暁星
それから、どれだけ時が流れたでしょう。
悪名たかき海賊船が、威圧的に帆をかかげて海を行きます。
「――くそっ! またでたらめだった!」
船長室で、ひどく荒れた様子の男が海図を広げた机を殴ります。
かつて、ひとりの人魚と愛し合った男でした。
大海原に船を出したはよいものの、これといった宝も手にできず、
いつしか人の道にはずれた事に手を染めて、略奪と暴力にあけくれてきた男です。
人のよさそうだった面影は、もうどこにもありません。
赤焼けた肌にはいかめしい皺が深々と刻まれ、伸ばし放題の髭には白いものが混じっています。
「どこにお宝があるっていうんだ! いったい何年探し回ればお目にかかれる!」
手下たちは怒鳴り声にすくみ上がって、誰も船長室に近づきません。
昔は男気のある手下もいましたが、
日に日に落ちぶれていく船長に愛想をつかして、ひとり、またひとりと船を降りていきました。
残っているのは要領の悪い腰ぬけと、鳶のようにずる賢い手下ばかりです。
「船長、お話が」
ひとりの手下が、意を決したように船長室の扉をたたきました。
「うるさい! おまえなんぞと話している暇はない!」
けれど船長は、聞く耳持たずに追いかえします。
手下はうんざりとため息をついて。
「……潮時だな」
静かな声でつぶやきました。
悪行には、いつか報いがくるもの。
海賊船の船長は、手下の裏切りにあいました。
港に置き去りにされ、あえなく捕まり、いまは処刑台の上にさらされています。
「海賊のおかしらだってさ」
「どうりで、見るからに悪そうな面だなあ」
「あの男よ! あの男が私の夫の乗った船を……!」
「泣くのはおよしよ、旦那さんの無念もようやく晴らされるわ」
見上げる人たちは口々に、船長の悪評をささやきます。
「有象無象が、知ったような口を。
おまえらが世界の何を知っているというんだ」
「では、あなたは何をご存知で?」
ひどく懐かしい声が、船長の耳をうちました。
羽根帽子で風を切り、靴音を鳴らし近づくのは、鉄板みたいな巨大な剣を手にした処刑人です。
「……ばかな」
船長の口があんぐりと開きます。
処刑人のその、金の髪は、青い目は、白い肌は、赤い唇は。
「おまえが……! なぜおまえがここにいる!
これはなにかの間違いだ! でなければ悪い夢だ!
おまえはたしかに目の前で息を引きとったはずだ!
ええい! 今際にまで顔を出すな! 消えうせろ、いまいましい化け物め……!」
船長は見苦しくわめきました。
処刑人の青い目が、ほんのわずかに見開きます。
やがて、ほのかに赤い顔をうつむけて、船長にだけ聞こえるようにささやきました。
「――やっと見つけた」
底冷えのするような声でした。
「おい、見ろよ! バターでも切るみたいにすぱすぱと、見事だなぁ」
「あんな細い腕でよくやるわ、顔も女みたいにきれいな処刑人なのに」
「ひと思いには殺さないんだな。指からひとつずつ切り落として、なかなかえぐいな」
「……あーあ、吐いてるやつもいるじゃないか」
「おかした罪が罪だからね、それだけ罰も重いんだろ」
「なあ、あの処刑人、笑ってないか?」
「本当だ。こう言っちゃ不謹慎だけど、楽しそうだな」
「ああ、子供みたいに無邪気な顔だ」
あの悲劇の夜のあと、姉の亡き骸を海へ還してからすぐに、妹は陸に上がりました。
言葉も通じない世界を死に物ぐるいで渡り歩き、剣でも弓でも見事にあつかえるようになりました。
やがて、人間の言葉が理解できるようになる頃には、悪名たかい賞金首を殺して回るようになりました。
水の抵抗の中で生きてきた人魚は生来、人間よりもずっとずっと力が強かったのです。
血のにじむような道でした。
死にかけた事だって、だまされた事だって、一度だけではありません。
女の身ではいろいろと不都合があったので、男の格好をするようにもなりました。
悪人を殺し、その首にかかっていた金をもらって暮らす日々。
そんな生活を続けていたところ、いつしか処刑人にならないかと声がかかりました。
首だけの悪党を受けとるよりも、生かして捕らえて大勢の前で苦しめて償わせたいのだと彼らは言います。
妹は姉の復讐にしか興味がなかったので、最初こそ断りました。
けれど、彼らは食いさがり、断る理由をしつこく聞いてきました。
姉の仇を探しているのだとだけ、重たい口を開けば、ひとりの男にこう諭されました。
「おまえが血まなこになって探すまでもない。悪運ってのはいつまでも続かねえ。
そいつは遅かれ早かれ、処刑台の上にあがるだろうよ。
そしたら、あとは煮るなり焼くなりおまえの自由だ。
おれはおまえを止めないね。
誰かがおまえを咎めるんなら、おれがそいつを言いくるめてやるよ」
妹は、口のうまいその男がなんだか気に入ってしまいました。
「いいよ。私をうまく使ってみせろ」
それからというもの、
町の人から断頭台の王子などと呼ばれる男装の処刑人が、罪人の首を刎ねるようになったのです。
「あいつだったのか」
いつもよりも執念深く執行された極刑に、処刑場は静まりかえっています。
血の海のなかを全身を赤く染めて壇上を降りた処刑人に、ひとりの男が声をかけました。
彼女の事を誰よりも理解している、彼女をこの仕事にひきずり込んだ上官です。
「……ああ」
短く答えた処刑人の表情は、魂が抜けおちたように虚ろです。
上官は、乾いたハンカチをベールのように、処刑人の頭にかけてやりました。
「きれいな顔が台無しだぜ、町娘からきゃあきゃあ言われるのはまんざらでもないんだろ?」
「ひがむなよ。あんたの方がいい男だって、私はよく知ってるよ」
ささやかではありましたが、処刑人の赤い唇に笑みがともりました。
上官は満足そうにうなずきます。
「おまえの悲願はようやく果たされたわけか。
これからはどうする、
断頭台の王子を続けるかい? それとも錦を飾って故郷に帰るのかい?」
「あんたは、どうしてほしい」
処刑人に問いかえされ、上官は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をします。
「……回りくどいのは柄じゃねえや」
がりがりと頭を掻いて、上官は言葉を続けました。
「おれと一緒にこい。
おかみから軍に加われと言われててな、
どうせおまえは今回の事でお叱りを受けるんだ、左遷には打ってつけだろ」
「咎められたら、言いくるめてくれるはずではなかったかな」
処刑人は意地わるく昔の話をむし返しましたが、返り血をぬぐった手を上官にさし出し。
「この世界でいちばん、私をうまく使えるのが誰なのか。わかっているよ」
はいと答えるかわりに、ほのかに赤い顔にほほえみを浮かべて、処刑人は言いました。
照れくさそうにその手を取った上官は、ふと処刑人の顔を見て口を開きます。
「おまえも人並みに泣くんだな」
そう言われてはじめて、処刑人は自分の頬から涙がつたっている事に気がつきました。
指ですくった涙はころりと球状に掌で転がり、小さな硝子玉めいた粒となって手のなかに残りました。
「――涙」
姉の愛した船乗りが、彼女をなぶり殺してでも欲しかった宝物。
姉を殺された妹が復讐の悲願をはたす事で、ようやくこの世に現れました。
人魚の涙。
それは、人魚が魂を燃やすように強く願った事をかなえた時に、たった一度だけ零れる奇跡。
「……姉さまを、心から愛し、添いとげていたら」
あの船乗りは、欲しかった物を手に入れていたのかも知れません。
けれど、覆水は盆に返らず。時計の針も逆に回ったりはしません。
「どうした?」
問いかける上官に、処刑人はなんでもないと首を横に振りました。
一世一代の宝物を握りしめて、処刑人は上官の背中について行きます。
それから、双子の人魚の片割れがどうしたのか、はっきりとはわかりません。
戦場で死んだはずの男が急に息を吹き返したとか、
その男が乗った船の上で、どこからともなく美しい歌が聞こえてきたかと思えば、その歌声に誘われるように嵐を避けられたとか。
そんな話が嘘かまことか知っているのは、高い空から煌々《きらきら》と彼女を見守る星ばかりです。
ご覧いただきありがとうございました。
また次回作でお会いできましたら幸いです。