序の段
「九州は豊前、中津の藩士。姓は石坂と号す……」
また始まったと、私は思った。祖父の茂雄の自慢のひとつが「梅翁の碑」だ。その長い碑文は漢文で書かれていて、祖父は私がちいさい頃から、その内容を何度も聞かせるのだ。私はそれよりも、祖父の話す豊臣秀吉とか、壇ノ浦の合戦の方が、わくわくしていた。第一そんな石碑が実際にあるとは、私はまったく思っていなかった。
私が偶然それを見つけたのは、祖父が他界し随分経ってのことだ。私はあちこちの山や川を歩き回り、年甲斐も無く捕虫網を振り回していた。私は昆虫学者にでもなれそうなくらい沢山の、ちっぽけな昆虫を丁寧に標本箱にちりばめていた。私はある山道に入った。その山道は他とはすこし違っていた。丁寧に道の夏草が刈ってあった。
墓碑は、黒瀬川や小田山が見えるように建てられてあった。碑文は長年の風雪にもよく耐えていたが、読めない部分もある。碑の周りは時折訪れる人がいるのだろう。大きな草は生えてはいない。明治になって建てられたのだから百年はもうとっくに過ぎている。おそらく何らかの縁のある人に大切にされているのだろう。私は嬉しくなった。祖父の言っていた通りだったのだ。碑文を書き留めて私は帰宅すると、早速その碑について調べはじめた。碑にはこう刻んである。
先生之祖世豊前中津藩士、姓石坂氏考諱新八郎、毋諱某中島氏、新八郎退隠播州明石遂娶中嶋長左衛門、家有二男一女、女仲適某、嫡新蔵乃先生也、二男栄治襲中嶋氏 注「諱」は本名
「先生の租は豊前中津(九州、大分県)の藩士、姓は石坂氏、父は新八郎、毋は中島氏。新八郎は播州明石(兵庫県、明石市)に移り、中嶋長佐衛門の娘を娶り、二男一女をもうける。長女、長男新蔵(これが先生である)、二男栄治は中嶋氏を相続した。」
私は記憶を掘り起こした。祖父が繰り返し彼に話した下りはこの序文だった。祖父は藩士の身分だった新八郎が、武士を捨てて明石に脱藩したと言った。
「大きな戦でえっと(※おおぜいの)人を切ったらしい。それを悔やんで、明石で侍を捨てたんじゃあ。追っ手が怖かったんかのう…」
かつては武家は一家に一人は仏門に入り、その家の繁栄を祈るという習わしもあった。その役目が新蔵だったのかもしれない。碑は新蔵の出家についてこう続く。
先生之享和元年辛酉夏生、幼薙髪参禅住当州完戸高乾院、素山道立和尚是也、
年及三十七歳還俗称中島禎二号梅葊
注 「葊」は「庵」の旧字
「先生は享和元年(一八〇一年)の夏に産まれた。幼い頃から播州の禅寺『高乾院』に預けられ、やがて素山道立和尚と呼ばれていた。三十七歳のとき還俗し、以来中島禎二、『梅葊』と号した。」
私は『素山道立和尚』というのが新蔵の生活、生き方を的確に表していると思った。還俗したのは黒瀬に来てからのことだ。そのきっかけは不明だ。
文政十二年巳丑夏来寓芸州鳬 郡南方、徒居菅田村亡幾亦徐髪法諱善友、娶古家生二男一女、長源太郎二十五歳、次僧徹照二十歳、女千勢十五歳、先生巧鉄筆授徒三十余年、明治二已巳夏病没実四月廿九日也、
注 「寓」は「寄」の旧字、「鳬」は「鴨」。賀茂郡は現在では東広島市
「文政十二年(一八二九年)の夏、芸州賀茂郡南方に立寄り (八年後、一八三七年に還俗する) 、その後菅田村に移り六十九歳の生涯を終えた。年は明確ではないが、再び先生は僧になったと善友は言う。菅田村に来て一八四二年(四十二歳) 私塾をひらいた (『養成館』と伝えられる) 。旧家から妻を娶り、二男一女をもうけた。先生は三十年以上に渡って塾生に『鉄筆』を授けたが、病によりその生涯を終えた。没年は明治二年(一八六九年)四月二十九日、長男源太郎は二十五歳、次男は僧で徹照といい、二十歳、娘の千勢は十五歳であった。
新蔵は文政も終わる、一八二九年にこの町に来た。もうじき三十になる頃、身分は僧としてだ。芸州、南方の「慶雲寺」に身を寄せた。そこは「禅寺」ではなく「浄土真宗」の寺である。何故宗派の違う寺に入ったのかも不明だ。しかし新蔵がその寺に入る必要のあったことは確かである。新蔵は文化、文政期を明石で過ごしたのか、それとも各地を放浪したのか、それは不明だった。余談だが私の毋も「慶雲寺」にはよく行っていた。私の母と父はいとこ夫婦、ともに中島竹次の孫だ。毋に付いて何度か「慶雲寺」には行ったことがあったが。そんな因縁がある寺とは思っていなかった。さて新蔵は南方で説法や詩歌などを学びつつ、南方付近の青年に教授しながら、八年後還俗し、中島禎二(梅葊)と名乗り、菅田村に『養成館』を一八四二年(四十二歳の時)開く、その教授方法を表現した『鉄筆』とは何だろうか?そして最大の疑問は再び出家をしたということだ。僧に戻る必要があったのは何故だろうか?再出家の年は明らかではないが、娘の歳を考えると早くて五十半ばであろう。真宗の僧の妻帯は早くからあったが、これは新蔵(中島禎二)にとっては再出家である。よほどのことでもあったのだろうと私は想像した。
先生臨終賦詩曰、六十九年一樹梅、痩姿枯朽入悲哉、人間栄辱唯如夢、露命随風帰去来、門人相謀建石請銘千余々銘之曰、租出中津、考妣在播、弗空二新、古家維伝、留顕菅田、祀有子孫、源絢夫大空渓撰、門人梅雪原素行書之也、
「先生はその臨終に詩を残した。『私の六十九年は、一本の梅のようなものだ。その姿はやがて朽ち果てていく、なんと空しいものだろうか、人の栄辱もはかない夢のようなものだ。この露のような命も風の吹くまま、今まさに帰っていこう』先生の門人たちは相談をして、先生の碑を建立しようと呼びかけた。それに応じて千を越える銘が集まった。『租出中津、考妣在播、弗空二新、古家維伝、留顕菅田、祀有子孫』源絢夫大空渓が撰び、門人梅雪の書いたのがこの碑である」
私はこの詩については、祖父が言っていた事を覚えていた。
「ソガイに、たいした詩とは思えんのう。秀吉の辞世の句のほうがええで」
私もそう思えた、それにどれだけの栄と辱を『梅葊(梅翁)』は経験したのだろうか?
この句には何か深い意味があるような気がする。
母方のお寺さんが慶雲寺である。母を何度か連れて行ったことがある。
「今度、久し振りに慶雲寺にいってみよう」
私はそう思った。
以上は史実である。ただこれ以降は私の想像した『梅葊』の物語である。
基本は1話完結ですが、話は多少時間を前後した場面になります。更新は不定期です。私の母方の先祖の話です。