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鉄筆  作者: 黒瀬 新吉
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うどん

 それはこんな夕方のことだった。


「しかし相変わらず行き倒れが後を絶たんな、泰平の世になっても山野に死人は尽きぬものなのか……」

素山は山道を歩いて脇道に入った。彼は「その家」にたいてい寝泊まりしていた。元々器用な彼は古い猪穴を見つけるとすぐにせっせと掘り足しては、廃屋の柱や板切れで「立派な寺」をこしらえたつもりだった。

 素山はその「猪穴」のおかげで、山野の修行を朝早くから日が沈むまで行えた。泰平の世の中もっとも不用な者「さむらい」は各地で減り続けていた。「国替え」を機に「浪人」になったものや「仕官」のために放浪するもの。商家に養子に入る者も多かった。中には「武士」の名をわずかの金銭で「売り渡す」者までいた。


さて『禅宗』には大きく分けると『臨済宗』『曹洞宗』という二つがある。禅宗は他の宗派も含めて互いに行き来がある。その中で互いに切磋琢磨し「大悟(悟り)」を求めることもあるという。素山は元々武士の子だ、しかも嫡男であった。「国替え」で一家は豊前中津から関ヶ原以前の故郷である「播州明石」に戻ってきた。しかし訳あって家族は母の実家の「商家」に居候していた。彼は中津藩での暮らしを覚えていない。なぜ国替えの後、一家はしばらく中津に留まったのか、父が「石坂」の名を捨てようとしたのかもだ。

 播州明石に戻りやがて兄弟は母方の姓「中島氏」を名乗るようになった。幼くして、彼は禅寺に預けられたと伝えられる、残った弟は母の実家である商家を継いだ。


「ふむ、何やらまずいことになったわ」

素山は一人「(かわや)」の中で、おのれの欲と戦っていた。

「山岳坊」の館を尋ねてきたものの、留守であったため上がり込んで待っていた、あれだけ高かった日も既に傾ぎ夕ぐれが近くなった頃である。


「厠を借りてまた出直そう」

素山はそう言うと厠に入った。その時、話し声がした。

「どうかしてるよあんたは。あんな小便臭い小娘よりあたしの方がずっと抱き心地がいいだろうにねぇ」

素山はあわてて厠の戸を閉めた。山岳坊はそのかすかな音にぴくりと耳を動かした。

「お前とはまた違う味があるってもんだ。おりょうはなにより(かしら)の娘だ、わしの女にすりゃあ子分が急に増える大所帯。お前も贅沢できるってものさ」

「うまいこと言って。あたしを捨てようったってそうはいかないよ。おもんさんにぞっこんの命知らずだって、仲間には何人もいるんだからねぇ」

「おお、こわいこわい」

(おや、やはり人の気配がする……)

山岳坊はにやりとした。

(ははあ、あの破戒僧か? ふふっ、丁度いい……)


 やがて奥から酒の用意をして女が出てきた。厠は廊下の奥にある、山岳坊の横を通らねばならない。ますます素山は出るに出られぬようになった。そして当然ながら男女の「むつみごと」が始まったのである。素山は心の中で念仏を唱えた「色即是空。空是即色……」


 坐禅では拭えぬ「生の欲」と素山は、厠の中でこうしてずっと戦っていたのである。やがて女の恍惚の声とともに山岳坊の欲も果てた。その男女に負けず、素山の額にもびっしりと汗がにじむ。ようやく二人の寝息が聞こえ始めた。素山はまるで猫か盗人のように足音を忍ばせて進んだ。「経行(きんひん)」の行が役に立った。館を後にし、背丈ほどある雄花の間の道を進む素山の頰はまだ少し熱かった。

 素山の気配が失せると、むくりと山岳坊は起き上がり笑い飛ばした。

「男女の交わりは自然の(ことわり)。泥中の蓮のたとえあり、女子も酒も不浄なものなどではない。欲からこそ『生』が生ずることに早く気づけよ『破戒僧』ははははっ」

もとより、既に素山には聞こえない。その頃、彼の目には暮れ始めた空に上るけぶりが見えた。風にのってうどんの汁の匂いが素山に届いた。


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