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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人ごっこ

 妹は廃校で見つかった。階段で突き落とされて死んだ。

 7歳の美紀の命を奪ったのは、36歳の見ず知らずの男だった。

 鬼ごっこをしていたら死んだ……男は白目をむいてケタケタと笑いながらそう言った。

 何もかもテレビで見たことだから、他人事のようだった。事実を受け入れることができない。美紀は助かる。そんな気がするのに、僕は閉ざされたままの棺桶に手を合わせていた。遺影には、カメラに背を向けた犬を抱きしめて笑う、去年の美紀が写っていた。

「翔……」

 友達から呼ばれた。僕と同じ6年1組の生徒で、双子の和樹と仁美がいた。2人とは小学校に入学してすぐ知り合い、それからずっと仲が良かった。

 和樹も僕と同じでぼーっとした様子だったが、仁美は震えながら泣いていた。怖くて泣いていたのだ。犯人が自首をして、事件は解決した。それでもこの現実に恐怖していた。


「ついてくんな。邪魔なんだよ! お前とはもう遊ばない。仁美も和樹も遊ばないってよ! そんなに遊びたきゃ、同じクラスのやつ誘えよ。いつも駅前の公園にうじゃうじゃいるだろ? なんで友達作んないんだよ? 学校でももう兄ちゃんたちに話しかけるな。さっさと友達を作れよ美紀……」

 これが僕と美紀の最後の会話になった。1年生になって3か月経っても、美紀には同い年の友達が1人もいなかった。双子と話し合って、美紀を遠ざけようと決めたのだった。あの日、美紀は僕に言われた通り、公園で同級生に声をかけ、一緒に鬼ごっこをして遊んだ。そこであの男に会ってしまったのだ。


 犯人の顔をした人面犬を見た……

 夏休みの1週間前、僕が久しぶりに登校すると、そんな噂が学校で流行っていた。美紀の命を奪った男の顔をした犬が、この街にいるというのだ。

「翔、今何考えてんの?」

 午後、その日最後の授業を受けてる時、後ろの席の和樹が僕に聞いた。僕は何も言わず、ただ首を横に振った。

「翔、帰りに俺ん家に寄ってくれ。ブス美が会いたがってる。学校に来ればいいんだけど、あいつ、外に出るのが怖いって言うんだ。なんでだと思う? 人面犬が出るかもしれないって。馬鹿だよな? でもさ、本当にいたとしたら……」

「ぶっ殺す」

 僕はそう言った。

 その時、同じ教室にいた女子の誰かが悲鳴を上げた。生徒たちは一斉に窓から離れた。風でなびくカーテンの隙間から、こちらを覗く顔があった。3階の窓の外に現れたその顔は、ごく普通の中年の男だったが、あまりにも不自然な状況だったので、とても不気味に見えた。

「1人足りない……」

 そいつが低い声を出した。次にカーテンがなびくといなくなっていた。

顔しか見えなかったが、でもあれは間違いなく人面犬だった。犯人の顔をした……

「今日休んでいるのは仁美だけだ」

 和樹が青ざめた顔で僕を見ながらそう言った。


 僕と和樹は学校を早退した。先生は理由を聞いてこなかった。30分もすれば下校時刻だったからだと思う。

 さっきの騒動は、生徒たちの見間違いという形で、すでに納まっていた。その場にいた先生も人面犬はいなかったと言っていた。それでも怖いから親に連絡して、迎えに来てもらうと言っている子が何人かいた。

 和樹の家は、学校から歩いて15分ほどの近い場所にあった。道の途中でとてつもなく長いロープを見つけた。和樹は、それが人面犬の首についていたものと同じだと言った。和樹の家のほうに伸びているのが恐ろしかった。

 大通りの横断歩道を渡る時、路肩に前方が潰れた車が止まっているのを見つけた。運転手と話していた警官が、「人面犬だって?」と大声で言ったのが聞こえた。僕と和樹は互いの顔を見た。同じことを期待したに違いない。でも足を止めようとは思わなかった。

 家に着く直前で、人面犬に追いついた。右の後ろ脚が折れている。首に雑に結ばれた太いロープが重く、辛そうだった。僕と和樹は気づかれないように後ろをついていくことにした。今にも倒れそうになりながら、よろよろと進む人面犬の後ろ姿を見て、いざとなれば殺せると思った。

「通り過ぎろくそったれ!」

 和樹が息を殺して言った。そんな願いもむなしく、人面犬はあろうことか和樹の家の前で倒れた。

「やろう」

 僕は和樹に言った。そして、近くのごみ捨て場から、壊れた大きな傘を持ってきた。和樹はロープをつかんで、街路樹に向かって投げた。ロープは高い枝に引っかかった。木から垂れ下がったロープをまたつかんで、体重をかけ、それ以上人面犬が家に近づかないようにした。

 僕は少しずつ人面犬に近づいていった。傘で触れられる。軽く突いても反応はなかった。毛の模様に見覚えがある……美紀の遺影にも同じ模様をした犬が写っていた。去年死んだペットのコハクだった。

 その時、家の扉が開いた。中から仁美が出てきて、人面犬を見て悲鳴を上げた。

「見つけた」

 人面犬が言った。見つけた見つけたと言いながら笑い続けた。

「なんで仁美なんだ?」

 人面犬と仁美の間に立って、僕がそう言うと、人面犬は笑うのをやめた。

「そいつだけじゃない。お前たち3人ともさ……この、足とまれ。鬼ごっこするものこの足とまれ」

 人面犬が前足を片方、僕に伸ばしてきた。何度も地面に落ちながら、できるだけ高く上げようと踏ん張り、震えた足は、救いを求めているように見えた。

「この足とまれ……鬼ごっこするものこの足とまれ」

 人面犬は半分意識を失っているようだった。僕は自分の手から傘が滑り落ちるのを感じた。

「ダメだ仁美!」

 和樹が叫んでいた。仁美がいつの間にか隣にいた。僕が慌てて体をつかもうとする前、和樹がロープを引っ張る直前に、仁美は人面犬の足を手で触れた。次の瞬間、地面を引きずられている人面犬の首から、和樹のほうに向かってロープが光った。和樹は驚いて手を放した。それでも人面犬の体は止まらなかった。どこかで誰かがロープを引っ張っているようだった。

 ロープは人面犬が木の枝で首吊り状態になった時に止まった。

「コハク!」

 仁美が言った。コハクは、僕が美紀と双子の4人で遊んでいた時に見つけた年老いた野良犬だった。美紀がどうしても飼いたいと言ったのでつれて帰り、たった1年間だけだったが一緒に暮らした。今、そのコハクは飼い主を殺した男の顔になって、首を吊られていた。見るに堪えない状況だった。ロープを切ることも、木に登って人面犬を降ろすこともできなかった。苦しみに悶える人面犬の姿を見て、力が抜け、立っているのがやっとだった。

「こ、の、あ、し、と、ま、れ」

 人面犬はそう言って、身動きをしなくなった。折れた後ろ足がギリギリ、手の届く位置にあった。和樹が手を伸ばしていた。僕も重い腕を何とか上げて、2人同時にその足を触った。今度は人面犬とロープ全体が光った。ロープが自然に外れていった。人面犬からロープが離れる時、顔が人間の顔から木でできたお面に変わり、コハクだけが落ちてきた。僕たち3人でコハクを受け止めた。

 コハクは微かに光り続けていた。息はしていない。尻尾のほうから、風に飛ぶたんぽぽの綿毛のように、体が少しずつ消えていくのが見てわかった。

 お面を見ると、2倍以上の大きさに膨れていた。また人面犬だった時と同じ、犯人の顔になろうとしていた。木のお面に人の顔がついているようだった。今は眠ったように目を閉じている。左右両端にひもがあり、ロープとつながっていた。

 光が納まると、お面がゆっくりと目を開いた。僕たちを見て、薄気味悪い笑みを浮かべた。

 「鬼ごっこをしよう」

 お面が縦に回転して裏向きになった。3人とも悲鳴を上げてしまった。顔の肉を剥いで、その裏側を見せられたようだった。でもそれには肉の他に、丸い目玉が2つとその上に奥歯が手前に来ている口があった。

 殺される。そう思った。その時、コハクが暴れ出した。僕たちの腕から離れると、ロープに飛びついた。コハクが噛みつくと、ロープはいとも簡単にちぎれた。

「あーあ……廃校に来い」

 お面はそう言い残し、光になって消滅した。コハクもいなくなっている。ロープはちぎれた部分から徐々に光を帯びて消えていった。ロープの先には廃校がある。僕はそう直感した。

「……帰ろう」

 僕はそう言った。双子を帰らせて、自分も一度家に帰り、そこから1人で廃校に行こうと考えていた。

 仁美がまた泣いていた。和樹が僕を呼んで、仁美に声をかけるように促したが、僕はそれを無視した。この2人は他人だ。家族じゃない。2人は関係ない。仁美がどうしていつまでも泣いているのかわからない。仁美は何も失っていない。家族が死んだのは僕だ。僕の妹が死んだのだ……


 家に帰ると、美紀の部屋に行った。部屋はそのままにされていた。美紀が学校で借りた本が、勉強机に置かれていた。お父さんに代わりに返すよう頼まれていたものだった。『学校の怪談』という本で、自分も数年前に借りた覚えがあった。手に取って、危険おばけランキングという項目が載ったページを何気なく開いた。

 人面犬は4位だった。その上が、人体模型、口裂け女、花子さんになっていた。

「ただいま」

 玄関から、声がした。お父さんとお母さんが一緒に帰ってきた。おそらく、美紀のことで一緒に出掛けていたのだろう。

「おかえ……」

 リビングで両親の姿を見ると、叫び声を上げそうになった。2人が犯人の顔をしていたのだ。まだ僕に気づいていないようだった。僕は廊下に戻り、隠れて2人の様子を伺った。

「翔のためにも俺たちがしっかりしないと……」

 まぎれもなくお父さんの声だった。しばらく見ていて気づいたが、どうやら僕の目がおかしくなっているようだった。2人に気づかれないように、僕は家を出た。

 街中の人が、あの男の顔になっていた。子供も女性も関係なく、顔だけやつれた中年の、人殺しの顔になっていたのだ。

 自分さえしっかりすればいい。自分にそう言い聞かせたが、和樹と仁美に再会した時に、やっとこの現実が耐えられるものではないと感じた。発狂しそうだった。

「翔……」

 仁美の声が僕を呼んだ。2人は僕を探していたようだった。同じように呪いにかけられていた。

 もし一生このままだったら……結婚相手も、生まれてくる自分の子供も、この顔だったら……死んだほうがましだと思った。

「廃校に行こう。鬼ごっこを終わらせないと。翔、お前ひどい顔だぞ」

 和樹が枯れた声で笑った。その声を聞くと少し気が楽になった。僕は仁美をつれていくことに反対だったが、1人にしないでと言われて、渋々一緒に行くことにした。

 廃校は、電車を乗り継いだところにある。美紀も犯人から逃げる時に電車に乗った。テレビで、片足を少し引きずりながら逃げる様子を映した映像が、連日放送されていた。どうして美紀は、助けを求めなかったのか、本当のことは誰にもわからなかった。あるテレビリポーターの恐怖で声が出なくなっていたのではないか、という意見が一番納得いくように僕には思えた。それか、周りにいる人間全員が敵に思えたのかもしれない。今の僕たちと同じように。

 電車は空いていて、僕たち3人は並んで座った。和樹は仁美に目を閉じているように言った。でも仁美は首を横に振った。目を閉じるほうが襲われそうで怖いと言った。


 僕たちは人気のない街の駅に降りた。日が暮れそうだった。田んぼ道を進み、山へ入っていった。道は舗装されていたが、車は1台も通らなかった。

 間もなく廃校が見えてきた。3階建てで、よくある鉄筋コンクリートの学校だった。門に『立ち入り禁止』と書かれたテープの切れ端がついている。それから、地面に消え切っていないあのロープを見つけた。それが校舎に消えていった瞬間、廃校の照明が点灯した。僕たちはそれが、人が点けたものではないと感じ取っていた。

 僕たちがガラス扉を開けて校舎入った時、呪いが解けた。3人はお互いを見て喜び合った。

「外のほうが逃げやすいよな。あれ……」

 和樹はもう一度扉を開けようとしたが、びくともしない。ガラスを足で蹴ると、どういうわけか和樹の足が鈍い音を立てて、足首から先が不自然な方向に曲がってしまった。和樹は歯を食いしばり悲鳴も上げすに、その足を自分で無理やり直した。

「脱臼しただけだ、大丈夫」

 和樹がこのむちゃくちゃな状況をパニックにならず耐え抜いているのは、仁美を気遣っているからだと僕はわかった。でも仁美はもう平常心を失っていた。和樹の頭を叩いて騒ぎ出した。

「大丈夫なわけないじゃん! 病院にいかないと! ……そもそもどうやったら鬼ごっこって終わるの?」

 仁美の問いかけに、僕も和樹も答えられないでいた。僕は別のことで誤魔化そうと、目に留まったものを指さした。

「あれ見て」

 奥で廊下の照明とは違う、カラフルな光が見えた。外はすっかり暗くなっていて、より派手に見える。和樹を支えながら、3人で明かりのほうに近づいていく。通り過ぎる教室を見ると、廃校なのに机も椅子もそのまま並べてあるのがわかった。ただ、ブラウン管のテレビの画面が割られていた。不良のいたずらには見えなかった。

 ネオン管でできた看板が一番奥の教室の入り口に付いていた。そこから、『BORN TO MEET』という文字が不気味な光を放っていた。


 3人で教室の中を覗いた。そこもネオンの光に満ちていた。教室の真ん中に誰かが2人、机の上に座っていた。2人とも真っ白なウェディングドレスを着ていた。顔はベールで隠されている。

「やだ、あなたの指に合うものがないわ」

 2人は会話をしていた。

「大きくてもいいの。大きくてかわいい指輪、探してちょうだい」

「おっけー、口紅はどうする? 塗ったら血がついてるみたいに見えるわよ」

「薄いピンク色にして」

「あんたって、最高」

 口紅を塗るために、1人が顔のベールをめくった。そこには骨だけの顔があった。

「骸骨男だ」

 和樹が小さく言うと、2人の動きが止まった。後ずさりをして逃げ出そうとしたが、和樹が仁美と僕の服を引っ張って、待つように言った。骸骨男が泣いてた。もう1人が必死に慰めている。男と言われたのがショックだったらしい。

 慰めているほうもベールをつけたまま大声で泣き出した。2人は立ち上がって抱き合い、歌を歌い、踊り出した。外国の歌だった。

「あんたたち、1階は平和だから、ねっ」

 歌の途中で、ベールをつけた者が僕たちに向かって言った。到底信じられなかった。

「和樹、こっちにおいでよ」

 歌が終わると、骸骨男が和樹を呼んだ。どうして名前を知っているのか、和樹が尋ねると、これは夢だからと答えた。

「この廃校で起きてる超常現象は全部、美紀の夢だから。あんたたちとコハクちゃんに何があったか知ってる。だってロープだけが戻ってきてたでしょ。信じて、あたしたちは敵じゃない。あんたたちに危害を加えるのはあの男だけ……」

 和樹は、1人で骸骨男に近づいていった。骸骨男は長い腕を伸ばし、和樹の足をつかんで、少しひねった。和樹は少し痛そうにしていたが、しばらくするとその場で飛び跳ねて「治った」と言った。

「骨を大事にしなさい」

 骸骨男がそう言うと、「肉も」ともう1人が言った。

「信じてくれてありがとう。この鬼ごっこのこと全部教えてあげる」

 骸骨男が言った。僕も震える仁美をつれてその2人に近づいた。

 2人は順番に話し出した。鬼ごっこを終わらせるには美紀の幽霊に会って、鬼を代わってあげるしかない。鬼の力が超常現象を起こす、鬼でなくなれば、この夢も終わる。3階のトイレに美紀がいる。そして各階のどこかにあの男が1人ずついる。あの男は美紀のトラウマであり、この夢の中の敵、らしい。1階の男は消滅した。だから平和なのだと2人は言った。

 これが美紀の想像なんて信じられない。そのようなことを僕が言うと、ベールで顔を隠している者が想像と夢は違うと説明した。

「夢は思い通りにはならない。私たちは自分の意志を持って存在してる。激しい運動すれば肉体は疲労する。何かに心を奪われることもある。日々成長してるの。あの男もそう。だから私たち仲間はルールを決めた。各階を自分のテリトリーにして、あの男から守ってる。1階は私、2階は口裂け女、この人にも会わなきゃダメ。そして3階は、花子さん……私たちがいる限り、男もその階から出れないの。私は失敗して、コハクちゃんを取られて外に出られちゃったけど。ロープを切ったらコハクちゃんがもっと苦しむかもしれないと思うと、何もできなかった……」

 ベールをつけた者の正体が僕にはわかった。人体模型だ。でも仁美をこれ以上怖がらせてはいけないと思って何も言わなかった。

「守るって、コハクみたいに先に倒しちゃえばいいじゃないの?」

 和樹が言った。口裂け女なら簡単にあいつを倒せると付け足した。

「倒してるわ。でも美紀が叫び声を上げると力が湧いて、復活するのよ」

 骸骨男が言った。まさにその時、遠くのほうで叫び声が聞こえた。とても長い、悲しい声だった。その叫び声が終わる頃、人体模型が椅子に倒れるように座った。様子がおかしかった。おなかがあっという間に大きく膨らんでいた。

「あんた妊娠してるわ」

 骸骨男が冗談っぽく言った。でもその声は恐怖に震えていた。

 殺して、人体模型は骸骨男にそう言っているように見えた。自分の着たウエディングドレスを力ずくで引っ張ると、おなかを見せた。そこには膨れた生々しい臓器があった。仁美が叫び、逃げようとして走り出すと、机につまずいて転んだ。倒れたまま進もうとする仁美を僕が駆け寄って立たせた。和樹はなぜか動かなかった。

 人体模型の臓器が男の顔になろうとしていた。骸骨男はその臓器をつかんで引きちぎろうとしたが、逆に臓器のほうが骸骨男の両手を捕らえた。口のようなものが手に噛みついているようだった。骸骨男が痛みに悶えた。

「早く階段へ行きなさい!」

 人体模型が叫んだ。骸骨男が首を横に振る。

「和樹……」

 骸骨男に呼ばれた。僕と仁美が必死に止めようとしたが、和樹は言うことを聞かなかった。骸骨男は人体模型の顔のベールをめくるように和樹に言った。和樹は迷うことなく、その通りにした。

 顔の右半分が筋肉むき出しの、思った通りの顔だった。もう半分の顔には丁寧に化粧がされていた。

「あー、うん。とてもきれいだと思う」

 和樹が言うと、人体模型は表情を変えず、瞬きしない目から光る涙を流した。

「ありがとう、ありがとう和樹」

 骸骨男は、そう言いながら人体模型の臓器に取り込まれていった。


 しばらくの間、静寂が続いた。僕たち3人は教室の入り口まで行って、様子を伺っていた。バキバキと骨が鳴る音が聞こえてきた。人体模型の手のひらから骨が突き出した。手から骨の腕が生えてきている。同じように足からも、骨の足が生えてきていた。骨の手が頭の飾りをもぎ取る。顔も変形していき、右半分からもう1つ骨の顔が出てきた。

「失敗だ、体がほしい、その子の体がほしい、仁美、仁美こっちにおいで」

 3メートルはありそうな体の中心に本体があった。顔のいたるところに管がついていて、鼓動の度に顔全体が収縮と膨張を繰り返した。真っ赤な血だらけの顔だった。

 僕たちは一斉に走り出した。男が信じられない速さで追いかけてくる。骨の手足は床でつるつると滑っていた。それでも器用に前に進んできた。

 教室と廊下の間の窓を、男がガラスを割りながら通り抜けるのが音でわかった。階段はすぐそこだ。絶対に間に合うと思ったその時、仁美の叫び声が聞こえた。

 僕と和樹は、階段の上で振り返った。仁美が足をつかまれて、廊下を引きずられていた。あの男がその先で笑っている。仁美は天井近くまで持ち上げられていた。

「つかまえたつかまえた。これで本当の乗っ取りができる。こんな醜い姿とはおさらばだ。お前の脳から記憶を抜き取って、俺の体にしてやる。死ぬより恐ろしい目に合わせてやる」

 楽しくて仕方がないようだった。長い笑い声がいつまでも続いた。

「いやだ!」

 和樹が廊下に戻り、男の前に倒れこむように両膝をついた。泣きながら男に謝って、自分を身代わりにするよう頼んでいる。こんな和樹を見るのは初めてだった。男はただ笑い続けるだけだった。

 仁美は気を失っていた。それかもう手遅れだろうか……

 僕は和樹の後ろで突っ立っているだけ。何もできないでいた。


 あの日、美紀と一緒にいればよかった。美紀が殺されたと知ってからずっとそう思っていたけど、一緒にいたって何も変わらなかったかもしれない。僕は今、目の前にいる和樹のようにはできないと思った。

「誓いを立てたことはあるか? 殺す前にお前で試してみたい」

 男は右手で仁美を持ち上げたまま、左手で天井の照明から蛍光灯を1本取った。床でそれを割って、鋭くとがった先端を和樹のほうに向けた。僕には聞き取れない声で、和樹に向かって何か話している。それを和樹が復唱しているように見えた。

「和樹ダメだ!」

 僕が叫ぶと、男は怒り狂った。邪魔されたのが気に食わなかったらしい。

「翔、全部お前のせいだぞ」

 男が言った。僕の心を読んだいるようだった。そうだ、全部僕のせいだった。男が足で何かをこっちに向かって蹴った。さっき割れた窓ガラスの破片だった。

「翔、落とし前つけろ、なあ? お前落とし前つけろよな!」

 僕がそれを手に取ると、和樹が床をこぶしで叩きながら大声で泣き喚いた。僕たちの負けだった。


 僕はその場に膝をついてガラスの尖った先を自分の首につけた。後は横に引くだけだった……その時、また遠くのほうで美紀の叫び声が聞こえた。

「骨を大事にしなさい」

 男の頭部、骸骨男から声がした。僕はガラスを床に置いた。首は切れていなかった。

「肉も」

 今度は人体模型が言った。2人とも美紀の声で復活したのだとわかった。仁美はゆっくりと、和樹のもとへ降ろされた。和樹が仁美の体を揺すると、仁美は意識を取り戻した。

 それを見て、お腹の男が怒り叫んだ。体の自由が利かないようだった。

「もう大丈夫だから」

「早く行きなさい!」

 骸骨男と人体模型が言った。和樹と一緒に仁美を支えながら階段を上る時、1階で肉が何度も刺される音が聞こえた。何が起きているかは考えないようにした。とにかく僕たちは先に進むことができたのだ。


 2階に行かず、3階に行くこともできた。でも口裂け女に会うために2階の廊下を進んだ。

「どうして会わなきゃいけないか、あの2人言ってなかったよね?」

 和樹の言葉に仁美と僕が頷いた。僕は2人のどちらかが、そのまま3階へ行こうと言い出すのを待っていたが、結局その期待にはどちらも応えてくれなかった。

「便所ホタル?」

 和樹が言った。廊下の奥のトイレのほうからこっちに向かって、たくさんの微かに光を帯びた何かが近づいてきた。それは全て人間の形をしているが、あまりにも不自然な動きをしていた。ゲームのようにカクカクしていたのだ。顔も体もはっきりしない、ぼんやりとした感じだった。男女20人以上はいたが、みんな同じ背丈でだいだい同じ顔をしていた。美紀の顔を真似ているようだった。

 僕たちは念のため、階段まで逃げた。

「アバター?」

 和樹が言うと、仁美が聞き取れなかったのか、その言葉を繰り返した。僕は、美紀がやってたゲームの話をした。自分そっくりのキャラクターを作るものだった。危害はないだろうと3人で結論づけた。

「早くしないと遅れるよ! 叫び声が上がる度に授業が始まるんだ! いつも通りしないと、あの男だと誤解されちゃうよ」

 アバターの1人にそう言われて、教室に入りドアを閉めると、かるたの札を1人1枚ずつ渡された。小さい子用の犬棒かるただった。他の子たちも同じようにこの教室に集まり、札を1枚ずつ持っていた。

「あいつは子供の遊びがほんとは大っ嫌いなんだ。だからかるたなんて絶対しない。僕たちの誰かに乗り移ることができたって、絵札を見つけることができないんだ」

 アバターはとても優しく、親切だった。僕たち3人の札を確認して、見つけるべき絵札がどんなものか教えてくれた。僕は『犬も歩けば棒に当たる』。和樹と仁美は『馬の耳に念仏』と『鬼に金棒』だった。

 全員がかるたを持った瞬間、チャイムが鳴った。すると、天井からたくさんの札がひらひらと舞いながら、落ちてきて、魔法のように机の上に1枚ずつ着地した。席数は30席で、僕たちは29人だった。1つ余計な席があるはずだと思った。

「簡単だから、落ち着いて、自分に合った席を探して座るだけだから……」

 アバターはそう言ったけど、その顔には焦りが見えた。キーンっと廊下の奥から金属が床をつく音がした。あの人が来ているとわかった。


 僕は、『い』と犬の絵が書いてある札が置かれた席をすぐに見つけた。でも座らないで、『お』の絵札を探した。和樹も同じようだった。仁美は慌てていて、冷静に自分の席を探せないでいた。アバターたちも仁美と一緒だった。その子たちが動き回ると、仁美はビクビクと怯えてしまっていた。僕はそばにいるアバターから順に席に誘導していった。

 キーンという音がもう教室の前まで近づいていた。もうあと数席しか残っていないのに、『お』の絵札は見つからなかった。

「ドアが開く! 席について!」

 アバターの言葉で僕は、急いで自分の座るべき席に座った。和樹もちゃんと『う』の席に座った。仁美はとりあえず空いていた和樹の隣の席に座った。2人は僕の斜め左前の席で、僕は最後尾の席だった。ドアが開く時、和樹が仁美の机の札を裏返すのが見えた。

 教室に入ってきたのは、前をひもできつく縛った、茶色いロングコートを着た女性だった。長い黒髪に顔の半分が隠れ、もう半分は白いマスクで隠れていた。手には、取っ手部分が1メートル以上ある剪定ばさみが握られていた。

 口裂け女……あの本に載っていたランキングの中で、僕が最も会いたくない人だった。


「俺たち人体模型に言われて会いに来たんだ! あんたの助けがいる!」

 和樹がイライラした口調で言った。1階での出来事で、恐れというものが和樹の中からなくなったのではないかと思った。僕は立ち上がって双子のそばに行こうとした。

 口裂け女がはさみを持ってないほうの手を前に出して、指揮をするように動かした。まだかるたについて文句を言っていた和樹が急に黙った。それが和樹の意志ではないと僕にはわかった。僕も体が勝手に動いて、椅子に座ると身動きができなくなった。声も出せない。口裂け女が見えない力で僕と和樹の体の自由を奪っていた。

「あの男、どんどん賢くなっている。次どうやって復活するかわからない。一度でも負けるなんて嫌よ。私は勝ち続ける。そのためにはごめんなさい。念には念を入れないと」

 口裂け女はそう言って、ゆっくりと教室を歩きながら、『ね』の絵札を手に持った子の頭を撫でた。進行方向には仁美がいた。でも進む途中で口裂け女がいきなりせき込んで、下向いた。

「あんな姿初めて見た」

 僕の隣にいたアバターが言った。

「様子がおかしい……先生があいつに操られそうになってる」

 仁美が危ない。そう気づいても身動きが取れなかった。いや、何か行動できたとしても間に合わなかっただろう。次の瞬間、口裂け女は、目にも止まらぬ速さで、剪定ばさみを仁美に向かって突き刺そうと跳んできた。仁美に刺さると思ったその時、前の席に座っていた子が身を盾にして仁美を守った。その子は鋭いはさみの先端で心臓を貫かれ、一瞬で光になって消滅してしまった。

 ザッと、一斉に椅子が動く音が教室に響いた。アバターの子供たちが口裂け女を睨んでいた。

「ルールはどうした! ルールはどうした!」

 子供たちが声をそろえて口裂け女を責めた。すごい迫力だった。

「ルール?」

 あの男の声だった。口裂け女はさっき同じように手を振った。でも子供たちに変化はなかった。口裂け女は落ち着いて、静かになるのを待っていた。

「ふふ、ルール通りだとも。邪魔されなければね。それを見せろ」

 口裂け女に言われて、仁美は震える手で机の札を口裂け女には見えないように持った。泣きっ面に蜂の絵札だった。

 窓の外に誰かいる。おそらく、それに気づいたのは僕だけだった。上から宙を舞う少女が降りてきて、この教室の前で静止していた。真っ赤でずたぼろのワンピースを着て、靴は履かず裸足だった。腰まである長い黒髪をした女の子で、噂とは違う姿をしているので自信はなかったが、3階から来たなら間違いないと思った。花子さんが仁美のほうを無表情で見つめていた。

 仁美が驚いた様子で札を机に落とした。背筋を何とか伸ばしてやっとその札が見えた。鬼の絵と『お』という文字が見えた。

「いかさまだ!」

 口裂け女がそう言った時、また美紀の叫び声が聞こえた。当たり前だが、その声はさっきより近くなっていた。痛々しい声だった。花子さんもその声を聞くと、焦った様子で3階へ登っていった。あまり変化はなかったが、空中で平泳ぎをしていた。そんなふざけた姿を見ると疑わしいが、それでも助けてくれたのはあの花子さんだと僕にはわかった。


 口裂け女は叫び声を聞いて、とても苦しそうしていた。乗っ取られた体が美紀の声で力を取り戻して、男に抵抗しているようだった。

「わたし、きれい?」

 男と女の入り混じったような声で、口裂け女が仁美に聞いた。声の出ない和樹が顔の表情だけで、仁美にどう答えるべきか教えた。仁美は涙を流しながら、「きれいです」と言った。

「じゃあこれでも?」

 口裂け女がマスクを外した。噂通り、本当に耳まで口がはさみで切ったように裂けていた。粘り気のある血が両端からダラダラと垂れてきていた。そんな姿を見ても、和樹は必死に仁美に訴えかけた。仁美はまた同じように、「きれいです」と言った。

「じゃあこれでも?」

 男の声だった。パーカーのフードのように、口裂け女の顔の上あごから上部が、後ろに反り返った。信じられないくらい大きく開いた口から、青白い男の顔が出てきた。その顔も口を開くと、下の歯が左右1本ずつ、見る見る内に鋭く尖って伸びていった。

「これでも?これでも?」

 男は笑ってそう言いながら、仁美に口の中を見せた。牙は一気に伸びて、男の頭蓋骨を貫き、こめかみから血しぶきを上げて突き出してきた。口は開いたままになり、もうちゃんと話せなくなっていた。そんな状態でも男は動いていた。口裂け女の口がさらに大きく開き、男の体が出てきた。完全なのは首から上だけで、体はドロドロに溶けている。口裂け女が今さっきまで男を自分の体の中で、消化しようとしていたかのようだった。自力で立つことができないのか、バランスを崩して後ろ向きにひっくり返って、机にぶつかってから、床に倒れた。

「いかさまをみとめろ! こいつらにじゃまされてたまるか!」

 開けたままの口がへたくそな言葉を発した。男は仁美の机に手を置いて、また立ち上がろうとしていた。牙は50センチ以上の長さになって外側に反り返っていた。その新たにできた角を仁美に突き刺そうとしたが、後ろの席の子が飛び出して身代わりになった。男はまた床に倒れた。ルール通りにしている限り、男を食い止めることができるようだった。

 ただ、仁美のほうが限界のようだった。見るからに放心状態で、次、脅されたら自分が違う札を持っていたことを認めてしまいそうだった。


 どうして……僕と和樹の体が、口裂け女がやられた後も動けないままでいるのかわからなかった。口裂け女がいたところには、コートと大量の髪の毛、それからフェイスパックのようになった顔だけがあった。それでもまだ口裂け女には力が残っているのかもしれないと思った。

「ヒーリング!そうだ、ヒーリング!」

 アバターの1人が急に立ち上がって、恥ずかしそうにそう言うと、他の子供たちも、それだそれだと言って次々に同じ呪文を唱えた。

 子供たちは、ばたばたとその場に倒れていき、体が光になっていった。でもその光は消えず、子供たちはそれぞれ光の球体になると、口裂け女の抜け殻に入っていった。すると、口裂け女は縦に向かって、どんどん膨らんでいった。下から空気を送ってくねくね揺れ動く人形のような、滑稽な姿だった。

 最後の光が体に入ると、口裂け女の動きは急に人間のものになった。剪定ばさみをつかむと、上に振りかざして倒れた男の頭のてっぺんを突き刺した。はさみの先端が男のあごの下から貫通して出てきた。

 口裂け女は、そのままはさみを両手で回した。元々もろくなっていた男の首は、いとも簡単に体からもげてしまった。口裂け女はあろうことか、その首のついたはさみを仁美の机に突き刺した。

 男はまだ動いていた。恨めしそうに仁美を睨んでいた。口を動かし、何か仁美に言おうとしていた。口裂け女がひもを解いてコートを広げた。アメリカかイギリスの喪服ような、黒いドレスを中に着ていた。コートの内側には無数のありとあらゆる、はさみがぶら下がっていた。口裂け女はその中からケーブルカッターを取り出して、仁美に投げ渡した。仁美は慌ててそれをつかんだ。

「口が利けるようにしてやれ」

 口裂け女が仁美に言った。仁美が首を横に振ると、口裂け女は仁美の服をつかんで乱暴に揺すりながらまた同じことを言った。

「口が利けるようにしてやれ」

 仁美は泣きながら、ケーブルカッターを男の口に入れて、牙を2本切った。男はそれでも喋れないでいた。口裂け女が勢いよく暫定ばさみを持ち上げて、男の顔から抜き取った。男は机の上で息をし始めた。

「お前の体をよこせ、乗り移ってやる……」

 男は苦しそうに言った。まただ、1階の男も同じことを言っていた。

「体がほしい、仁美、頼む、体をくれ……そうすれば俺はただの夢の亡霊ではなくなる。俺の最大の武器は、お前だ」

 男の声に仁美は目を閉じて、顔を反らした。椅子からは立てないようだ。

「ちゃんとそいつを見ろ……そいつを見ろ!」

 口裂け女が怒鳴った。なぜこんな仕打ちをするのか。仁美はもう泣き叫ぶ気力も残ってなかった。ただ、体を震わせながら、この悪夢が過ぎ去るのを待っていた。


「私は復活できても、生身の人間は乗っ取られたらそこで終わり……あんた死にたいの? 死にたいのかって!」

 口裂け女の問いかけに、仁美は必死に首を振った。

「死にたくないならどうして悪霊に同情なんてするの? こいつがあんたを欲しがるのは、あんたがこいつに同情してるからよ……」

「そうだ、情けをかけてくれ。俺を助けてくれ仁美……」

 男はそう言うと自分の舌を噛み出した。口裂け女が怒り、角をつかんで教室前方に男の首をぶん投げた。男は黒板に勢いよくぶつかって跳ね返った後、教卓の上に落ちた。ぐったりと横を向いている。角は片方折れて、もう片方は上を向いていた。その角の先が光っている。消滅しようとしていた。どろどろだった体もいつの間にか床に溶けてしまっていた。

「あの光が消えたら、次叫びが上がる前に3階に登らないと、あの男は仁美、あんたの体の中で復活するよ。花子なら、私のようにはならないし、復活する時そばにいれば男を遠ざけてくれるはず……」

 口裂け女の言葉を聞き終えた後、体が自由になっていることに気づいた。僕は急いで2人のもとに駆け寄った。仁美は両手で顔を覆って泣いていた。和樹は口裂け女を睨みながら、仁美の背中を静かにさすった。

 口裂け女は疲れ切った様子で、コートを脱いで机の上に置き、別の机の上に座った。

「乗っ取りと誓い。それだけ注意すればいいんだけど、わかんないでしょうね……話を変えましょ。美紀の思い出が私の頭の中にある。3人とも自分を責めているようだけど、美紀はあんたらのことが好きよ。命が尽きるその時まで……仁美、こっちにおいで」

 和樹は口裂け女から仁美を遠ざけようとしていたが、驚いたことに仁美は自分から、呼びかけに応え、口裂け女に近づいていった。

「美紀ちゃんは本当に3階にいるの?」

 仁美が聞くと口裂け女は頷いた。

「鬼でなくなると、美紀ちゃんは消えちゃうの?」

 口裂け女はまた頷く。

「あなたも?」

 口裂け女は驚いた表情をした。でもすぐに笑って頷いた。私も消えると言って。

「あの男をかわいそうだなんて思わないで」

 口裂け女は仁美の手を取って優しく握った。仁美は自信なさそうに頷いていた。


 いつの間にか、男の首が消えていた。口裂け女に急かされて、僕たちは教室を出た。廊下を進み、階段を登ると、トイレはすぐ目の前にあった。蛇口から水が流れる音がした。それが止むと、トイレの中から花子さんが出てきた。美紀より背が高かったが、僕たちよりは確実に年下の子だった。

「ハンカチある?」

 花子さんは元気な声でそう言った。仁美がハンカチを貸してあげると、とても喜んでいた。緊張感のない、天真爛漫な感じの子だった。この子があの口裂け女以上の力を持っているとは思えなかった。

「生きてる人間はおまわりさん以来かも。あん時はあいつも弱っちかったなー」

 花子さんは話しながら和樹の足元を見ていた。少しして、和樹の名前を言っているように見えたが、別の声にそれはかき消された。

「あつい! あつい!」

 一番近くの教室から聞こえた。姿は見えなかったが、赤い光が廊下のほうまで漏れていた。男の声は、助けを求め、死を求めていた。

「火で動きを封じてるの。見ないほうがいいよ」

 花子さんに言われなくても、見るつもりはなかった。

「あつい! 仁美! 仁美こっちにきてくれ! 誓いを立ててくれ! 体を差し出すと言ってくれ!」

 仁美は動かなかった。僕と和樹の手を握って誘導し、3人とも教室に背を向けるようにした。廊下の窓から、学校の光に照らされた校庭が見えた。はっきりとではないが、門の下に小さく光るコハクの姿も見える、気がした。元気よく尻尾を振っているようだった。

「復活できないってこと? 仁美に乗り移ることも」

 和樹が聞いた。花子さんは「まあ」と軽く答えた。火加減が難しいとも言っていた。手でコンロに火をつけるジェスチャーをした。その直後、男は急に静かになった。

「もう叫ばしたりしないよ」

 僕はそう呟いて、トイレに向かって進んだ。一緒に行こうとした和樹と仁美を花子さんが止めた。

「仁美も和樹も私のそばを離れてはいけないし、私はトイレには行かない。手、洗ったばっかりだし……翔!」

 花子さんから呼ばれて振り返ると、手を伸ばして握手を求められていた。その手を握ると、僕はこれが別れのあいさつだと気づいた。

「みんな……消えっちゃうの?」

 僕が聞くと、花子さんが寂しそうな顔をして僕を抱きしめた。予想もしないことで驚いてしまった。花子さんがとても温かいのでさらに驚いた。この子は確かに存在している。そして、消されてしまう。この僕に……

 耳元で花子さんが囁いた。トイレの個室の先に美紀の部屋そっくりな空間があると。その部屋は本当の花子さんが作ったもので、花子さんもあの男も入れないのだと説明した。

「でもあんたなら、きちんとノックすれば入れると思うよ」

 花子さんが僕を放した。冗談を言っているように聞こえた。話していること、ほぼ全てが意味不明だった。部屋の中に入ったら、最初にテレビを割るように言われた。その理由は、「13階段の男が映るから」だそうだ。

 その時、男のいる教室のドアが物凄い音を立てて吹き飛び、床に落ちた。教室の中から、火だるまの男が這いつくばって出てきた。氷鬼にすれば良かったと、花子さんがまた冗談を言った。

「よーし、ここは私が食い止める! あんたは先に進んで! そうだ待って、切り札がある。1枚はあいつを破滅できる。1枚はあいつを救える……さあ早く行って!」

 花子さんから、新聞の切れ端と、真ん中できれいに折りたたんである写真を渡された。僕は、それをちゃんと確かめずにズボンのポケットにしまった。受け取る必要もなかったのかもしれない。

 あの男も消えちゃうんだから、切り札なんて……口には出さず、そう思いながら僕は急いで女子トイレに入っていった。


 右から3番目の個室をノックして、ドアを開けると、そこには花子さんが言った通りの空間が広がっていた。照明が点いている。窓の外は真っ暗闇だった。僕は言われたことをしようと、部屋の隅にあったテレビを手前に倒した。思ったほど割れていないようだったが、やり直そうとはしなかった。

「美紀……」

 返事はなかった。机の上にあの本がある。もう一度ランキングを見た。人面犬の下の順位を見逃していた。5位はテケテケだった。

 そこにあると怖いので、その本を棚にしまった。棚には大量の漫画とゲームの攻略本や、母親からもらったウェディングプランナーの本とファッション雑誌などが置かれていた。棚には本以外に写真も飾られていた。遺影と同じ写真もあった。

 コハクを初めて会った時、背中の模様を見て和樹が人面犬だと騒いでいたのを今になって思い出した。つれて帰る時ことになって一緒に歩いている時は、横から見た模様がゴリラのケツの形だとも言っていた。美紀は、コハクと暮らせることがとにかく嬉しくて、何を言われても平気な様子だった。

 部屋に入った時から気配はなかった。ベッドの下を見た。美紀が失くしていたかるたが1枚あるだけだった。表は見なくてもわかった。裏には赤い背景に白字で『かるた』と書いてあった。

 美紀はいない。そう悟った時、テレビから音がした。上から叩いてやろうと、椅子を持ち上げた。でもそのまま自分の前にそれを静かに置いた。美紀の声がする。

 テレビを持ち上げると、端に少しだけヒビの入った画面が光っていた。教室を映した映像だった。そこに美紀が出てきて、陽気にあいさつをした。僕の声には反応しない。ビデオレターのようだった。

「兄ちゃん……私の部屋あんまにあさらないでよ! 兄ちゃんトイレ行っても手、洗わないんだから。私のもんにあんたのうんこ臭がついたらどうすんの? それから学校の本! もう延滞になってるから早く返せよ! ゲームも絶対触んないで。データはそのままにしといて! いいとこなんだから! 失くしたかるたも見つけといてよ。懐かしーって言って最後に触ったのあんたでしょ? 鬼に金棒! 見当たんないの! もう……」

 美紀はその後も永遠と僕に対する文句を言い続けていた。これが美紀の正体だ。誰より一番悪影響を与えていたのは和樹だったが、いつも年上3人との会話や口喧嘩で鍛えられたその話し方には、小学1年生の初々しさやかわいらしさが一切なかった。

 僕は声に出して笑った。テレビのニュースで見たことが信じられなかったのは、そこに映っていたのが、美紀とは真逆のか弱い女の子だったからだ。美紀は弱くない。周りからかわいそうなんて思われるのを嫌がる子だった。

「私も鬼を代わって、さっさとこんなとこいなくなりたいの。わーかーる? 何が言いたいか……タッチすればそれで終わりだけど。でもその後兄ちゃんどうすんの? 考えてなかったでしょ? いい? タッチしたらその後は花子……」

 映像が急に止まった。鬼を代わったら、花子さんは消えているはずだ。美紀の最後の言葉はおかしい。画面が消えて、また別の場面が移った。

 階段が映されている。「3」と「R」の表記が壁にあった。ぶつぶつとお経を唱えるような声が聞こえてきた。独り言のようだ。

「ほらまた新聞だ。新聞が落ちている。ここに閉じ込められてからまだ1週間も経っていないのか。本当だろうか? 千年は過ぎたはずだ。腹が減らないように。喉が渇かないように。体が老いぼれないように。自分を見失わないように。それだけための千年だった……見てみろ、またこの男だ。俺の姿をしたテケテケ男。責任能力がないのではないかと書かれている。早紀子とみゆが見たらどう思うだろう? 家族に会って弁解したい。早くこの男から体を取り戻して家に帰りたい。自分の無罪を証明したい。私は女の子を殺してない。操られたんだ。乗っ取りだ。」

 いつの間にか、あの男が階段に座っていた。黒いスーツ姿をしている。手には何日も前の新聞が握られていた。

 僕は、さっき花子さんから渡された折れた写真を取り出した。『元気の素 ママとみゆより』と裏に書かれている。写真を開く。男と、その妻と娘が写っていた。女の子は美紀と同じくらいの年に見えた。背景はとてもきれいな青空だった。

 以前、テレビで見たテケテケ男は、「ごはんごはん!」という言葉と奇声を繰り返し発しながら笑っていた。抵抗はしていなかったが、その顔は狂犬病にかかった野生の猿みたいだった。こんな男に美紀は殺されたのかと思っていたが、それは違った。あの男の本当の姿は今、目の前のテレビに映っていた。

「違う……テケテケは美紀が死んだから生まれたんだ。お前がテケテケに体を乗っ取られたのは美紀を殺した後のはずだ! お前が殺したんだ!」

 僕が叫ぶと、男は驚いた様子だった。聞こえているらしい。防犯カメラと同じ、今現状を撮って、そのテレビが流しているのだとわかった。男は首を横に振った。

「また幻聴か? どうして幻聴が聞こえる。私は精神状態は良好だ。悪くない……私は悪くない。殺そうとしてきたのはあの女の子のほうじゃないか……」

 その時、バンッと大きな音がして、照明とテレビが爆発した。テレビの残骸が燃えている。暗い部屋の中で、僕はあれっと思った。ここにいるのが怖い。けがはしていない。身の危険を感じているわけでもない。でもこの部屋がとにかく怖かった。

 バキバキと音を立てながら、何かが天井に穴をあけて、ベッドの上に落ちてきた。暗い部屋にほこりが舞って、それが見えるまでにしばらく時間がかかった。布団の上にとても大きな黒いビニール袋があった。中はパンパンに詰まっていて、周りをロープでグルグル巻きにされ、口もきつく縛られていた。密閉されているように見えたが、それでも死体の臭いがした。

 囁くような声が中から聞こえる。

「花子さん助けて、口裂け女助けて、人体模型助けて……」

 美紀が順番にこの廃校にいる者たちに助けを求めていた。声は段々大きくなっていた。コハクを呼んだ後、「いちろう助けて! ひとこ助けて! じろう助けて! ふつこ助けて さぶろう助けて! みつこ助けて……」と叫ぶように言い続けた。適当に言っているのではなく、新しく書き換えるためにセーブデータから消されたゲームキャラクターの名前だった。美紀はどのゲームでもそういう名前の付け方をしていた。

「むつこ助けて! ななろう助けて! ななこ助けて! はちろう助けて!」

 人が出せる声量を超えていた。美紀が叫ぶ度に、ビニール袋は破裂しそうなぐらい膨らみ、部屋は揺れ、窓ガラスや写真立てにひびが入っていった。僕は両手で耳をふさいだ。

 13人ずつ呼んだ後で、美紀が悲鳴を上げた。恐ろしい叫び声だった。

 息が続かなくなって、悲鳴が小さくなった時、僕は両手を耳から離して、ビニール袋つかんだ。ロープが邪魔だったが、何とかいろんな方向に引っ張って、美紀の顔がありそうな所にこぶしくらいの穴を開けることができた。

「美紀、美紀……」

 僕はその穴を覗きながら言った。何の反応もない。中は真っ暗だった。

「一緒に帰ろう……」

 僕が手を差し出すと、中から小さな手が出てきた。爪で引っ掻いたような傷が無数についていた。それを見たら涙が出てきた。

 手に触れると、その瞬間から頭の中で誰かが話し出した。ああでもないこうでもないと言っていたが、要約するとつまりは「殺せ殺せ」と僕を脅す声だった。

 美紀は消えていた。一言も会話できなかった。いや、僕はそれどころではなかった。とにかくこの声をどうにかしないといけないと思った。部屋を出て、トイレからも出た。和樹と仁美が待っていたが、僕は怒鳴って2人を遠ざけた。

「鬼になっちゃった鬼になっちゃった……」

 僕は焦りながら廊下を早歩きで進んだ。トイレから出てきたのにおしっこを我慢している子のようだ。後ろから2人がついてくるのがわかった。

 屋上へと続く階段を登り、途中折り返し部分の踊り場を進みながら、もう半分の階段を見上げ、「くそ! くそ!」と叫んでしまった。男はいなかった。屋上へ出る扉が見えたがその先にはいないはずだ。男は階段にいる。階段に閉じ込められているはずだと思った。僕はその時、自分が本当にあの男を殺したいのだと気づいた。

 階段を降りようとした時、仁美が泣き叫ぶ声が聞こえた。階段の下で何かあったらしい。仁美と和樹はこちらに背を向けて、床に膝をついていた。もう1人倒れている子がいる。僕だった。

 靴の裏が階段にくっつくのを感じた。体が階段にゆっくりと沈んでいく。痛みはなかった。ただ怖かった。僕はこぶしを噛んで叫ぶのを我慢した。2人に気づかれないようこの世から消え去ろうと思った。

 足をばたつかせることができる。下に向こうがあると気づいた。体が半分ほど沈んだところで僕に対する重力が上下逆になるのを感じた。

 腕を伸ばし、手より先に頭からあちら側に出た。下りだった階段は上り、上りは下りにという変更はあったが、さっきと同じ学校の階段がそこにあった。仁美と和樹、僕の死体は見当たらない。

 体の自由が利くようになって、立ち上がるとおかしなことに気づいた。登っていくほうには廊下と教室があるはずなのに壁で塞がれ、階段だけが上に続いてた。降りていくほうには扉があるはずなのに、そっちにも階段しかなかった。上も下もずっと階段だけが続いていた。


 何日もそこにいた。僕は階段を登り続けていた。お腹も空いたし、喉も乾いた。でも体に変化はなかった。眠くなって横になることもあるが、一睡もできなかった。ただもう横になっているのが嫌だと思うと眠気はなくなるのだった。

 何年も経った。いや何十年も経っていた。あの時から5、6年かけて登ったのを、同じだけ年数をかけて降りてみたりもしたが、やっぱり登るべきだと思って上を目指し、もとの場所まで来たのが、ちょうど10年前くらいだろうか。

 姿は変わらない。結婚して、子供がいてもおかしくない年齢に自分はなっていると思った。両親は子供を2人とも失って、絶望しながら年老いていくはずだ。和樹と仁美はどうだろう? あの双子は僕たち兄妹が死んだって幸せになれないわけじゃない。2人は関係ないのだ。仁美は誰かと結婚して、妊娠、出産をする。そして生まれてきた子を抱きながら、命のすばらしさを全身で感じる。

 とても嫌な気持ちがした。でも発狂したら、この存在も維持できなくなる。そう思って僕は静かに耐えていた。何十年も前に見たテレビで、あの男がたった数週間を千年と言っていたことも忘れていなかった。

 僕の存在理由は1つだけだった。あの男を見つけて殺すことだ。美紀にしたように階段から突き落として殺してやる。でもその後は……

 それはあまりにも突然だった。階段に腰かけている男がいた。スーツ姿の男だ。驚いて僕を見ている顔がとても怖かった。

「君は誰だ? 私は比較的健全な精神状態である……」

 男の話し方は不気味だった。自我を守るのに必死のようだった。目が合うと、男は悲鳴を上げて、逃げ出した。階段を登っていく。

 追いかけながら、待て、と言おうとしたが、声が出なかった。喋り方がわからなくなったかのようだ。何とか出たのは叫び声だった。言葉にならない叫びだったが、とにかく「殺す殺す」と言いたかった。

 階段を登りながら目線を上げる。男が踊り場で倒れながら後ずさりをしていた。その先にもう1人いる。僕がいた。立って歩いていた。僕が叫んだから生まれたおばけだとわかった。

「ついてくんな。邪魔なんだよ! お前とはもう遊ばない。そんなに遊びたきゃ同じクラスのやつ誘えよ……」

 おばけが言った。意味不明だったが、美紀が生み出したトラウマがあの男だったように、僕のトラウマはそのおばけなのだと直感した。そのあとすぐにまた異変が起きた。おばけの体が宙に浮いて一瞬強く光を放った。赤い靴が、カンっと音を立てて床に着地するのがわかった。おばけは小学校低学年くらいの女の子の姿に変わっていた。白いワイシャツとサスペンダー付きの赤いスカートを着たおかっぱ頭の女の子、噂通りの花子さんがそこにいた。

「遊びましょ、にらめっこしましょ」

 本当の花子さんが言った。美紀の生み出した花子さんとは顔も声も違っていた。男は怯えて、床に尻をつけたままガタガタ震えていた。花子さんのことを知っているらしい。

 僕は怒りに震えていた。一人でやれたのに。男は僕の存在なんて忘れているようだった。とても腹が立った。花子さんがこっちを見ないで僕に指さすと、2人がいるところより1つ下の踊り場まで体が勝手に戻っていき、僕はそこで立ったまま足の自由が利かなくなっていた。

「にらめっこしましょ、笑ったら負けよ……」

 花子さんが壁に触ると黒い穴が開いた。どうやら出口のようだった。入口は僕たちみたな人しか入れなかったから、こんな感じの状況を待っていたと、本当の花子さんが言った。

 にらめっこで勝ったら出してもらえるようだ。男を勝たせるわけにはいかない。僕は暴れながら思い出したように、ポケットから写真と新聞の切れ端を出した。

 新聞には『テケテケ男 ごはんのどに詰まらせ 死亡』と書いてあった。

 写真をしまって、新聞を丸めて男に投げた。新聞は不自然に飛んで花子さんの手に収まった。花子さんには元々こうなることがわかっていたかのようだった。

 花子さんは吹き出しそうになっていた。男にそれを差し出した。男は立ち上がって新聞を読むと愕然として、再び床に倒れた。花子さんがそれを見て、また笑いそうになっていた。

 破滅できるはずだ。僕は男を破滅させたかった。でも男は平気な様子だった。大げさに泣くふりをして、こっちに顔を向けて、にこっと笑った。

 また泣き顔に戻してから花子さんのほうを見て、新聞を悔しそうに破り捨てた。


「私もある事件を知ってるぞ、少女が男に殺された……」

 男がそう言った。その後、事件の詳細をこと細かく話し出した。ハゲで、デブで、不潔な中年男に追いかけ回されて、学校の使っていないトイレに隠れて見つかって、身ぐるみ剥がされて……どうしてそんなことを知っているのかわからないが、花子さんの恐怖に引きつった表情を見ると、本当のことのようだ。

「体には吸ったり食われたりしたあと……死んだ後も体が腐るまで何日も、一日中犯し続けて……触れることもできないくらい腐敗したらビニールで覆って、ロープでぐるぐる巻きに……海に捨てるか、山に捨てるか、迷ったけどエタノールを見つけて、その場で燃やした。火、真っ赤な火の中から再び現れた少女は、輝いて見えた。すぐに水をかけて半焼けの少女をもう一度抱いた。温もりが戻ってきたように感じた。体が冷えるとまた火をつけた。それを何回も何回も繰り返した。何かの儀式のようだった。少女に命を宿すような、救いを与えるような心地がした。結局灰になるまで犯してやった……本で読んだ、私はこれを本で読んだ。お前のことだ! お前だお前だ! ははははは!」

 男は狂ったように笑っていた。花子さんはやめてと言いながら泣いていた。僕もその笑声を聞きたくなかった。自分の心と体が壊れていくのを感じた。もうおしまいだとわかっていたけど、救いがほしかった。

「花子さん助けて!」

 僕は大声でそう言った。耳をふさいで泣いている本当の花子さんにまたも異変が起きた。必死になって、その異変に抵抗していたが、勝てないようだった。次の瞬間には美紀の生み出したあの花子さんに変身していた。

「乗っ取りだ……」

 僕の声に花子さんが反応した。嬉しそうに僕に向かって飛びついた。怒りが一瞬で消えるを感じた。花子さんが大きくくしゃみをして、口から小さな球体を吐き出した。それはガラス玉で黒い火をまとっていた。

「トイレ行ったのに手、洗ってないでしょ?」

 花子さんが僕を放して、笑いながら言った。

「翔のおかげで、本当の幽霊になれた」

「本当の幽霊……でも僕が作り出した花子さんだ。美紀の花子さんとは違う存在でしょ?」

「あんたらバカ兄妹、四六時中一緒にいたじゃない。考えてることも、思い出もおんなじ。だから、美紀が作っても、あんたが作っても同じよ」

 それを聞いてとても嬉しくなった。思わず、花子さんの手を握ってしまった。はっとしたが、何の変化もなかった。鬼の力はあの球体に閉じ込められたようだった。鬼ごっこは終わったのだ。


「鬼のうちに他のみんなも復活させてあげればよかった……」

 僕がそう言うと、花子さんは「来い来い」と言った。足元に子犬が現れた。背中の模様が気になり、抱きかかえて、じっくり見てみる。やっぱりコハクだった。手から離すとコハクは花子さんに向かっていき、体の中に取り込まれていった。今のは失敗だったらしい。花子さん鬼の力の利点のみ得たようだった。

 足がまだ動かないことに気づき、花子さんに自由にしてもらった。その時、男が壁の黒い穴に入っていくのが見えた。

「お前の体をもらう……」

 男はまた不気味な笑みを浮かべていた。

「翔待って!」

 花子さんが焦る僕を呼び止めた。いつ現実世界に戻っても、男が僕の体から目覚めた直後になるとのことだった。花子さんは乗っ取りをするべきだと言った。

「空っぽのあんたの体にあの男が入るのは簡単だけど……」

 空っぽの場合は触れるだけでいいのだが、あの男がいる状態からだと乗っ取りは難しいらしい。今ある存在を消滅させないで行うのはもっと難しいと言われた。

 花子さんから乗っ取りの方法を教えてもらった。主な内容は意識の殴り合い、肝心なのは相手に同情しないこと、だそうだ。

 出発前、花子さんは僕のズボンのポケットに手を突っ込んで、中に入っていたものを取り出した。それから、黒いガラス玉を念力のようなもので浮かせて、今、手に持っているものに吸収させた。

「本当の花子さん」

 花子さんはそう言って、僕に手の中を見せた。それは『お』と書かれたかるただった。金棒を持った鬼に、本当の花子さんが追いかけられている絵札だった。

「あの男が読んでいた本が気に食わなかった。たったそれだけ。それで、男を破滅させようと、関係ない美紀に鬼を押し付け利用した。もともと鬼の力を手放したかったってのもあるけど……美紀を使わず、直接タッチしなかったのは、男が嫌いだから。自分勝手でしょこのくそ女」

 花子さんは、そのかるたを首元から服の中にしまった。しばらくの間、花子さんはその手を胸の下のほうまで入れたまま、僕を見ていた。仁美が同じことをしていたらどう思うか聞かれ、正直に何も思わないと答えた。自分の心はこの階段に何十年もいたせいで枯れてしまったと言った。

「この階段に来てすぐにあいつに会ったことにしてあげる。共有すればできる。記憶の消去。セーブデータのリセットができる子は……」

 いつの間にか花子さんの体の周りを光の球体が浮遊していた。見覚えがあるものだった。それは花子さんに何か囁かれた後、僕の体の中に入ってきた。

「ヒーリング、それだそれだ……」

 僕は思い出したように呟いた。

「体に入って喧嘩すれば乗っ取り、仲よくすれば共有……」

 僕は意識が遠くなっていくのを感じた。次に気がついた時、光の球体が僕の体から出て、花子さんの体に入っていった。意識がしっかりしてきて、悪夢から目覚めたような気分がしたが、今自分が置かれている状況を思い出して、まだだと思った。目覚めるのも、本当の悪夢もこれからだった……


 乗っ取りは一瞬で終わった。男は意識の中で車を運転していた。順調に道を進み出したが、バックミラーを見て誰かが乗っていることに気づき、驚く。アクセルを緩める気はなかった。それどころか一気に加速させていく。やっと運転できたのだからと男は言った。僕は後部座席からハンドルはどこかと、男に聞いた。運転席のハンドルはいつの間にか消え、僕の膝の上にあった。男は慌ててブレーキを踏んだ。車はスリップして横向きになり、ひっくり返ってしまった。それでも止まることなく滑り続け、壁に激突した。車に火がつく。

 男は運転席から外に出ようともがいていた。手には鍵が握られている。何よりも大事な鍵だった。壁には扉があった。その扉がゆっくりと開く。男はそこから出てくる僕を見た。僕は事故を起こす前に車から出ていた。

 男の体に火がついた。僕は男の手から鍵をもぎ取った。男の手に触れた時、美紀と男の鬼ごっこの様子が見えた。

 そこには本当の花子さんがいた。手招きして美紀を誘導し、階段を登らせていた。それなのに、本当の花子さんは階段を登り切って、屋上に出ると、そこの扉を閉じてしまった。中にいた美紀は、扉に鍵がかかっているとわかると、元来た階段をゆっくりと降りていった。踊り場で折り返したところで、男の姿が見えた。階段の途中で男は無言でうずくまっていた。このまま通り抜けることができるかもしれない。美紀はそう思ったに違いない。でも男に向かっていった。もう逃げることに疲れたのだろう。もしくは男の真横を通るのが恐ろしかったのかもしれない。なんにせよ、美紀は男を階段から突き落とそうとした。

 男は動かなかった。足が階段に沈み込んでいたのだ。男は美紀に押された時、正気を取り戻したようだったが、助けを求めるように美紀の腕をつかんだ。そこでまた男に異変が起こる。「逃がしてやる……」と男は言って、美紀を離した。

 美紀が階段を降りようとする。でも男を通り過ぎたところで足が止まった。階段を降りたところに、仰向けになって倒れている男を見つけたのだ。美紀は自分の後ろにいるのが、この世のものではないことに気づいた。美紀が振り返ると、男は上半身だけになった体を必死に伸ばし、美紀を右手で思いっきり押した……

 手元が震えているのに気付いた。鍵はいつの間にかテレビゲームのコントローラーに変わって、何かを知らせるように振動していた。


 目が覚めた時、双子がそこにいた。2人は僕の手を片方ずつ握りしめていた。僕は2人より先に口を開いた。

「ごめん、僕たち今までずっと一緒にいたんだ。僕たちだって家族みたいなもんだったんだ」

 仁美は僕を抱きしめ、和樹は僕の体を何度も叩きながら、嬉しそうに僕を糞呼ばわりした。3階の廊下にいる。戻ってこれたのだとわかった。

「ちょうだい」

 花子さんの声がした。僕の体から白いもやもやとした光が出てきて、一瞬で消えた。

 何やら屋上が騒がしかった。階段をアバターの1人が登っていくのが見えた。腕に体育館で使うような大きな照明器具を抱いていた。

「早くしないと遅れるよ! 決闘が始まるんだ! まだ勝ち負けがついてない!」

 その子が言った。

 僕たちも屋上へ向かった。そこには仲間が集結していた。みんな、入り口側に固まっている。その先には弱く光る照明に照らされた、スーツ姿の男と花子さんがいた。

 僕は、年老いた犬の背中を見つけて思いっきり抱きしめた。コハクが振り返る。うれしそうな顔をしていた。

 仁美は口裂け女のそばに行って、なにか話をしている。和樹は人体模型と骸骨男に抱きつかれていた。もう何の心配もいらない。そんな気がした。

 僕たち3人とは逆に、花子さんは少し焦っているようだった。男が思い通りにならないらしい。

「口が利けるように顔だけ作ったつもりなのに、自分で再生しちゃった……あんたにらめっこに負けたんだから、誓いを立てるべきよ」

 花子さんが言った。男は首を横に振った。

「私は君とは勝負してない。ノーカンだ……」

「じゃあ続きをしましょう。しないなら首は返してもらうから」

 男はまた首を振った、ように見えた。男の首は左右に動き続けて、徐々に加速していた。目にも止まらぬ速さになった時に首は消えてなくなっていた。花子さんが手を男に向けているのが見えた。

 ところが首のない体から男の顔が生えてきた。花子さんが怒って、蚊をつぶすようにその場で手を叩いた。それに合わせて、男の体もパンっと音を立てて原型がなくなるほど小さく潰れたが、その次の瞬間には元通りに戻っていた。

「仁美と話がしたい。さっきまで結婚したいと思ってたんだ」

 男がそう言うと、仁美に向かって近づいてきた。口裂け女が手を上げて、見えない力で男の自由を奪った。驚いたことに男はその力に抵抗していた。無理やり動こうとすると、骨の折れる音が聞こえた。男は体中の骨を砕き、また再生しながら進んできた。

「私との話が途中よ。私ならあんたの家族に一生楽な暮らしをさせることだってできる。それであんたが心置きなく成仏できるなら……」

 花子さんが男の前に立ちはだかる。男は止まらなかった。

「会話は人と人とのコミュニケーションだ。化け物はひっこんでろ!」

 男はありえない角度に顔をゆがませながらそう言った。花子さんがまた手を叩く。男は潰れなかった。

 仁美が前に出た。和樹が慌てて後に続いた。助けに行こうとするコハクに、僕は待てと指示を出して、頭を撫でた。他の仲間も動かなかったが、花子さんだけは僕のほうに急いで飛んできた。服の中から、あのかるたを取り出して僕に差し出した。その手は怒りと焦りで震えていた。僕はかるたを受け取って、「大丈夫だよ」と言った。

「誰が結婚するかバカ!」

 仁美が男を殴った。強烈な一発で、男の体は殴られた勢いで反転した。後ろから来た和樹が男の股の間を右足で蹴り上げた。体はすぐに再生されているはずなのに、男はその場に倒れこみ、いつまでも痛みに悶えていた。アバターの子供たちが一斉に歓声を上げた。

「花子さんに教えてもらったんだよ」

 仁美がこっちに戻ってきて言った。その手には花子さんに貸したハンカチが握られていた。今ここにいる花子さんは首をかしげていた。僕がトイレに行った後の双子と花子さんの会話は、僕にも今目の前にいる花子さんにもわからなかったのだ。

「今度はお前の番だぞ」

 和樹に言われて、僕は急いで男に向かっていった。周りの歓声が大きくなった。

「起きろおら!」

 僕は少ない髪をつかんで男を無理やりひざまずかせた。男はまだ頬と股間の痛みを訴えていた。

「お前……お前お前!」

 僕が誰かわかった時、男に恐怖が見えた。その時、仲間の中から「テケテケテケテケ……」と笑い声がした。男はそれを聞いて泣き出した。家族の名前を繰り返し呼んでいた。

 僕は仁美が殴った頬を平手打ちした。男を黙らせるためだった。

「赤い紙と青い紙どっちがいい?」

 僕はそう言って、右手に裏向きのかるた、左手に男の家族写真を持って男に差し出した。

「赤い紙と青い紙どっちがいい?」

 男は写真を取ろうとしていた。すると、かるたから声がした。何を言っているかわからなかったが、男を呼んでいた。男は一度手を引っ込めて、かるたに向かって手を伸ばしてきた。

 僕は「違う!」と怒鳴って、男に写真の裏を見せた。『元気の素 ママとみゆより』という字を読んでも、男の意志は変わらなかった。

 男はかるたを持つと、愛おしそうにそれを見て、キスをし出した。「私のかるた……」と口裂け女がうしろで呟くのが聞こえた。男はかるたをよだれまみれにするだけでは飽き足らず、それを口に入れ、おいしそうに食べてしまった。飲み込んだと同時に、男は後ろ向きに倒れた。乗っ取りが始まったのだとわかった。

「再生が速いから2人とも体に閉じ込められてる。共有だけど実質花子の乗っ取りになると思う。ありがとう翔。これで勝てるかもしてない……」

 花子さんが隣にいた。こんなふうになる可能性があったことが花子さんにはわかっていたようだ。

「僕はやつをはめてなんかない! 助けようとしたんだ! かわいそうだとは思わない。美紀を殺した。でも家族がいるし、もとは普通の人だった。だから助けようとしたんだ!」

 僕は泣いていた。耐えられないほど悔しかった。

「私もそうするよ……」

 花子さんが僕の手をつかんだ。その手はもう震えていなかった。

 2人で男に近づき、顔を見た。目が開いていた。「変身できない」と男が言っている。立ち上がって、また同じことを繰り返し言った。声は男のものだったが、立ち振る舞いは少女のようだった。自分の顔と、体に触れて、男は悲鳴を上げた。

「それだけのための千年……」

 僕はそう呟いた。

 男の目の前に、別の中年男性が立っていた。異臭がする。その男性からは汗臭さと、血の臭い、それから焼けた肉の臭いがした。

 男が悲鳴を上げながら逃げ、端のフェンスを登ろうとした。異臭のする男が追いかけ、捕まえようとしている。そいつは一言も話さなかった。ただ荒くなった鼻息がこっちまで聞こえてきた。気持ちが悪かった。

 僕の隣で花子さんが手を横に振った。すると襲っていたほうの男が消え、あの男は本当の花子さんの姿になった。服装も白いワイシャツと赤いスカートをきちんと着ていて、赤い靴も履いていた。おかっぱ頭もきれいに整っていた。

 隣で花子さんが僕に「離れて」と言った。僕は、まだ待てを続けているコハクの横に戻った。「かるたに閉じ込めたままのほうがよかった」と口裂け女がぼやいている。

「誓いを立ててほしいんだけど」

 花子さんが言った。本当の花子さんが首をゆっくりと横に振る。2人は火を使って戦い始めてしまった。本当の花子さんのほうの火は黒く、優勢に見えた。

 2人とも変幻自在に火の形を変えていた。剣やムチのような形になった火は、どれもすさまじく大きくて激しい。ぶつかり合うと形が壊れて消えていき、またすぐに燃え上って別の形になり、互いの主人に向かっていった。

 本当の花子さんの勝ちだった。こっちの花子さんは攻められ続け、守ることしかできなくなっていた。黒い火に飲み込まれそうになりながら、急に花子さんが大声を出した。本当の花子さんに聞こえるまで何度も同じことを叫んでいた。

「ごめんね!」

 それを聞いても、本当の花子さんは攻撃を止めなかった。笑っている。その声は大きくなっていき、黒い火もどんどん強くなっていた。それでも花子さんは謝り続けた。

「ごめんね! 助けてあげられなくてごめんね!」

 2つの火が一瞬で消えた。本当の花子さんの様子がおかしい。体が強制的に男の姿に戻ろうとしていた。


 残ったのは服装だけだ。ただし、どれも子供の着るサイズのままだった。白いワイシャツは男の体に耐えられずびりびりに破れた。スカートは短いサスペンダーのせいでお腹まで上がっていた。はち切れそうな下着と毛むくじゃらでがに股の脚が見えた。

 男は声に出さず泣きながら、脱げた靴を履こうとしていた。足は明らかに靴より大きくなっていた。男はこの現実を受け入れられないでいるのだと思った。

 髪の毛が抜け落ちていく。男が頭に手を置くと、その部分の毛がごっそりと抜け落ちた。それを見て、男が悲鳴を上げた。

 また異臭のする男が現れた。じりじりと詰め寄られ、あまりの恐怖に、男は失禁してしまった。何の抵抗もできず、押し倒され、服を乱暴に剥ぎ取られていく。

 男がほとんど裸になった時、もう1人の男も服を脱いで男に体を押し付け、口づけしようとしていた。

「誓いを立てる!」

 男が言った。もう1人の男は肌が触れ合ってから少しずつ、黒いもやもやとした存在に変わっていた。

「内容は?」

 花子さんが聞いた。厳しい口調だった。

「消滅!」

 男がそう言うと、花子さんが「未来永劫、完全消滅!」と付け足した。男はわかったと言って頷いた。体にまとわりついていた黒いもやもやはすでに消えていた。

「家族に一生楽な暮らしを……」

 本当の花子さんか男か、どっちが言った言葉かわからなかった。男はその後すぐに、指示された通りに誓いを立てた。「比較的健全な精神状態……」から始まる簡単な誓いだった。

 男は消えた。とてもあっけない最後だった。静かな拍手が聞こえた。僕は、仁美と和樹のところに駆け寄って、双子を抱きしめた。和樹が鼻をすすりながらまた僕を罵った。

「終わったんだね……美紀ちゃんには会えた?」

 仁美に聞かれ、僕は頷いた。ここにいたと言って、自分の胸に手を置いた。

「ずっと一緒にいたんだ……」


 花子さんが僕に近づいてきた。お願いがあると言われた。花子さんが手を上げると、口裂け女のほうから、かるたが1枚飛んできた。花子さんの手に収まった時には、宝くじに変わっていた。それを僕に渡した。裏面の余白に『生活の糧 パパより』と書かれていた。

「みゆに渡しとくよ……お別れだよね?」

 僕が聞くと、花子さんは「まあ」と適当な返事をした。その後、花子さんが宝くじの表に書いてある英単語を指さした。

「ドリーム」

 僕が言うと、花子さんは頷いた。それをきっかけに、他の者たちが小さな光の球体になって、花子さんの体に吸い込まれていった。別れの声がたくさん聞こえた。僕と双子も何回も「さようなら」と言った。

 一人になった花子さんが僕を見つめていた。

「ドリーム……」

 花子さんの声は問いかけるようだった。僕はゆっくりと頷いて、また同じことを言った。

「ドリーム」

 美紀の悪夢はこうして終わった。


 夏休みになっていた。僕は双子と駅前の公園で待ち合わせをしていた。ベンチに座り、手には、宝くじを挟んだ二つ折りの写真を持っていた。

「わっ!」

 和樹が後ろから僕をおどかした。僕は笑って、冗談でぶっ殺すと言いながら、和樹を追いかけた。それを見ながら仁美も笑っていた。

 僕は双子と一緒にみゆに会いにいって、4人で話をした。みゆの父親は悪霊に憑りつかれていたと伝えた。

 みゆは最初、写真しか受け取ってくれなかった。僕が裏の文字を見せたら涙を流し、やっと宝くじを手に取った。

「友達になろうよ」

 仁美が言った。僕もそう言うつもりだった。

 その日以来、4人で遊ぶようになった。ずっと一緒にいたいと思える、家族のような存在だった。



――私は、初めて降りた駅の近くにある公園にいた。スーツ姿でベンチに座って、家族写真を見ていた。写真を見た後、裏面の『元気の素 ママとみゆより』という字を見るといつも励まされた。

 約束の時間まで3時間ほどあったが、家族に心配をかけたくなかったので、いつもと同じように6時には家を出た。家族には全部落ち着いてから話そうと思っていた。

 7時40分になると携帯電話が鳴った。上司からだった。勤務開始は8時50分だが、7時半には出勤していないと注意されるのだった。

 今日は休むつもりでいた。立ち上がって電話に出て、体調が悪いと伝えると、自己管理ができてないという説教が始まった。本当に出れないかと何度も何度も聞かれた。診断書をもらって今日中にファックスするように言われ、仮病であることを正直に告げた。

「そうだよな! 2週間前にお前、今日休めるよう有給申請出してるからおかしいなーって思ったんだよ!」

 上司が言った。申請は出した時に理由がちゃんと説明できず却下されていた。正当な理由があっても1ヵ月前でなければ受け取らなかったらしい。どの道、休ませる気はなかったのだ。

「会社を辞めたいんです」

「なんで? 辞めるのもこっちが認めてから1ヵ月かかるけど。いやまず、なんで?」

 声は不気味なほど落ち着いていた。ただ、机を思いっきり叩く音が聞こえた。

「働く時間が長すぎます……」

「具体的に言ってくれる? それじゃ全然わからないよ」

「朝7時半から夜12時まで働いて、家に帰るのは1時半過ぎです。休みの日も仕事が終わらず出勤して。家族と話す時間もありません。家族と一緒にいたいんです」

 そんなことを言うのは初めてだった。上司はしばらく黙っていた。

「……それがお前、働くってことだぞ。この仕事辞めたら、お前の人生終わりだ。わかってるのか?」

「すぐに転職しようと思ってます」

「どこ?」

「えっ?」

「どこの会社に行くの? 受かれば前職調査がきて、結局わかるんだから、今言えよ!」

 私は正直に会社名を言った。今日がその会社の採用面接の日だった。

「今その会社に電話して、お前が仮病を使ったことを言ってやる。無責任な男だと言ってやる。自分の時間がほしーってだけで会社辞めていくダメ人間だと言ってやるからな!」

 上司が電話を切った。頭が真っ白になる。


 上司からまた電話がかかってきた。恐怖で出れなかった。

 しばらくして、上司からメールが届いた。「不採用になりました」というものだった。

 また上司からメールが届いた。「ご実家のお母様に連絡し、あなたのことを話しました。泣いてたよ」という内容だった。

 またメールが来た。一番辛い内容だった。

 「お前の家に連絡した。嫁にお前のことを話した。最初に出た娘にもお前のことを話した。お前の人生終わりだ」

 私はベンチに座って、泣いた。

 何時間もそこから動けないでいた。子供の声がする。「誰から逃げてるの? 誰が鬼なの?」という声が聞こえる。

 娘に似た影がそばを通った。目線を少し上げると、ずっと握ったままだった写真が視界に入った……立ち上がろう。そう思い、カバンを持って、腰を上げた瞬間、背中を誰かに押された。

 手からカバンと写真が離れ、地面に落ちていく。カバンの中に入っていたものが砂の上に散乱した。『事件録』という本が出てきた。どこで手に入れたのか忘れたが、おそらく転職のための本と一緒に買ったものだった。

 押した人はすぐに私から逃げていった。

 そうか。おにごっこか。頭の中で声がする。自然とそれが口から出てきた。

「一生懸命働いてる会社員ふりか。愛し合ってる夫婦のふりか。幸せな家族のふりか! いい父親のふりか! いい人間のふりか! 人ごっこ……人ごっこをしてただけなんだ。そうか……じゃあ、やろっか」

 私はそう言って、逃げる子を追いかけていった。

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