幽霊(3/4)
雨野はあどけない顔立ちの眉宇をきっと引き締めて、真剣な口調で語りだした。
「りょ、寮の私の部屋に、ルームメイトの子が居るんですけど、その子が夜中に寮内を歩いている時に、その……見たらしくて。それで、それ以来ちょっと怖くて、夜はうまく眠れないみたいで──」
「ちょ、ちょ……っと、待って下さい」
「え、あっ、はい?」
まるで何かに耐えかねたように助手は、片手を突き出して『待った』をかけた。
「えっ……と? ゆ、幽霊、ですか?」
「は、はい。私にはその、霊感っていうんですか? そういうのがないので、分からないんですけど。でも、女子寮ではもうすっかり噂になってます。いわく、卒業したルームメイトに思いを告げられず、相手の顔と名前も忘れ、未練を残した生徒の霊が、夜な夜な想い人を探して徘徊している……、と」
そう力説する雨野。
しかし助手はそれがまるっきり信じられない様子。
「君は聞いた事がないのかい?」
「初耳ですし、正直に言って、信じられません」
問われると、悩ましそうに首を捻りつつも、しかし助手はきっぱり。
「うぅ……すみません……」
言われて雨野はしょんぼり。
日頃から言い慣れている自分ならともかくとして初対面の雨野に対しても冷たい態度の助手に、はっきり言うねえ、と。
「まあ君はマイペースで不愛想だから、どうせクラスでもうまく溶け込めていないんだろう?」
「先生に言われたくありません」
「だがしかし一先ずは雨野くんの言葉を信じようじゃあないか。いかに非科学的な話とはいえ、それを信じない事には相談のしようがないだろう?」
「む」
珍しく正論のウツロイに、助手は渋々了承せざるを得ない。
雨野もとりあえずほっと一息。
「それで、その幽霊とやらは、どういう霊なんだい? 歳は。性別は。背格好は。なんでもいい、何かそれについて分かっている事を言ってごらん」
「えっと、そうですね……。髪が長くて、うちの学校の制服を着ているらしくて。たぶん、同じくらいの歳の女子だと。背丈は、すみません。聞いた事はなくて」
「噂になっていないというならおそらくは標準的な体格なのだろう」
「女子が、想い人を探すのに、女子寮で、ですか?」
「おかしいかい? そういう人間も世の中にはいるのだよ」
確かに、と助手は頷いた。
訝しげに眉をひそめていたが、『そういう人間』の本人を目の前にして助手はあっさりと納得した。
「学校の寮で、誰か亡くなった事があったんですか」
「いや私も聞いた事はないが、例えば地縛霊というのは生前の強い思いによって特定の場所に縛られると聞く。仮にその少女の魂が一番心残りのあった場所──すなわち学校や女子寮に引っ張られてしまった、と仮定すれば辻褄は合うだろう」
「はあ、なるほど」
「それで、その幽霊はどうすれば、解放されますか?」
そうだねえ、と。後ろに傾けた反動で椅子から立ち上がると、ウツロイは二人の周りを歩きだした。
「願いを叶えてあげればいい。その子を寮に縛り付けているという未練、心残りを綺麗さっぱり解消してしまえば現世に留まる理由はなくなるだろう。自然と成仏して天国に行くだろうからそれが一番手っ取り早いだろうね。まあもっとも、私達は専門家じゃあないからそれくらいしかできないのだけれど」
「それって…………いつ卒業したかも分からない幽霊の想い人を、ゼロから探し出すって事ですか?」
それは、卒業生の名簿があれば可能かもしれないが、地道で気の長い作業だ。それ以前に幽霊とコミュニケーションを取って確認することができるのだろうか。その面倒臭さを想像しただけで助手は思わずげんなりと嫌悪感を見せる。
対してウツロイは余裕の表情で一つある提案をした。
「もっと簡単な方法があるとも」
「ど、どんな、方法ですかっ」
それは意外。一見して大人しく控え目な彼女にしては想像がつかないほどに積極的に、身体を前のめりにさせて話に食いついた。
そんな雨野へ、ウツロイは足を止めてにんまりと笑みを作ると、
「いっそのこと、新しい恋人を作ってしまえばいいのさ。こうやってね」
「はい? ────へぷっ」
もにゅっ。
助手が最初に感じたのは──人肌の温もりと、とろけるような柔らかさだった。
「ふぁあ────」
目の前で起こった突然のことに雨野は息を呑んだ。
雨野に話していたウツロイは笑顔で助手の真横に立ち止まって少し屈むと、少女の頭を胸元に抱き寄せていた。
気づいた時には視界が豊満な胸で埋まっていて、聞いているこちらが恥ずかしくなるくらい直ぐ近くから彼女の鼓動がはっきりと聞こえていた。
時間が停止した。
実際には五秒か、十秒か。しかし二人にとってはあまりにも唐突過ぎて頭が真っ白になり、それが永遠の様に感じていた。
そして時は動き出す。急速に、
「なっ……、なな何するんですかいきなりっ」
がばっと半ば突き飛ばしながら起き上がると助手は赤ら顔で狼狽えだす。その言葉には叱咤するような鋭さはなく、ウツロイは一層目を細めて、
「ふうん……いきなりじゃなければ、いいのかい?」
「っ……へ、変な事言わないでください、気持ち悪いです」
そう平静を装って不躾に言いつつもまだ頬が熱を持ったままの助手。
じっとりと軽蔑の眼差しで見つめ返して吐き捨てるが、それが余計に彼女の嗜虐心を満たして、興奮に自分の体を抱きしめながら背筋をゾクゾクと震わせた。
そして事態を飲み込めず蚊帳の外の雨野。
ぼうっと二人を見守っていると、唐突にウツロイに真面目な表情で呼ばれて、
「ふぇっ?!」
思わず素っ頓狂な声が漏れると共に、ほっそりとした肩がびくんと跳ねた。
「私はね、愛に性別なんて関係ないと思っているよ」
「ぇ……、そ、それって……?」
あんなことをした直後の急な告白だ。雨野は混乱から抜け切れずに戸惑った。
「例えば直接触れ合って体温を感じたり、あるいは隣に立って行動を共にしたり。それだけで人は垣根を簡単に飛び越えて通じ合うことができる。性別なんてモノは些細な問題なのだよ。それにそれくらいなら幽霊くんにもできるだろう。現世に留まるくらいだからきっと素敵な恋だったのだろうが、ここは心機一転、新しい恋を始めるチャンスさ。実体の垣根を越えてね。恐らくはその想い人とやらもルームメイトの不幸を乗り越えて今頃は幸せに暮らしているだろうからね」
「そんな簡単に……いくんでしょうか……」
「いくとも」
そう微笑んだウツロイの意味深な視線が自分の不安を見透かしている風で、雨野はまるでその瞳に胸が貫かれたかのように鼓動がどくんと大きく鳴った。
「学校内では色とりどりの女の子が咲き誇っていて、一歩外に出れば無数の花束が町中に並んでいる。世の中にはね、どの子に声をかけようか迷うくらい選り取り見取りの可愛い子が存在するのだよ。だからその幽霊くんも女子寮なんて狭い場所に留まらず、もっと広い世界に踏み出してみればいい。きっと彼女にぴったりの素敵な相手と恋に芽生えるだろう。この私が保証する」
「ウツロイ先生がおっしゃると、説得力が違いますね」
「だろう?」
そんな雨野の心情を知ってか知らずか、皮肉気味に褒める助手とわざとらしく自慢げに胸を張るウツロイ。
「恋に回数制限なんて存在しないんだ。楽しまなきゃ損だろう、雨野くん?」
そう、唐突に問われ、
────。
「ふっ、くふ……、ふふ、ふふふふっ」
雨野は思わず笑ってしまった。
すいません、と可笑しそうに目尻に浮かんだ涙を指先で拭う。
「先生の話を聞いていたら、なんだか、さっきまで悩んでた自分が馬鹿みたいって、思って」
それはもはや曇天のような憂鬱顔ではなく、
「そんなので、いいんですね」
「いいのさ、そんなので。ふふん、どうやら吹っ切れたみたいじゃないか。素敵な顔だよ。きっと君にも素敵な恋人が見つかるだろうさ」
「あはは、ありがとうございます。……この話、私はその幽霊とお話できませんけど、寮に噂を新しく広めて、なんとか伝わる様にしてみますね」
「それがいい。ああ、そうだ」
と、たった今思いついた風にウツロイは勿体ぶって、こう言った。
「いっその事、君の恋人候補に、私なんてどうだい?」
まるで雨上がりの空に広がった快晴のような晴れ晴れとした表情で、
「前向きに、考えてみますね」
彼女は笑って言うのだった。