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鉄筆  作者: 黒瀬 新吉
10/14

樽風呂

昨夜の事だ、おりょうは予期せぬ素山の早い帰宅に心底驚いた。


「ば、梅雪さま……」

「おや? いつものようにわしを『素山』そうよばぬのか」

そう言いながら素山は、おりょうの手元を見た。

「こ、これは……、おりょう。お前という奴は!」

いきなりおりょうは頬をぶたれた。勝ち気なおりょうはその痛みをすぐさま素山に返した。

「何するのさ!」


「おまえ、ずっとそんなもので出汁(だし)を作っておったのか?」

おりょうにぶたれたその頬をさすりながら、鍋に入れられた山鳥の肉塊を素山は見た。

「迂闊だった、そう言えば寺で食べたうどんと違っておった……」

その声が聞こえでもしたのか、おりょうは打たれたお返しとばかりに、素山に意地悪そうにこう言った。

「ああ、そうだよ。私のうどんは美味かったろう?」

「こいつめ!」

素山はおりょうの頬をもう一度打つ、おりょうももちろんやり返した。素山は今度は諭すように静かに尋ねた。


「おりょう、どういうことかわかるか?」

知らなかったで済むことではない、しかし素山は落ち着いていた。

「もちろん、魚も鳥も食べてはいけない事くらい。私も知っている、だからこそ早いうちに出汁を作ってた。あれだけ山野を歩き続ける僧など、国中探したっているもんか!」

素山は、黙り込んだ。しかし、そのおりょうの言葉が、素山の心に新しい風を次々と吹き込んでいった。その風のひとつは、素山の迷いを吹き飛ばして行った。


「そうか、おりょう。私を思ってずっとな……」

ふと、素山はおりょうが目を腫らしているのに気づいた。ずっと言い出せなかったのに違いない。

「梅雪様、すぐ作り直します」

慣れぬ包丁で切った傷口もようやく塞がり、白い手が鍋に伸びた。

「おりょう、腹が減って辛抱できん。早う、うまいうどんを食わせてくれ」


「はい、梅雪様」

おりょうの目に、折角乾きかけた涙がまたにじんできた。


庵にはすでに戻る寺も無くなった梅雪と、おりょうの二人が向かい合っていた。

「梅雪様、風呂があります」

その風呂は酒樽に湯を張ったものだが、狭い庵には丁度良かった。染み付いた酒の匂いが素山を酔わせ始めた。洗いものを終えたおりょうが出てきて、素山をからかって言った。

「和尚様、お背中お流ししましょうか?」


「い、いや、それには及ばぬ。もう上がるところだ。そうだおりょう、残り湯で良ければ。お前も浸かって帰るといい」

そう言うと素山は、頭から冷水をかけ小さな声で念仏を唱えた。

「色即是空、空是即色……」


今日、おりょうが素山のもとに来たのは、いよいよ「池中屋」を襲う日が決まったからだ。さすがに押し込み後に素山の元に来るわけには行かない。それに「池中屋」の主人は何かとおりょうを気遣ってくれる。おりょうは、マサが用心棒以外に刀を向けた時には、体を投げ出しても止める覚悟さえもっていた。

「梅雪様、りょうは夜盗の娘、あの『山岳坊』の仲間なのです……」


酒樽の風呂はおりょうを浄めるかのように、優しくその肌を温めていった。

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