしていきなりにここに連れられてきたのだから、何も準備するものがなかったと言えばそれまでですが、この空虚な部屋の有様は、エリアス様の心情を表しているかのようでもあり、自然と私の心を締め付けました。
「それで一体何しに来たんだ?」エリアス様が訊ねます。
「エリアス様は何故他の方々と仲良くされないのですか?」
「またその話か。言ったろ? お前には関係ないことだ、と」
「出来損ない、ですか?」
「その言葉、誰に聞いた?」エリアス様のお言葉に俄かに剣呑な響きが伴います。
「誰でも構いません。エリアス様はそういった中傷を真に受けて、他の皆さんと距離を取っているのですか? それでしたら……」
「中傷じゃない」
「はい?」
「中傷じゃないと言ったんだ! 俺が出来損ないなのは、れっきとした事実だ」
「何を根拠にそのようなことを仰るのですか?」
「お前の大好きなホレイショー様は、俺と同じ歳に何をしていたと思う? 立派に一つの艦を指揮していたのさ。対する俺はどうだ! こんな汚い部屋に蹲っているのが精々のどうしようもない人間さ!」
「ですが、それはホレイショー様と比べてのこと。エリアス様の活躍には目が見張るものがあります。実際、エリアス様はそのお歳で主席海尉になられたではないですか」
「活躍? 俺が一体何をした? 何もしていない。ただ海尉になっただけだ。父親のおかげでな。それに父親のようになれと言ったのは、どこのどいつだ!」
私はそれを聞いて、初めて自分の失言に気がつきました。私はエリアス様にいらぬプレッシャーを与えて、押し潰していたのです。
どんな有能な船であっても、積載量を越えたものを載せては、喫水線は上がり、やがては沈んでしまいます。私は知らず知らずの内にホレイショー様という大きな荷物をエリアスのという名の船に載せていたのでした。
「別にお前だけが言っているわけじゃない」エリアス様は私の顔から私の心の内に気がついたのでしょうか、それとも自分の認識にただ打ちのめされたのでしょうか、幾分か語気を和らげて言葉を続けていきました。「皆が俺を父のような人物になれと期待して寄ってくる。そして勝手に失望していなくなる。こちらのことを何も考えずにな」
「だからエリアス様はお一人でいられるということですか?」
「さあな。何にしても俺は一人でいる方が楽だ。分かったなら、さっさと出て行け」
そうは言われても、私は部屋を出て行く気にはなれませんでした。私はエリアス様にお仕えするメイド、そして私はエリアス様のために存在する人間です。
このままいなくなってしまっては、エリアス様のためにならないのではないか。エリアス様の俯いた顔を見ますと、漠然とですが、そういった思いが私の内に湧き起こりました。
「エリアス様がお一人でいるのが好きだということは分かりました。ですが、エリアス様、ご自分のことだけでなく、この艦全体のことも考えてみてください。海尉であるエリアス様お一人が周りから外れていては、いざという時に問題が起こる可能性があります。ホレイショー様もきっと艦のことを第一に考えていたからこそ、あそこまで偉大になられたのではないのでしょうか」
「だから親は関係ない! 何故何から何まで親の真似をしなくてはならないんだ!」
私の忠言を聞くと、エリアス様は途端に苦虫を噛み潰したような表情で、怒鳴ってきました。エリアス様が抱くホレイショー様への想いを考えれば、それは当然のことだったのかもしれません。
しかし、私にはエリアス様からホレイショー様を取り除いて、ようやっと浮かぶことができるようなみすぼらしい船にはなってほしくなかったのです。私は、どんな荷物をも運ぶことができる大きな船になってほしかったのです。
そのためにも私は現状を仕方のないことだと甘受させてしまうような慰めの言葉はかけられませんでした。例えその結果、私がエリアス様から嫌われようと、それでエリアス様が成長なさるのだったら、私には嬉しいことでした。
「それがこの艦エリーゼのためであり、この国アウェリアのためでもあります」私もエリアス様と同じくらい大きな声で自分の決意を伝えました。
「俺は自分の意志でこの艦に乗ったわけじゃない!」
「では、エリアス様はあのまま何をしていたというのですか! エリアス様は何をしたかったというのですか!」
「うるさい! ああクソッ! お前さえいなければ、俺はもっとマシな生き方をできていたさ! お前さえいなければなあ!」
そう叫ぶと同時にエリアス様は私に襲い掛かってきました。その時のエリアス様のお気持ちを拙いながらに考えますと、そのままエリアス様を受け止めた方が良策のように思えました。
そうすれば、きっとエリアス様の中にわだかまる錯雑とした感情は、消えてなくなりはしなくても、ある程度は軽減できたことでしょう。そうしてエリアス様はエリーゼを支える一人の海尉として立派に職務をこなせたかもしれません。
ですが、相手の意思を無視し、女性に乱暴を働こうとする態度には、やはり納得がいくものではありませんでした。それに何よりそんなことを考える間もなく、私の身体はエリアス様の暴挙に自然と反応してしまいました。
エリアス様が伸ばしてきた腕をそのまま掴み取りますと、私はすかさず自分の身体をエリアス様の懐に入れました。そして私の背を支点とし、私が掴んだエリアス様の腕を力点とする。その作用によって、エリアス様は自らの背中でドスンと大きな音を立てて床に着地することになりました。
私は横になったエリアス様を見下ろしました。時刻はもう夜です。月も真上から西に傾いている頃合いでしょう。よほど疲れていたのか、エリアス様の顔を覗くと、すっかりお休みになっておりました。




