そうだ、なかったことにしよう
演奏は、あっけなく終わった。
その瞬間、僕は我に帰る。
彼女は余韻に浸るように、目をゆっくりと閉じた。
彼女の演奏に聞き惚れていた人たちは、いつの間にかどこかに消えていた。
なんということだ、彼女の演奏を最後まで聞かないなんて、どうかしてる。
と、憤慨しかけたが、なんとなくみんなが消えてしまった理由は分かったので、怒るに怒れなかった。
僕みたいにみんな疲れてしまったんだろう。
彼女の創作愛は、濃くて、重たい。
そう思った。
さて、どうしたものか……。
とりあえず、僕は彼女が目を開くのを待つことにした。
なんのためかって?
決まってるじゃないか、お金を渡すのだよ。
彼女はギターしか所持していない。
ギターケースもあるにはあるのだが、彼女の後方、しかもふたが閉じられて置かれているので、どこにお金を入れればいいのか分からなかったのだ。
ストリートミュージシャンとしては致命的なミスじゃないか。
いや、もしかしたら私の崇高な創作活動にお金は要らんぜ、みたいな感じなのかな。
それだったらお金を手渡しするというのは不粋だ。
どうしようか……。
僕としてはお金を渡していやぁ、演奏素晴らしいですね、みたいな会話に発展して、その後あわよくばメアドでも交換出来ぬものかと画策していたのだが……。
しかも今思い出した。
僕の財布には今、札が入っていない。
10円玉を差し出していい演奏でしたね、と微笑んだところで、胡散臭いというかかっこつかないだろう。
いやいや、そもそもこんなおっさんが話しかける時点で怪しいか。
なら別に気にすることはない。
もともと怪しいのだから、何をしたって怪しくなるに決まってる。
それならいっそ一番やりたいことをしてやろうじゃないか。
あ、ちょうど彼女が目を開けたぞ。
「あ、すみません、あの……」
「何か?」
彼女が僕を瞳に写す。
そして、目深に被っていたフードをとった。
「あの、もしよかったら、僕と結婚してください。」
「ha?」
あ
やってしまった。
痛いほどの静寂が降りる。
すみません妄言です戯れ言です忘れてくださいごめんなさいまじごめんなさいいいいい。
ぶわっと汗が溢れる。
やばいやばい怪しいとかそういうレベルじゃないよ。
これもう通報されるよ!
そうなったら…………あぁ仕事が遅れる、山口に詰られる。
いやねあのね、本当は演奏の話から切り出すつもりだったんだよ?
本当にそのつもりだったんだ。
でもまさか、このタイミングでフードをとるとは思わなかった。
フードのしたの顔は、予想通り、美少女だった。
予想以上の、美少女だった。
フードの中に隠されていた髪がさらりと外に流れて、顔のまわりをきらきらと縁取る。
ほどほどなロングヘアは、まさに僕の好みだった。
演奏の最中にはするどい光を放っていた目が、瞬時にとろりと垂れて、ほわんとしたたれ目になったのにも心を奪われた。
全体的に幼さが残っていて、首もとに引っかけられたヘッドホンも、可愛らしさを助長していた。
演奏するときの彼女は美人だと思った。
確かに今も美人だし美少女だが、それ以上に可愛い。
それはもうまさに天使の如く。
いやもうすでに君は天使です。
そんな感じで昂ってしまった僕こと馬鹿野郎は、先程の愚行に及んだのだった。
はいもう終わった。
僕の恋愛は始まる前から終わった。
彼女の首にかかるヘッドホンになりたい。
いや何言ってんだ僕。
とにかく何か言い訳しないと。
「あ、あのですね、その、」
ダメだ。
動揺しすぎて声が震える。
舌がもつれる。
怖くて彼女の顔も見れなかった。
うつむいたまま必死に考えを巡らせる。
おいちゃんと働け僕の脳ミソ。
紙の上ならばどんな台詞でもポンポンわいてくるのになんでリアルじゃうまくいかない!
まずは、とにかく……。
なかったことにしよう!
「すみませんでした忘れてください」
そして僕は全力で逃げた。