婚星
姉が陸に上がってから、どれだけ時間が経ったでしょう。
姉は船乗りと仲むつまじく、夫婦同然に暮らすようになりました。
自分が陸にきた理由など、すっかり忘れてしまったように。
自分が人魚であるなどと、けっして誰にも話さぬままに。
船乗りの手下たちは、二人は遠からず結婚するものと思っていました。
姉もそうなる事を心から願っていました。
けれど、船乗りはある日こんなことを言い出したのです。
「ごめん、ぼくはまた海の向こうへ行かなければいけない。
きみを置いていく事をゆるしてほしい」
「なぜなの? 私を置きざりにするだなんて!」
「船旅はとても危険なんだよ。きみの事が大切だからこそ、連れていけないんだ。
わかってくれ、きっとすごい宝物を見つけて帰るから、待っていてほしい」
「宝物? あなたはどんな宝物を探しているの?」
「いろいろさ。竜の血とか、羊がなる草とか、金の卵を産む雌鳥とか、
人魚の涙とか」
「涙? 涙ってなあに?」
船乗りは面食らった顔をします。
「とてもとても悲しいときとかに、目から雫がこぼれるだろう。
そういえば、きみが涙を流している所は見たことがないな。
きみはどんな事があっても泣かないのか?」
「泣いた事くらいあるわ。けれど、そんなものこぼれたかしら」
「へんな話だな。どんな風に生きてきたら、涙を知らずに過ごせるんだい」
「ねえ、あなたにすごい秘密を教えてあげるわ」
姉はいたずらっぽく船乗りの耳にささやきかけます。
「じつは私、人魚なのよ」
「おいおい! 冗談も休み休み言ってくれ!」
「嘘でも冗談でもないわ。
あなたになら、尾鰭を見せてあげてもいいのよ」
「本当なのかい……?」
船乗りは、まじまじと穴が開くほど姉を見つめます。
「本当に本当よ。ねえ、あなたは人魚の涙が欲しいのよね」
「ああ、不老不死の秘薬とも、死んだ人を甦らせるとも言われているんだ。
とてつもなく貴重なものなんだよ。
けれど、きみはさっきまで涙の意味すらしらなかったね。本当に泣いた事がなさそうだ。
一度だけでもいい、きみが人魚だと言うのなら、どうしたら涙が流せるだろう」
「さっきあなたは、涙というのは、
とてもとても悲しい時に目からこぼれると言ったわね」
「ああ、言ったとも」
船乗りは深くうなずきます。
その答えに、姉はにっこりと笑って言いました。
「なら、あなたが死んでしまったら、私が泣いてあげるわ。
あなたの話が本当なら、私の涙であなたは息を吹き返すのでしょう?」
「おいおい、気持ちはうれしいけれど……
それくらいしか、きみにとって悲しい事ってないのかい?
ぼくの他にも家族とか、兄弟とか、姉妹とか。いたりしないのかい?」
姉は少し考えこみました。
思い出したのは海の底で待つ母と、別れるまぎわに見た妹の悲しそうな顔です。
「いないわ。あなたに会うまで私はひとりぼっちだったもの」
けれど、姉は嘘をつきました。
喧嘩別れした妹にも、人間の事を学んでくると約束した母にも、会わせる顔がないからです。
「……そうかい。
いや、別にいいんだ。きみにはぼくがいるからね」
「そうよ。だから、ねえ。どこかに行くなんて言わないで」
姉はすがりつくように言いますが、やっぱり涙はこぼれません。
そんな姉の顔を見て、船乗りはそっと眉をひそめました。
「ごめんよ、ぼくはやっぱり宝をあきらめきれない。
けれどきみの話が本当なら、ぼくにいい考えがある」
「考えってなあに?」
船乗りは、姉の白い手を握りながら言います。
「ぼくの船が旅立つ夜に、きみも人魚の姿でついておいで。
ぼくの船が迷わぬように、きみが泳いで導いてくれ」
「うれしいわ! あなたと一緒に行けて、あなたの役にたてるのね!」
姉は赤い唇から白い歯をのぞかせて、この上なく晴れやかな笑みを浮かべました。
「うれしいのは、ぼくも同じさ。きみが夢にまで見た人魚だったなんて。
この世界の誰よりも愛しているよ。ぼくのかわいい人魚姫」
ふたりは愛を確かめあうように、固く固く抱きあいました。
そして、とうとう船乗りが旅立つ夜がやってきました。
白い帆がひるがえり錨が巻きあがり、巨大な船が進みだします。
「あの人の船だわ!」
姉は船乗りに言われたとおりに、白い足を鱗と尾鰭に変えて、船が出るのを待っていました。
この姿にもどるのなんて、何日ぶりかもわかりません。
なまってしまって以前よりはのろくさく、それでも危なげなく船の前に泳いできます。
そうして、顔を上げ船の上に晴れやかにほほえみかけた瞬間。
「放て――――――!!!!」
船乗りの雄たけびと同時に、ほほえむ人魚に銛が一斉に放たれました。
するどい銛が、姉の白い肩を、白い腹を、銀の鱗を、銀の尾鰭をつらぬきます。
あまりの事に、あまりの痛みに、姉は悲鳴ひとつあげられませんでした。
「どう、して……?」
銛につらぬかれ、穴だらけになった姉の身体が甲板へと引きずり上げられました。
船乗りの手下たちが、驚愕に目を見ひらいて血まみれの姉を見つめます。
「……本当に人魚だったんだ、船長の言ったとおりだ」
「いいんですかい、船長? まがりなりにも好きだった女でしょう?」
船長と呼ばれた船乗りは、身体を真っ赤にぬらした人魚をひややかな目で見つめます。
「ああ、好きだったよ。
でもぼくが愛したのは、うつくしくて罪がない人間の女さ。
歌声で惑わせ船を沈める化け物なんかじゃない」
船乗りは姉を見下ろし、無慈悲に言い捨てます。
「そんな……、嘘でしょう……? 嘘だと言って……
この世界のだれより……愛して、いると」
「そんなにぼくの事を信じてくれていたんだな。
それならぼくに裏切られて、心底悲しいだろう?
泣け。
涙を流してゆるしを請えば逃がしてやろう。
魚は陸の上じゃなく、海の底がお似合いだ」
船乗りの冷酷な言葉に、ほのかな赤みすら失った姉の顔がゆがみます。
「私が聞きたいのは、そんな言葉じゃ、ないわ……!
お願い……、気の迷いだったと言って! こんなひどい事はもうやめて!
私はあなたを本当に愛しているわ……!」
姉は息も絶え絶えにうったえます。
けれど船乗りは、わかってないなと言うように首をゆっくり横にふるって。
「ぼくが欲しいのはおまえの愛じゃない、おまえの涙だ」
「…………泣いてなんて、あげないわ」
姉は今にも消えそうな声で、それでもはっきりと言いました。
「しかたないな。なるべく手荒にしたくなかったのに。
おい、おまえたち」
船乗りは、手下に命じます。
「――思う存分、かわいがってやれ」
手下の何人かは、ためらうようなそぶりも見せました。
けれど下卑た笑みを浮かべた手下のほうが、すこし多かったくらいです。
絹を裂くような姉の悲鳴が、暗い海に響きわたりました。
「…………姉さま?」
悲痛な叫びは、陸に上がっていた妹の人魚に届きました。
姉が姿を消したきり、姉がずっと人間の足を持っていたので、妹は陸には上がれずにいたのです。
けれど今夜に限って、海面に顔を出した瞬間に、妹は人間の姿になれました。
姉に何かあったに違いないと、妹は慣れない二本の足で懸命に探し回っていたのです。
「どこにいるの! 返事をして! 姉さま! 姉さま――!」
そうして、ようやく聞こえた気がしたのは、今にも消えそうななつかしい声。
妹は、はじかれたように振りかえり、夜の海に飛びこみました。
金の髪の先まで潜れば、海は人魚である彼女の庭です。
聞こえるか、聞こえないかのその声は、やがて完全にとだえてしまいました。
妹は尾鰭がちぎれんばかりに、波をかき分けて進みます。
どれだけ泳いだことでしょう。
妹がようやく見つけたのは、波間にきらめく金色でした。
自分の髪と同じ色の。
「やっと会えた、姉さま! 何があったの!?」
妹は、無我夢中で姉に抱きつきます。
両腕で抱きしめた瞬間に、姉の身体が糸が切れた人形のように、だらりと妹にもたれました。
「…………ねえさま?」
姉は、返事をしませんでした。
妹は背中が冷たくなるのを感じながら、姉の顔を見ました。
姉はもう、妹にそっくりな顔はしていませんでした。
「……どう、して」
その顔を見た瞬間、怒りよりも、悲しみよりも早く、空白が頭の中を支配しました。
ほんのりと赤かった姉の顔は、赤黒くぼこぼこに腫れあがっていました。
月のように白かった姉の肌は、赤や青の痣でまだらになっていました。
澄んだ声で歌ってくれた赤い唇からは、血の色が消えうせ乾ききっていました。
開きっぱなしの口の中には、白い歯はもう一本も残っていません。
「姉さま! ねえさま! ねえさまっ! ねえさ………………」
妹は、いつまでも、いつまでも姉を呼び続けました。
もの言わぬ姉の唇からは、もう血のにおいしか返ってこないというのに。
張り裂けるような嘆きの声が、暗い海に響きわたる夜。
ほうき星がひとつ、墨のような空をこぼれては消えていきました。