海宴
朝を告げる野鶏と孔雀の声、サチコはクイーンサイズのダブルベッドに独り目覚めた。
枕もとの置時計は五時を回っている。
リュウが側らに無く、解放感と共に、幾ばくの寂しさを感じた。
昨夜は最後までハッキリしており、パーティ終了後、部屋までリュウとダンスの衣装そのままのヨーコが送って来たのを憶えている。
(……あれから、二人は如何なったのかしら?)
…… ……
早朝の独り散歩。
朝靄の棚引く小径を歩むと、微かな風のざわめきと小鳥の囀りが寄せては返す波のように聴こえる。
サチコは見る物、聴く物の全てに命の躍動を感じ、歩みを止めた。
(花や樹々だけでなく、石や岩までが語りかけてくる!)
「今朝は独りかね?」
豹紋猫のソフィストが足元に寄り添うように居た。
「気の向くままに、自由で解放された驚異の世界を満喫しているわ」
サチコは猫との会話をさり気なく受け入れている。
「独りで寂しそうだにゃ」
「そう言うソフィも独りじゃなくって?」
「ふんにゃ。誇り高き猫族は俗に塗れないさ」
「ダルビーやアレックスは?」
「ノー天気犬や、お喋りオームと同じにして欲しくにゃあね。俺様は孤独じゃなくて孤高なんよ」
ソフィストは得意そうに喉を鳴らし、尻尾を直立させて、くねくねと揺らめかした。
前方から黒い影が歩んで来る。
「シット!噂をすれば影、ダルビーにアレックスだにゃ」
犬の周りを灰色のオウムが連れ添うように飛び跳ねている。
ダルビーは目の前で足を止めるや、「ソフィ!今日も俺らを出し抜いて、サチコを連れまわすつもりだわう!」と、吠えた。
「出し抜く?不案内のサチをガイドしてるにゃ!半人半獣の助平ワン公はがさつで参っちゃうぜ」
「半人半獣って?」サチコが尋ねる。
「満月の夜だけ一時、マッチョ人間に変身する半人ドッグだわん」ダルビーは胸を張った。
(……此処は何でも有りだわ)
「キングダムの事なら、万事お任せヲ!三次元のナビゲーションは私の十八番だっぺヨ」お喋りヨームがふわりとサチコの肩に止まった。
小竜の営むコロニーを抜け、建ち並ぶ蟻塚の跡なる二メートルばかりの白い塔群を巡り、五人(?)が辿り着いたのは、山裾の岩陰で、巨大羊歯に包まれた、ネオンテトラ魚の群れが煌く清泉と、小屋付きのタイル張り野天風呂だった。
鮮やかなブーゲンビリアと欄の花が温泉の背後に聳える岩肌を埋め尽くし、滾々と溢れ出る掛け流しの湯質は、天然の最高度ラジウム泉だ。
風呂番と称する磐のように巨大な銀色の象亀が、数匹の棒を持った小竜を従え、ゆったりと出迎えた。
「ようこそ、命の泉に!此処はハナの温泉療養所で、免疫を賦活する不老の湯。ご利用は一人に二匹ですな」
「あと、一羽だっぺ!トロ爺が!」アレックスが苛々したかに怒鳴る。
「風呂番を生き甲斐にしてるドン爺と、お節介アレックスは、何時もこんな調子で、仲が良いんだ」と、ソフィストが小声で囁いた。
ドン亀はサチコを見つめ、慇懃に礼を取る。
「ようこそ(ボンヴェノン)、プリンセス。入浴作法として、先に垢喰いネオンテトラの泉に入って、群がる小魚たちに体の汚れを一掃してもらってから入浴して下さい。
タオル等が小屋に備えてありますので、良ければ、小竜たちに申し付けて下さい」
(プリンセス?)
場外れの台詞だが、サチコは悠久の時をマイペースに歩むガラパゴス産の変異象亀に好感を抱いた。
サチコはゆったりと湯浴みしていた。
心身の汚れが流れ去り、大地の新鮮な強いエネルギーが染み入ってくる。
爽やかな微風、心地良い香り、耳を擽る小鳥の囀り、そして、椰子の葉を縫って微かに耳を打つ潮騒の音。
煩わしい出来事が、遥か遠く夢のように思えてくる。
そこには、深い安らぎがあった。
(……幸せって、単純なのかも)
…… ……
二日目のトレーニング・ダイヴの予定はカマドマの恋の伝説で知られる船浮湾において、ボートからの自由ダイヴだ。
空を飛ぶアレックスの指示で、沈船群を漁礁にしているポイントにアンカーすると、マッシーは各自に今日のバディを指定した。
リュウのバディはレイト、サチコにはヨーコとなった。
雲一つ無い晴天、海水の透明度は素晴らしく、船上から水深四十メートルを泳ぐ深海鮫が目視できる。
マッシーが海底の廃船群を指し示した。
「今日はポストカードウエザー。最高のダイヴ日和で、沈船クルーズには最高!
ボートにはセーバーとして、ハナと私が交互に控えていますので、グッラック!」
果てし無く透明な海中を飛翔するが如く潜水半時、浮上したのはリュウとレイトのペア。
「エア切れ?初心者にしても、早すぎねえ?」船上のマッシーが早い浮上に目を丸くする。
レイトがリュウに顎を杓った。
「それが逆さ!息が長くてエアタンクが要らないって。だから、身軽なフリーダイヴに切り替えることにした」
リュウの声が弾んだ。「深く潜っても、ずっと息継ぎしなくても、全然苦しく無い!この僕が、まるで水棲動物に成ってる!」
次いで浮上したヨーコとバディを組んでいたサチコも、リュウと同様に自らの息の長さと体調の変異に驚いている。
「不思議だわ!水中で自然に自在に泳げちゃうの。それに、海亀やお魚さんたちと意思の疎通もできるわ」
「DNAが水生動物にスイッチオンしたのよ!」船上のハナが得意満面に親指を立てた。
…… ……
午前のダイヴを終えた一行に、マッシーは予定変更を告げる。
「鳥さん(ジョアンナ)の情報では、海精の大パーテイがある。
ランチ後は網取湾に移動し、ウダラの饗宴に参加しよう」
ボートが船浮からサバ崎を越え、網取湾のウダラ河口に入ると、一行は白い海鳥の飛び交う浮世離れした美しい風景と、夥しいイルカの群泳に歓声を上げた。
アンカーするのは、濃緑の藻ずく原に屹立する古代神殿。
青海亀とマンタが踊り、ゼロ戦が沈む、乱立の円柱群の間を、イルカの群れが一行を誘うかに嬉々として舞い泳ぐ。
ジャックとメアリーが奇声と共に水着を脱ぎ捨て、シュノーケルとフィンのみで飛び込むのを皮きりに、全員が全裸で次々と入水し、イルカと遊泳する。
それは快楽の宴。
人魚と化した人と喜びのイルカは、果てしなく透明な海中を絡み合い、縺れ合い、擦れ違い、意思を交流し、恍惚と歓喜の中に遊舞した。
…… ……
銀次郎と交代で厨房に入ったアンジェロのお披露目夕食パーテイ。
絶品の鬼アザミ(アーティチョーク)と西表自生の自然薯に真っ赤なベニテング茸を用いたパスタ料理。
キングダムは昼間のドルフィン・ダイヴの感動と興奮を分かち合っている。
レイトとサチコは盛り上がる皆と離れ、ベランダに寄り添っていた。
「海底神殿での、イルカとの会話と触れ合いは堪えられなかった。ホント、最高に心地良く夢のように素敵だったわ」
「裸でイルカと戯れるママは、人魚か水の妖精みたいに美しく輝いてた」
サチコは顔を赤らめた。
「心にへり付いていた汚物が全て溶けて流れたって感じなの。肌に触れる潮水の流れがあんなに心地良いなんて!恥も外聞も無く、もう完全にイッちゃってたわ」
レイトはサチコを見つめている。
「ママとリュウ先生には、この際に浮世の面どい柵を全て流しさって、本当に幸せになって欲しいんです」
盃を重ね、サチコは鬱積している思いを吐き出した。
真一の事故死以来ずっと蟠っていたリュウとの確執から、寂しさのあまり身を任せた流行作家の中田康との不倫。
そして、中田の週刊誌への下品で卑猥な暴露中傷記事から、巡りめぐって、リュウの不適切な交友関係のリークに至るまでの顛末を話す。
「チープで下劣な男とのチープな浮気。私の弱さと愚かさから飛び火して、リュウさんには取り返しのつかない酷い目に会わしちゃったわ」
サチコの瞳から涙が溢れ出た。
レイトもサチコに連られるかに、自らのトラウマを告白する。
大学卒業間近に沖縄にドロップ・アウトした事情だ。
中学時に母親を亡くし、父の大蔵が後添えに迎えた風俗上がりの美和子に対する徹底した反抗。
美和子は、思春期で欲求盛りの衝動的な少年の篭絡を謀る。
大蔵の出張の夜、レイトを誘惑して肉体関係を結び、巧みな愛の技術で反抗を収束させたのだ。
秘密裏のセクシャルな愛憎関係は、紆余曲折を経て大学四年までの長きに亘るのだが、冷や水をかけたのは美和子の妊娠だった。
「僕の子供だって。……妊娠しない体質って言うのを信じてたんです」レイトは苦渋の面持ちで首を振った。
「夢ちゃんが、レイ君の子供?でも、……本当かしら?いざとなると、女って平気で嘘をつくのよ」
「親父は広島の被爆者で無精子症なんです」
「えっ!じゃあ、レイ君は……?」
「遺伝的な父に心当たりが無いことは無いんです……」
レイトはマッシーやヨーコたちと盛り上がるリュウを見つめている。
「まさか……?」
「願望かも」レイトは微笑んだ。
「レイ君は美和子さんを如何思っているの?」
レイトは身震いする。
「情欲と愛憎が融合して、歳の離れた恋人言うか、緩やかな友情関係みたいでした。でも今は、自らの所業が空恐ろしくて怖いんです」
サチコは手を添えた。
「……愛し合うって素敵なことよ。……だって、人生で良いものって、それぐらいしか無いんですもの」
「ショックだったのは、僕と小母さん(美和子)とのことを親父が全て承知の上だったことなんです」
「……以後、大蔵さんとは?」
「面目なくて顔を会わせられないんです。時折、小母さんから連絡があるんで、一応の消息は知っているんですが……」
「連絡って?」
「……誰も知らない所で、ユメちゃんと僕と三人で暮らしたいって」
苦渋の告白は、やりきれない呻きのようだ。
サチコは、不意に湧き上がる強い感情に慄いた。それはレイトを抱きしめたいと言う思いだ。
「ハグしても良いかしら?レイ君が愛しくて堪らないの。いえ、変な意味じゃなくて、レイ君と思いを共有したいの」
宴のお開き後も、ベランダから部屋に、レイトとサチコは果てるともなく話し続け喋り続けた。