速かった帰宅
池中屋の用心棒は三人いる。腕の立つものが一人くらいはいるだろうか。マサは記憶の片隅にある「石坂新八郎」のことを思い、低く笑い声を上げた。おまんは不思議そうに覗き込みマサに尋ねた。
「やっぱり、匕首よりも刀の方がお前さんには似合ってるのかねえ?」
「さあ、どうかな? そろそろ俺も『潮時』かもしれん……」
「嫌だよ、お前さん縁起でも無い」
「鍬を持つのも刀を持つのも、同じこの手。命を産むのもそれを断つのもな、おまん」
「おやおや、なんだかえらい坊さんの言うようなことを……、らしくもないねぇ」
そう聞くと「山岳坊」は素山にいつのまにやら感化されたことに苦笑いをし、やがて真顔になった。
「万、今度が最後の押し込みだ。首尾よく終わった後は、百姓の女房になってみるか?」
「百姓の子供だって産むさ。あんたとなら……」
「そうか、働き手は多いほうが助かるしなぁ」
二人の前を二匹のキツネがふさふさの尾を水平にしたまま横切っていった。
素山は山岳坊と別れ、庵に向かった。今では小さな庵が「シシ穴」の前に「結んで」あった。それはいつかの村人が建ててくれたものだ。月も半ばになると行倒れも減って来る。年貢米の時期を別にすれば、月末の支払いができなくなったものが住処を捨てて他国に移る。その繰り返しだ。どこも同じ暮らしぶりだろうが、それでもわずかな希望が彼らを突き動かすのだ。幕末から維新にかけて「食えなくなったものはわずかな希望を嗅ぎ取り、それに惹かれて集まっていった。のちに維新という「心地よく甘美な言葉」に多くの老若男女が巻き込まれ死んでいくことになろうとは、素山は想像もできなかった。
「今日は随分歩いた。少し早いが庵に戻るとしよう」
素山はそう言うと、おりょうに再三言われようやく新しく買い求めたその筆を収めた。
「そう言えば、久しく『うどん』を食べておらんな」
そう言って笑った素山は、本心では「おりょう」が数日現れないことが気になったのかもしれない。
その鼻に、うどんのだしの匂いが届いた。
「おや? おりょうのやつ、こんな時間にはすでに来ておったのか、ついぞ知らなかった」
素山は、いつもはまだ、一時ほど(二時間)は行で戻らぬ。おりょうがゆうげの支度に、いつもどれだけ時間をかけていたかは素山はしらなかった。
「どれそっと近づいて脅かしてやろう」
素山は、ふざけてそっと入り口を開けて背中を向けているおりょうに近づいていった。おりょうはそれには気が付く事もなく、一生懸命に何やらきざんでいた。
「おりょう、ゆうげの支度いつもすまぬな」
そう素山が突然声をかけた。急な素山の声に驚いたおりょうは、危うく右手の包丁を落としかけた。
その手元を見て、素山もまたそれ以上に驚いたのであった。