流離(さすらい)
古代支那の哲人は「生きることは感ずること」と、言う。
なら、感じること、とは?
生理学者なら、「感覚受容器から神経線維を伝ってくる刺激を脳が解析すること」と、でも言うのだろう。
三段論法で言えば、「生きるのは、脳が刺激を解析すること」と、なる。つまり、人生は脳の力次第、脳力が変われば異なる世界が現れる。
病めるもの、悩めるもの、弱きものは幸いなり。
虐げられしもの、犠牲になるもの、苦しむもの、悲しむもの、貧しきものも幸いなり。
それは、主の御手に在るからである。
自由なもの、楽しむもの、喜ぶものは幸いなり。
豊かなもの、破るもの、安らぐもの、怠惰なもの、笑うもの、そして和するものも幸いなり。
それは、ヨナの癒せる地だからである。
ヨナ外伝
アメリカから日本へ返還されてから一年。
沖縄は米軍統治の雰囲気から抜け切れず、日米琉が混沌とした海流に、浮き草の如く漂っていた。
「二時二十分の与那国島行きを予約している原田です」
石垣島南西空港のチケット・カウンター嬢は、田舎空港には場違いな、
見るからにスノッビーな熟年カップルを見上げた。
男はパナマ帽を被り、グリーンのTシャツ、白麻のジャケットの上下に
デッキシューズ。
長身の女は鍔広の帽子にパールのネックレス、鮮やかな花柄のタンクトップと
ロングの巻きスカート、それに素足のサンダル・シューズと、南国リゾートを
地で行く装いだ。
「フルネームを御願いできますか?」
「原田隆に幸子」と、女が答えた。
「ハラダ・リュウさまにサチコさま……。少々お待ち下さい」
カウンター嬢は予約表を捲っていたが、「リコンファームされていますか?」と、首を傾げる。
「確か、五日前にしているわ」
「あ…はい。五日前、七月三日にリコンファームされていますけど、……与那国島行きの御予約は今日じゃなくて、明後日の十四時二十分になっておりますが」
「明後日だってえ?」男の声が跳ね上がった。
「はい、そうなっていますが……」
「一体、何が如何なっているのかしら?……狐に鼻を抓まれているみたい」
暫し、二人はまさかの予約違いに呆然としていた。
気を取り直すように女が尋ねた。
「……今日中に行きたいのだけど、何とかならないかしら?」
「……与那国行き以外には空きがあるのですが、今日の十四時二十分は
満杯で、最終フライトになりますので……」
男が目敏く小さい別枠の航空掲示板を指差した。
「十五時二十分のヨナのクニ行きってあるけど、あれは?」
「え!あれですか?……あれはその、隔週一のヨナのクニ行きの特殊便で、
一般のとは…ちょっと異なるので……」娘は不意を衝かれたかにしどろもどろになった。
「与那国行きじゃないってこと?」
「ヨナグニは、一応ヨナグニなのですけど……」
「ヨナのクニだろうが、貨物置き場だろうが、行けるんなら、四の五のとは言わんがな……」
カウンター嬢は、困惑の体の二人を大きな瞳で見定めるように見ていたが、意を決したかに「ヨナのクニ行きは特別な専用便で、一般の方はお受け出来ないのですが、駄目元で乗れないか、頼んでみましょうか?……お二人なら、何とかなるかもしれません」と、申し出た。
「有り難い。是非お願いする!」
二人は藁をも縋る面持ちだ。
「機長が伯父さんなんです」
歳の頃は二十歳前後、小麦色の肌に白い歯が爽やかだ。
粘り強い交渉の末、二人の搭乗が何とか許可されることになった。
「明後日の与那国島行きフライトはキャンセルしておきます。三時二十分の特別ヨナのクニ行きチケットです。
無理押しの割り込みなので、御二人が隣席で無いのは御了承下さい」
「何はともあれ、良かった。……ヨナのクニね」
男はホッと息を吐いた。
「此方では、ドゥナンって言うんですよ」
「天候が安定してないようだけど、フライトは大丈夫かな?」
「天候が…?」娘は晴天の屋外を窺う。
「いや、西表から来る途中に、突然の大荒れだったんでね」
男は乗船した西表島から石垣島への連絡船が、突如発生した紫色の濃霧に包まれ、それから、雷雨と突風が吹き荒れ、数度の雷撃と波間に浮かぶ木の葉のように翻弄されたのを話した。
娘は目を見張った。
「紫の濃い霧に雷雨の嵐ですって?しかもスポットで?
信じられない!それって、ニラヤーだわ。伝説のハイドゥナンの門ですよ!」
「ハイドゥナン?ニラヤー?」
「沖縄人憧れの常世の国なんです!ニラヤーは私たち与那国人でも滅多に無く、特別に特別な人しか遭遇できないんです!」
「特別な人って……?」
「選ばれたヨナなんです!」
興奮の態の娘を、男は怪訝な面持ちでまじまじと見ていたが、
「ま、行きは良い良いで、帰りは怖いってね」と、肩を竦めた。
我に返った娘が、恥ずかしそうに
「御帰りの便は御予約されているんですか?」と、尋ねた。
「否。当て所無い旅なんでね」
「カッコいい!ドゥナンでは、どちらに御泊りですか?」娘は興味津々だ。
「着いてから、適当に決めようと思ってるんよ」
「え?ドゥナンでは、二十日から六十年に一度の降竜祭が始まるので、今から宿を取るのは難しいと思いますが」
「祭りがあるって、聞いてはいたけど……」
「沖縄全域から日本や外国からも集まるんです。……親戚の宿泊施設があるので、問い合わせてみましょうか? 非常用に予備の部屋が在るはずです」
「それは助かる。親切ついでに頼みたい」
「御宿泊の期間は?」
「取りあえず、一週間」女が割って入った。
「ロングですね…」
娘はちょっと考える風だったが、電話をかけ、宿泊料金を確かめてから、予約をする。
「空港に迎えが来ます。キビ刈りの季節労働者が主な宿で、立派とは言えないんですけど、愛花の紹介と言えば、何かと便宜をはかってくれるはずです」
と、自らの名刺に民宿と電話番号を走り書きにして手渡した。
「いやあ、助かりました。色々と有難う」男が感謝を露に手を差し出した。
娘は頬を染めた。
「良い航海を(ボン・ボヤージュ)!」
…… ……
「如何なることかと思ったが、救う神ありだな」
「隆さん、プレイおやじの病が疼いているんじゃなくって?
目が、ヤニ下がっていたわよう」待合所に歩みながら幸子がからかう。
「いいねえ。爽やかで、初々しい」
チケット・カウンターを振り向くリュウに、娘が頭を下げる。
「アプローチしてらっしゃったら。私達、時間だけはタップリ有るんだから」
「冗談はよしこさん!若い御嬢さんにとって五十おやじなんて目じゃないさ」
「そうかしら?今時の娘は歳なんか気にしないし、アイカ嬢も満更でもないんじゃない?」
「剣呑!もう、懲り懲りだって」
沖縄に発つ前の数ヶ月に亘る不愉快で憂鬱な状況が過ぎり、リュウは首を竦めた。
空港を一望できる待合所の椅子に座ると、リュウは買い求めた週刊誌を捲り始める。
「私達の、まだ載っている?」サチコは足を組み、シガレットの煙を燻らした。
「大分小さくなったがね。……地に落ちた理想のカップル。醜聞教授夫婦の逃避行って、ルビまで振ってる。
トレンディ作家による、人気熟女エッセイストとの赤裸々な不倫暴露から、その夫であるプレイボーイ教授の入り乱れた性交友関係とくれば、面白過ぎて格好なネタだわな」
「全く!逃げ出したのは正解だったわ」サチコがうんざりしたように首を振った。
「過大評価も良いとこ!僕は催眠術悪用のトンでもな犯罪者紛いの心理学教授で、セックス依存症の絶倫モンスターと来たぜ。
ホント、サチがこの沖縄逃避行を考えつかなかったら思うと、ゾッとするよ」
「違うって!私じゃなくて、この旅はレイ君のアイデアよう。
週刊誌に出てから毎日のように西表から電話をくれて、行程も概ね彼の案よ」
リュウは雑誌を閉じて大きく息を吐いた。
「……レイトはまるで息子だな。何から何まで世話になりっ放しだ」
三須玲人は、十五年前、交通事故で亡くなった二人の一粒種の真一の幼友達であり、伊豆の山林王と呼ばれる莫大な不動産所有者で名高い三須大蔵の息子である。
原田家と三須家は伊豆の修善寺における代々の隣家通しの関係であり、大蔵と隆が幼馴染の親友で同期と言うこともあって、気の置けない家族同様の極親しい付き合いだった。
玲人にとって、野人で田舎者むき出しの父の大蔵に比べて、大学の教員で、洗練された都会的紳士のリュウは憧れであり、亡くなった母の後添えに大蔵が連れ込んだ風俗上がりの若い後妻との軋轢もあって、サチコを母親のように慕っていた。
高校卒業後、玲人はリュウが教鞭をとる慶京大学の心理学部に入学するのだが、六年前の卒業迫る十二月、突然退学を申し出る。
それが何と、南国沖縄で陶芸家を志すと告げたのだ。
「……何があったんか、卒業間際に遠く沖縄で、しかも畑違いの陶芸とは
ビックリしたっけな。それが、何時の間にか離島の西表島でガラス陶芸の工房をやってるって言うんだから…」
「彼、何かと言っていたわ。貴方、関心が無かったのよ」
「ま、言われて見れば、西表、今度の与那国行きと言い、サチの企画にしちゃあ気が利いてるわな」
サチコは吸殻を灰皿に置き、遠くを見るように呟いた。
「ホント、西表は夢の世界だった……」