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鉄筆  作者: 黒瀬 新吉
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素山道立和尚

文政十年(一八二七年)のこの年、播磨の国には、西国の浪人が集まっていた。諸藩の財政が厳しくなる一方で、異国の蒸気船が現れ始めた。幕府は異国には弱腰であった、その分、いっそうの弾圧が諸藩に向けられた。脱藩して浪人になるしか道のないもの達が、東を当ても無く目指していた。その中途に播磨はある。病、飢餓、野党、毎日のように山道に死体が捨てられる。慧雪はその峠に出かけては、無縁仏の彼らを極楽へ導いていた。


  山にこだまするうぐいすの声、かすかに春ゼミの声


新蔵 「今日は特別に仏が多いな、経を唱える声もかすれてしまう、おや?」


  別の経文を唱える声


新蔵 「どこの僧であろうか? 何にしても心強い、よし、わしももう一体」


  新蔵の経が終わった、彼方から断末魔が響く


浪人 「ぎゃああああーっ!」


  声の方へ駆け出す新蔵、勢いあまり転ぶ


山岳坊 「やっと極楽へ行けるのに、大声上げるもんじゃないぜ」


  刀を振り、血のりを拭い終え、鞘に納めるのは見馴れぬ僧


新蔵 「お、お前、今何をした、その浪人を」

山岳坊 「ああ見ての通りだ。たった今極楽へ送ってやったのさ、ありがたいお経と一緒にな」

新蔵 「その刀はなんだ、それに金子まで、おのれは野党か」

山岳坊 「わしは、山岳坊。三途の川は身軽でないと渡れぬものだからな、そういうお主はどこの坊主だ? 在家の坊主だろう、こんな山道で会うなんて」

新蔵 「高乾院の慧雪。行の一つとしてここで無縁仏の供養をしている」

山岳坊 「なるほど、行き倒れの供養か、尊い事だな。だが、死に際の人を救う事といったいどちらが尊いのかな? 慧雪様よ」

新蔵 「殺生は禁じられている」

山岳坊 「それよそれ、この浪人はな、仕官しようと芸州の浅野藩を目指し、ひとりで長門からきたのよ、妻子を置いてな。次の吉備津藩の仕官も叶わず、路銀もそろそろ底をつき、それでも姫路まで行こうとしていたのさ。仕官のために、四苦の中でも筆頭の愛別離苦にとらわれておる、虫の息の中でもまだ仕官して国に戻ると言ってな。哀れで、おかしいだろ侍なんて。いいか、絶望の中でもだえ死んだ後、どんな尊い経をあげようと、この浪人は決して救われるものか。わしは夜盗上がりの在家坊主さ、だがわしが殺してやったものはみんな三途の川を上手に渡ってらあ、そこがほれ、あいつらとはちがうぜ」


  金目のものを引き剥がしている村人二人、刀を取り合う


村人一 「そりぁ、わしのだ。手ェ放せっ」

村人二 「ばかいうな、わしが見つけたんだぞ」


  村人一を、息を吹き返した浪人が切り捨てる、絶命。もうひとりはとびのく


村人二 「ぎゃっ、命ばかりはお助けを……」


  力つきうつ伏せに倒れる浪人、それを見ると、今度はその体に馬乗りになり、侍を何度も刀で突き刺す村人


村人二 「こいつめ、こいつめ」

山岳坊 「慧雪、あの三人に極楽行きの経が読めるか? あの浪人は極楽へ行けるのか、生きているうちに救ってやるのが、まことの仏の道ではないのか」


  沈黙、再び周囲の音が聞こえる


  寺の前で小僧が水を門前に打つ


慧明 「おお、気持ちのよい風じゃ、おや?慧雪が戻ってきた、ちと早いが、何かあったのか、うつむいたままだが」

新蔵 「和尚様、ちょうど良かった。折り入ってお尋ねしたい事があります」

慧明 「本堂で聞こう、茶など持って参れ」


  先程の小僧が裏山の井戸水で冷やした茶を盆にのせて来る。喉を鳴らし飲み干す新蔵。


慧明 「聞きたいこととは、なんぞや慧雪」

新蔵 「はい、先程のことです」


  新蔵の話しに相づちもせずじっと聞く慧明。しばらくの沈黙の後、静かに答える慧明。


慧明 「さていったいどちらが正しいのかということか、慧雪」

新蔵 「はい、どうにも私にはあの山岳坊の方が理にかなっているのでは、と思っておるのです。安らかな顔と醜く引きつった死に顔、数多く行倒れの死に様を見ていると、生あるうちに人を救うことの方が正しい気がしてなりません」

慧明 「おまえはまだ、自分が偉いと思っている様じゃのう……」

新蔵 「いえ、決してそのようなことは」

慧明 「お前は愚かな人々を浄土に導く偉い者にでもなったつもりかっ!」


 とっさに床に手をつく新蔵、沈黙が続く


新蔵 「和尚様、わたくしが間違っておりました」

慧明 「おのれが少しづつ、救われている事に速く気付けよ、慧雪いや新蔵よ……」   


 再び行に出かける慧雪の足音が遠ざかる。


慧明 「新八郎、これでよいのであろう」


 近づいて来た男に慧明が笑いかける


新八郎 「ああ、すまぬな」


 元中津の藩士「石坂新八郎」は「高乾院」の僧となっていた朋友「慧明」のもとへ、嫡男「新蔵」を預けていた。新蔵は播州への国替えに深く関わった父の話について、随分後年になって知ることとなる。

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