第一話《エアスト》
ψ Centauri Ⅰ
この街には、いつか来たことがあった。人通りが多すぎて、迷子になりそうになったのをよく覚えている。
けれどその記憶も嘘だったかのように、通りは人が少なく、酷く寂れていた。
しかも数少ない通行人は皆、独特で統一感の無い服を纏った旅人達。街人らしき姿はどこにも見当たらなかった。
しかし道の至る所にある酒場は繁盛しているようで、酒の匂いと喧騒を通りに振り撒いていた。
それは、昼とも夜ともつかない、奇妙な刻のこと。
人々が寝静まる、けれど、太陽が変わらず輝く頃。
レーヴェは人気の無い通りを、鳩舎を探し歩いていた。
『賞金首現る。外出時には警戒を』
よく見れば、街はそんな内容の広告が張り巡らされていた。
街人は広告にある賞金首を警戒し、血気盛んな旅人は賞金首を狩るためにこの街に出向いた。それがこの異様な静けさの原因だろう。
しかしレーヴェは賞金首を狩るためにこの街に来た訳でもないし、勿論狩る気もない。
彼は、故郷に帰るための通過点として、そして故郷で待つ兄に手紙を届けるため、この街を訪れていたのだった。
しかし、手紙の配達を行う施設、鳩舎の場所が全く分からない。
誰かに尋ねるにしても、街人は見当たらず、こんな時間に旅人の多い酒場に入るのも、何だか気が引けた。しかも通りを歩く旅人達は、彼の姿を怪訝そうに一瞥してから通り過ぎる。
よく分からないが、軽々と道を尋ねられないことは確かだった。
困惑し、右往左往していたまさにその時、
「こんな時間に、どうされましたかな?」
突然、背後から嗄れた男の声が響いた。
レーヴェは弾かれたように振り返る。その顔に浮かぶのは、緊張と驚愕。
男は、すらりと伸びた痩躯に仕立ての良さそうな背広を着込み、灰色の髪を後ろに撫でつけた、まさに中年の紳士、という姿をしていた。
しかし男が放つのは人間の気配ではなく、どこか獣のような気配。それに加え、黒光りする革靴は些細な足音さえ立てない。それらがレーヴェを本能的に警戒させていた。
「どうかされましたかな?」
難しい表情になったレーヴェを見兼ねてか、男は柔らかく微笑んだ。それと同時に、異様な気配が溶けるように消えていく。
そして、レーヴェの持つ手紙に視線を落とすと、
「鳩舎をお探しかな?宜しければ、案内しましょう」
そう言って、もう一度上品に微笑んだ。
「へ……?」
レーヴェは不意をつかれたようにたじろぐ。体の緊張が解かれて、がたりと肩が落ちた。
「とは言っても、私の家が鳩舎なんですがね」
男は自嘲するように肩を竦めると、呆然とするレーヴェには構わず、通りを歩き出す。革靴が煉瓦を踏む音が、辺りに軽く響いた。
「遠慮なさらず。私は家に帰るだけなんでね」
男は振り返り、ついてくるよう促した。
そしてまた踵を返し、さっさと歩いていく。
レーヴェは少し迷ってから、離れていく男の背を小走りで追いかけ、肩を並ばせた。
「君は旅人かね?」
しばらく歩いたところで、男は簡単な問いを投げかけた。
「その髪の色は、この街には珍しいのでね」
言いながら、レーヴェの漆黒の髪を興味深そうに見つめる。
一方、レーヴェは男の穏やかなオリーブ色の瞳を横目で見つめていた。憂いを帯びたその瞳からは、微かな表情さえ窺えない。
「そうですよ」
だから、一言だけ答えた。
「やはりそうでしたか。ならば通りを歩く旅人の態度も納得がいきますな」
「そういえば、さっきから旅人達に怪訝な顔をされるのですが、一体何なんですか?」
レーヴェはわざとらしく、きょろきょろと辺りを見回してみた。案の定、旅人達は怪訝な表情でこちらを見ていて、目が合うといかにも自然な動作で視線を外す。
レーヴェは男に向き直って、肩を竦めて見せた。すると男は静かに笑って口を開く。
「それは君が黒髪だからだろう」
「色が問題なら、旅人はほとんど黒い外套を纏っていますよ?」
「問題は年齢なのだよ」
「年齢?」
男の予想外の言葉に、レーヴェは首を傾げた。確かに未成年の旅人は珍しいが、それだけでは腑に落ちない。
一方、男は難しい表情を浮かべたレーヴェを、さも面白そうに見つめていた。その瞳に一瞬だけ、挑戦的な光が灯る。
やがて道が開けて、小さな広場に出た。
そこは古びた噴水と、それを囲む花壇だけが置かれた、質素な野外休憩所のような所だった。
「年齢は十五、十六程。夜色の外套を纏った旅人が、もうじき正式に賞金首となる、という情報がありましてな。君の髪は夜色に限りなく近い。だから旅人達も知らずの内に警戒しているのでしょうな。さて、着いたようですぞ」
男が歩を止めた。それに続いてレーヴェも歩を止め、顔を上げる。
そこにあったのは、大きいとも小さいともとれない木造の建物。中からは鳩の鳴き声が騒がしいほど聞こえてきて、それが鳩舎であるとすぐに分かった。
男はすたすたと扉に歩み寄り、慣れた手つきで鍵を開ける。そして開くと、レーヴェに目配せをし、先に入らせた。
「では記入書を持ってきますのでね。そこに掛けていて下さい」
男はそう言い残して、鳩の鳴き声が木霊する奥の部屋に歩き去っていった。
レーヴェは男の指示通り簡素な椅子に腰掛け、辺りを見回してみた。
殺風景な部屋だった。ほとんどが同色の木材で造られているらしく、ほんのりと木の良い匂いがする。
「あれは……?」
ふと、広告が無造作に張り付けてある、掲示板に目が止まった。
市場の知らせやイベントの案内、求人広告、そして賞金首の写真と情報。
それは街中に貼り巡らされていたものと同じで、柄の悪そうな三人組の男の顔写真と、莫大な金額が載せられている。
しかしその隣には、更に莫大な金額の書かれた紙が貼られていた。
不審に思い、近寄ってみる。
『凶悪賞金首現る。迅速な討伐を求む。特徴は、灰色の長髪』
それだけが書かれたその紙には、顔写真は愚か、後ろ姿の写真さえ載っていなかった。
「おや、どうされましたかな?」
レーヴェが怪訝な顔で掲示板を見ていると、突然背後から男の声がかかった。
「記入書を持ってきたのでね。書いて頂きたいのですが」
「ああ、すみません」
レーヴェは苦笑しながら椅子に座ると、男の差し出した羽ペンを握り、紙に走らせた。
「ほう。アンファングとな。帰還を知らせるのですかな?」
「ええ、兄が居るので。あの村にも鳩舎があって助かってますよ」
「そうですか……。最近は便利になりましたな。どこにでも鳩舎があるおかげで、どこにでも手紙を送れる」
「全くです」
レーヴェがペンを置くと、男は紙と手紙を受け取り、奥の部屋に入っていった。
しばらくして、羽ばたきと共に一羽の鳩が飛び去っていった。
レーヴェはそれを窓から見届けると、立ち上がり、戻ってきた男に向き直る。
「じゃあ、俺はもう行きます。有り難う御座いました」
軽く会釈をし、踵を返して、扉を開く。
「また何かありましたら、ご利用下さい」
男は、扉の閉まる直前に言った。
ばたん、と、扉の閉まる音が控えめに響き、やがて部屋には沈黙が訪れる。
「あの少年……私の気配に気付くとは、なかなか見込みがある」
そんな中で、男は一人不敵に笑っていた。
強い風が吹いて、窓ががたがたと悲鳴を上げる。
その隙に入り込んだ隙間風が、男の束ねられた長い髪を揺らしていた。