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Have to fight for not fight

 海と添い寝して眠る街の灯りを数えているうちに、清継はまるでその細かくて暖かな光の狭間を歩いているような錯覚に陥った。

 右手に堤防を眺めて、左手には線路、まもなく現れた小さな駅、踏切。踏切の向こうは上り坂。ここが昔、漫画に切り取られたことがあるものだから、世界中からファンがやって来て、平日でもごった返している。

 流石にこんな深夜にはもう、静まり返っているが。

 清継の足元に、空き缶が一つ転がっていた。

 ほんの数秒、考えてから、清継はそれを拾い上げる。駅の入り口に自動販売機があって、その脇にリサイクルボックスがあった。そこに空き缶を投じ入れる。

 一個の立派な偽善者として、清継はそうする。

 清継の中に建った塔から天鳥が見ているかも知れないと思えばこそ、躊躇いなく。偽善の自覚が清継にはあった。計算ずくの優しさであろうと、空き缶一つ分ぐらいの価値はあるはずだ……、なんて主張する気は清継にはない。清継はただ、天鳥に「偉いね」って褒められればいいのだ。

 仮令、塔の中に天鳥がいなくても。

「キヨは、ずっと偉いんだよ」

 天鳥の声に、現実に引き戻された。夜を吸い込み過ぎて、鼻が冷たい。

「偉い子なんだ。だってキヨは、人に優しくすることを、ずっとやめないで生きている。学校でも、職場でも、きっと家でも」

 天鳥はコーヒーのおかわりを注いでいた。俺にもちょうだい、と空になったタンブラーを差し出すと、彼ははっきり、ほっとした表情を見せた。

「俺にとっては……、それが、当たり前だったから。そんなの、当たり前のことだったから……」

 人に優しく、ズルはせず、言葉遣いは慎重に。そんなことは、誰もが出来る当然の振る舞いだと思っていた。

 しかし、何より当たり前のことは、天鳥という塔は清継の中にしか建っていないのだということ。愚かにも清継はこのことに、わりと最近まで無頓着でいた。

 でもさ、そうであったとしても……。

 少なからずの希望を、清継は抱く。そういうものがもしなかったとしてもさ、みんな、やっぱりある程度は、いつでも人に優しくしようって思うもんなんじゃないの……?

 マジでそうでもないんだな、と気付いたとき、清継はもう二十六歳だった。当然のようにみんなが行う差別、排外的行為、暴力や戦争の正当化、いじめ、陰口、風説の流布、破壊行為といった、立件されない犯罪行為の数々に手を染めることがどうしても出来ないまま大人になり、周りを見れば、みんなデマのリズムで上手に踊ることが出来るのだ。傷付くのを怖がるなら、多数派の群れの中で隣をよく見て行動出来るタイプの動物にならなくてはいけなかったのに、結局どうしても、そうなることは出来なかった。

 その責任を天鳥に求めるつまりはない。だって、天鳥は自分の中ではなく、外にいる。でも、ちゃんといてくれる、それだけでいい。

 清継はこの国で、普通の大人になれなかった。

 I couldn't be Japanese general adult man.

「なりたかったの?」

 そう問われると、頷くことも首を振ることも出来ない。

 どうも世の中っていうのは、俺の思うところじゃないところにある「普通」に基づいて回ってるっぽいぞ……、と気付きつつはあったところ。例えば、そう、ガイジン(・・・・)なんて言葉、使っちゃいけないと清継は思い込んできた。

 けれども、あのお客が特別に差別的な人間であったとは、清継にはもう思えないのである。

 彼の辞書にその言葉が載っていた。差別的なニュアンスを含む言葉であるという記述が、彼の辞書からは欠損していたのか、それともああしたときには使っていい言葉であるという認識だったのか、そのまではわからないけれど、世の中には日本人とそれ以外を分けて、別な生き物のように捉える人が驚くほどたくさんいるんだという事実を、清継は最近ようやく受け止めつつある。

 四十年ぐらい前の空港の入国審査場において「Japanese」と対比した言葉として存在したのは「Aliens」であったそうな。後年に、それはよくないんではないかと意見が出て、現在一般的なのは「Foreigner」や「Other Nationalities」である。「Aliens」という単語の持つ「外人」というニュアンスに無頓着ではいられないもんだよね、と卒業旅行の終わりに辿り着いた羽田で言った上で、天鳥は冗談めかしてこう付け加えた。

「さて、俺はAliensの方から入った方がいいのかな」

 正真正銘のエイリアンの姿を見せられたことはまだない。

 天鳥が日本人でも外国人でもなく宇宙人であるということを知ったら、清継以外の地球上の人間たちは一斉に、……つまり愚かな紛争のさなかであろうと、殴り合い殺し合うその手と手を取り合って、共通の敵に立ち向かおうとするのだろうか……?

 そのとき、自分はどうするんだろうか?

「なんでみんな平気なんだろってのは……、ずっと思ってたんだよな。意味もなくいじめたり、悪い言葉を使ったり、平気でデマをばら撒いたりさ」

 誰もが同じような規律の塔を建てて、「看守」たる人物の眼差しを意識しながら行動するということをしているわけではない。あるいは、建っている塔はそれぞれ違って、担当する看守も違う、そんな当たり前のことに気付くまでに、清継はずいぶん時間が掛かってしまった。普通はこんなことしないでしょ、という「普通」はあくまで自分にとってのみの普通であって、例えば道に落ちているペットボトルのカラを拾う清継を見て、大抵の人は「なにあれ」「キモ」「偽善者」と言うのだ。

 それでも天鳥がいればいいじゃないか。

 いいのだ、いい、それでいい、いいはずなのに、

「……自分の生きてる世界に、自分がそぐわなくなってる気がすんだよ。『寂しい』とは、また違う」

 例えば、……漠然とした例えだけれど、ものすごーく人気の人がいるとする。

 その人の言葉に誰もが熱狂している。けれど清継にはその人の言うことに、全く共感することが出来ない。どう聞いたって、欺瞞(デマ)、無責任、開き直り、そして無意味な排外主義……、であると聞き取れてしまうから。

 でも、みんなはそうじゃない、みんなには心地よい言葉なのだ。俺の言葉は全く届くことはないだろう、けれど、俺はその言葉を理解しようとしなければいけない。

「そういうの、『生きづらい』って言っていいんだよ」

 天鳥は言った。

「システムの問題だ。登録販売者はドラッグストアで限られた薬しか売れない、けど、お客さんでそれ知ってる人は限られてるし、何なら『そんなの関係ない』って思ってる。それと同じで」

 いつも天鳥は、淡々と語る。

「偉い人が言うことに従っているほうが楽だって人はいっぱいいるよ。でもって、偉い人に従わないやつは愚かだって、責め立てる人もね」

 清継には、それは本当に驚きだった。

 つまり、みんな、塔の中に、権力者を住まわせているのだ。

 自分の心の領域を、そんなふうに易々と明け渡して、平気でいられるものなのか。

「それは、そうしたいからそうしてるのさ」

「まさか! そんなこと、誰が望むって言うんだよ」

「その人たち自身が。だって、権力者に従っていれば、『勝ち』だから」

「勝ち……?」

 ここで、天鳥はちょっと(あわ)れむような苦笑を浮かべた。

「人間って勝ち負けにこだわる。生まれた瞬間から別々の道を生きることはあらかじめ定められてるのに、誰かと比べて勝った負けたって。ローコストで、ローリスクで、容易く『勝ち』を実感出来るのって、そのときの権力者に従っているときなんだよ。おらが大臣、おらが王さまってね、その人がどんなことを言ってきたか、どんなことをやってきたか、じゃなくて、その人が権力者であるという理由でその人を支持することを決めてしまうっていう、とってもインスタントなシステムを、少なくない人が持ってる」

「そんなもんを」

 どうして、と訊きかけて、……同じことを、天鳥も思ったのだろう、彼が笑った。

 だから清継は、せめて先に言おうと思った。

「これだとなんだか、俺が宇宙人みたいだな」

 あはは、と天鳥が笑う、それはそれは愉快そうに声を立てて、清継の背中を叩いた。

「……天鳥は、どうなの、宇宙人から見て、いまの地球人って」

「地球上全部を見たわけじゃないからねぇ、この国の人って限定してもいい?」

 もちろん、と頷いた天鳥は、

「もう、清継次第のところに来てるかなって思ってるよ」

 と笑った顔、笑った声のまま言った。

 何を、問うことは、しなくてもよい。

 清継が快く生きられる日は、もう、これから先、ずっと来ない。清継は普通の日本人にはなれなかったし、普通というものから逸脱した清継、……Aliensのようにこの国の言葉がもうずっと理解できなくなってしまった清継に対して、みんな、それはそれは冷たく当たるだろう。

 清継が彼らに許されようと思ったなら、……「ボクは無害なあなたの下僕です、あなたのことが大好きです」と上目遣いに顔色を伺うことを己に課したなら、もしかしたら。

 でも、そんなことをしてまで生きていたいだろうか。そこまでするほど、この世界に価値があるだろうか……?

「じゃあ、もう一度質問ね。キヨ、この世界を、人間を、もう滅ぼしちゃってもいいと思う?」

 隣に座る天鳥の、あくまでも淡白な声。彼のような存在を、誰かが悪魔と呼ぶとして、清継はその言説に反論する言葉を用意することは恐らく出来ないだろう。悪いもんではないな、と思ってしまうからだ。あんまりにしっちゃかめっちゃかになって、例えば清継のように排除されてしまう人間が出てしまって、それでもなおシステムを変えることが出来ないなら、それはもうシステムごと誰かに壊してもらうことを期待するしかない。

 あるいはエラーがこれ以上発生しないようにもろとも破壊してしまうという、清々しい結論まで含めてのシステムであると見るべきか。

「滅ぼさなくっていいと思う」

 清継の答えが、意外だったのだろうか。

「え?」

 天鳥はそう訊き返す。

「だって、……人間の全員が悪いわけじゃないだろ。アンくんとか、アンくんの家族は、きっと気持ちいい人たちだろうし、他にも俺は、いい人間をいっぱい知ってるし」

 首を傾げた気配があった。

「確かにね、確かに、アンくんはいい子だ。でも、嫌な人間の方がたくさんいる、だから清継は苦しいんじゃないの?」

「それはそう」

「だったら」

「でも、あのお客にだって家族がいる」

 清継はそう言って、自分の胃のあたりを抑えた。

 ちりちりとした昨日の痛みは、まだそこにあった。

「どんな考えの人であっても、あの人のことを好きだと思う人がいるんだよ。命って、ものの数じゃなくってさ、一人死んだらその何倍も、何倍も悲しむ人がいるわけで、だから地震で何人が犠牲になったとか言うけど、その何十倍の、何百倍の、死ぬほど辛い悲しみがある。仮に、ああいう人ばっかりだったとしてもさ、でも、悲しみがそこにあるってこととは関係ないよ。考え方の違いとかじゃなくて、そこだけはきっと、誰かが死んだら悲しいっていうのは、みんなに共通してるところだと思うから」

 清継は苦笑した。

 ああ、こんなことしか、俺は言えない。どうしてもこんなことを言ってしまう。ずいぶん頑張ったつもりもあったけれど、結局俺は「普通の日本人」にはなれないみたいだ。

「だから、そうだな、天鳥、滅ぼすんなら、俺を一番に殺してくれよ。俺はたっくさんの人の死ぬところを見るのは嫌だ、お前も知ってるだろうけど、俺は弱いからさ」

 天鳥が「天罰」を下したあの日、清継を仮病で家に留めておいた理由は、明白だ。

 清継がその状況を目の当たりにしたとき、また具合を悪くすることを恐れたのだ。

 目の前で人が死ぬ、目の前で人が泣く、天鳥にとってはシステマティックに為せることであろうと、清継はたった一人目の前で死んだだけで、恐らく死ぬのに等しいぐらいの苦しみを身に宿すことになるだろう。

 それが仮に、あのお客であったとしてもだ。

「ふうん、そうか」

 天鳥は言って、「あれ、見える?」と手を翳した。

 オリオンの足元に、キラキラ、キラキラ、あんなところに、あんなにたくさんの星があったっけ。

 あれこそが、天鳥の仲間の「船団」なのだ。

「俺はやっぱり、人間は滅ぶべきだと思ったんだ」

 青く、白く、ちかちかと瞬いて、よく見ると、それは全てが連動して動いている。星に見えるのは、航空警戒灯のようなものだろう。

「人間は人間の中でも優しい人間でさえ苦しめてしまう生き物だから。ある集団の中で一番弱いものを淘汰する、例えば十匹のうちの一匹を。そして九匹になったら、次はまたその集団の中で一番弱いものを攻撃して殺してしまうんだ」

「……そんなことをして行ったら……」

「うん、最後には一匹だけになっちゃう。でも、一匹だけになっちゃったとして、もう生殖は出来ないし、とうの昔に産業も出来なくなっちゃう。想像できるだろ、キヨ、その集団は、言葉が違う、肌の色が違う、元々身体が弱い、そういった理由で同族を淘汰していくんだ」

 十匹が九匹になり、八匹になり、生活の領域は拡大していく。

「最後に残った二匹は、どんな理由で争って、片方が死ぬんだろうね。男女という性差かもしれないし、そうだとしたら」

 自ら生殖の可能性を閉ざし、滅亡の途を選ぶことにもなる。集団としての自壊を目指す積極的な選択だ。

「だからキヨ、明白なんだよ」

 タンブラーの中に残っていた最後の一口をきゅっと飲み干して、天鳥は見たこともないぐらい悲しそうな顔になった。いくらコーヒーが苦かったとしても、もっともっとつらい事実を飲み込んで、そういう表情になったのだろうと清継は想像する。

「人間は、ほっといたってやがて滅びてしまうんだ。優しくて怖がりでキヨみたいな、他の個体を殺さないものから順に殺されていく。組織集団を保持するために必要不可欠な存在から順に、集団そのものによって排除されていくんだよ」

 もしかしたら……、清継は思った。天鳥は、既に同様のケースを見て知っているのではないか。

 つまり、人間あるいは人間的なもの、大きな意味での「集団」が内に向けて自壊するところ……、を見たことがあるのではないか。

 そう、問いを向けてみたが、あっさりと彼は首を振った。

「別の星なんてわざわざ行かなくてもいい、人間がもう既に、当たり前のように何度もやってきたことでしょ? たまたま俺たちがこの星に、この国に来たときはそういう事態が現在進行形に行われていなかっていなかったってだけ。でも、いまのトレンドがそれなんだ」

 清継はくすぐられたようにちょっと笑いがこみ上げた。同時に胃液も喉元まで迫り上がってきた。

「……俺は、トレンドに乗れたことがない」

 優しい笑みを浮かべて、天鳥が頷いた。

「そうだね」

 清継は星空に浮かぶ宇宙船を眺めた。

「俺だけでいいよ、人類は滅びなくていい、ほっといたって滅びちゃうなら、もう少し後でもいい。俺なら、親父もお袋ももういないし、一人っ子だし、親戚とだってとっくに縁が切れてる。俺が死んで悲しむのは」

「アンくんが悲しむだろうね」

「それはそうかもしれない。でも、アンくんは俺か故郷のゴックちゃんやご両親を比べたら、当然そっちを選ぶわけで」

 なるほど……、と天鳥が顎に手をやる。

「アンくんの土下座についてだけど、あの子は本当に傷ついてはいないだろうと思うよ。キヨに言ったことは、強がりなんかじゃない」

 うん、そうだろうね。

 実のところ、清継もそれには同意見なのだ。

「なのに、キヨは傷付くのか。キヨは普通の日本人じゃないのに」

「そりゃー、そうだろ。『普通の日本人』と出会って、その人が俺に害意を向けるばっかりとも思わない、あのお客とだって、全然別なところで出会ったら、俺のこと助けてくれるかもしれない。何か、思いもよらないところで繋がって、仲良く話が出来るかもしれないよ」

 海が鳴り続けている。あの海で遊んだことが、何度もある。天鳥と二人で砂浜で、食べていたサンドイッチをトンビに(さら)われたことを思い出す。

 そうしたかけがえのない時間、平和な時間はもう戻ってはこない。自分の属する「人間」なるものが、海の向こうへ追いやってしまった。それに異を唱えるだけの体力も、……正確に言えば、異を唱えて無視をされたり否定をされたりすることで傷付くことに耐えるだけの精神力も、もう清継には残っていない。

 こうして人は死ぬことを選ぶ。こんなふうに簡単に、死ぬということを選ぶことが出来る。救いとしての死に赴くとき、意外なほど落ち着いていて、でもやっぱり胃は痛いし吐き気もする。たぶん命が尽きるその瞬間になっても胃は痛いのだろう。

 けれど、死にました、おやすみなさい、その瞬間からはもう、「痛み」が更新されることはない。他の誰かによく似た「痛み.txt」が、クラウドの片隅にいつまでも、いつまでも、残り続けてしまうのだろう。

 たぶん、誰のものともよく似ていて、でも、オリジナルなファイル。

 この満員の船から降りるだけのことだ。自分が降りれば、また新しい誰かがその席を埋める。天鳥は、人は集団は自壊するものだと言ったけれど、人は産まれ続ける、たくましく、命を繋いでいく。淘汰された自分よりもきっと強いものが、その時代に合致した誰かが、自分の席を埋めるのだろう。自分よりももう少し世界に適合した命、自分とは全く似ていない命が。

「うーん、わかった」

 少し残念そうに天鳥は頷いた。

「俺にとっては、人類を滅ぼすっていうのは、キヨを殺すっていうのと同じことなんだよね。キヨも当然、『人間』っていう属性の中に含まれてるから」

 それはそうだろうな、と思う。天鳥たちに殺されるか、人間のシステムの中で最初に死ぬかの違いでしかない。だからせめて、天鳥に殺されるのがいいな、なにがしか、温もりがある気がするし、寂しくないな……、なんて、恵まれている実感さえ清継は抱く。

 その贅沢に酔いそうになったところで、

「アンくんがキヨを守ったみたいに、キヨはアンくんを守ることは出来ないか」

 という天鳥の言葉が(きり)となって、胸にぽっかり穴を開けた。

「俺が、アンくんを、守る?」

 虚をつかれたものだから、清継の声は小学生のそれのように輪郭があやふやなものとなった。

 そう、と天鳥は頷き、尽きてしまったコーヒーの、水筒をいつも背負っている鞄の中に放り込んだ。

「アンくんが昨日土下座したのは、キヨを守るためだよ。日本人その程度で満足しちゃうんだからチョロいですよねって、笑って見せてもさ、自分で拭いた床であってもさ、手を付いて頭を下げる、手が膝が、髪が汚れる、そういうことを、あの子がやったのは、キヨを守りたいって思ったからだ。じゃあ、キヨはどうして(・・・・)あの子にそこまで守ってもらえるんだろう?」

「どうして……、どうしてって……」

 当たり前の理由がいくつか、清継の中にはあった。当たり前すぎて、問われることなんて想定していなかったものだから却ってちょっと、たじろぐ。

「それは……、要するにアンくんが優しいから」

「アンくんはどうして優しい?」

「どう……、え、どうしてって……」

「アンくんはどうしてキヨに優しくしたんだと思うの?」

 優しい人が、愚かしくて弱い者に優しくするのは当たり前のことじゃないのか。

 天鳥は笑みから苦さを消していく。

 彼の手が伸びて、清継の髪に触れた。

「それはキヨがアンくんに優しくしたからだよ。これまでずっと優しくしてきたからだよ。思いやりを持って接してきたからだ」

 崖下から一際冷たい風が吹いてきた。その風に千切られそうな耳を、天鳥の手が包んだ。天鳥の手だってたいして温かくもないのだけど、風が当たらないだけだいぶマシになる。

「あの子がキヨを守ってくれたのは、キヨがずっと、あの子のことを、守り続けてきたからだ。守って、守って、守って、守って生きてきたからだよ」

 心当たりのないことで褒められている。

 これまで清継の中にいた天鳥は、清継がわかりやすく善行をするのに対して、報酬として褒める言葉をくれた。あのときのあれだな、このときの……、察しがつくし、嬉しいから、それを積んでいこうと考えた。

 理論的な善行のことをそもそも善行と呼ぶのかどうかは怪しいが。

 しかるに、これは。

「当たり前のことしかしてないって思ってるんだ」

「そりゃ……、だって」

「アンくんが生まれ育った国のことを思い出して落ち込んでるのを見たからって、レストランを探して、向こうの料理を食べさせてあげるんだって言って。キヨはパクチー食べられないのに」

 そう、清継は、あれ、ダメなのだ。なんか、うえぇってなってしまう。ただ、アンくんは向こうの人だから好きなのだろうと勝手に思い込んで、本格的な料理を出してくれるお店に予約を入れて、彼を連れて行った。

 誤算だったのは、アンくんも実はパクチーがあまり好きではないということだった。彼曰く「たいたい、二割ぐらいは嫌いと思います。ボクは食べれます、けど、たくさんは要らないてすね」とのこと。

 そのレストランで清継はアンくんから、

 Chào bạn.(こんにちは)

 Cảm ơn bạn.(ありがとう)

 そして、

 Không rau mùi ạ(パクチー抜きでお願いします)

 という、彼の国の言葉を教わった。

「あのとき、アンくんはどれだけキヨに救われただろう。どれだけキヨに守られてる気持ちになっただろう。だから彼はキヨを守るためなら、カスハラ客に土下座することなんてちっとも苦にはならなかった。気にしてませんよ、キヨさんのために無理したんじゃないですよって、頑張って平気な顔をしようとするだろうさ。あの子は、『普通の日本人』なんかじゃない、『キヨさん』のことが大好きなんだからね」

 天鳥の視線が、清継の視線を再び空へと招いた。

 星が、……こんな明るい街にも見上げたところに幾つもいくつも瞬く星が、今夜は異常なほどたくさん見える。光を膨らませたり、萎ませたりしながら、やがて空全体が淡く光っているかに思える。月などどこかへ消えてしまった、あるいは今夜はもとより月が出ていなかったんだっけ。

 星たち全体が、じんわり、じんわりと動いている。脈打つように。時に、あちこちでチカチカと光を強くする。

 天鳥が最初に示した、オリオン座の足元の他にも、数え切れないほど多くの宇宙船が空を漂っているみたいに、清継は錯覚した。

 数え切れないほどの、美しい星々の中を地球が泳いでいる。

「そんなさ、俺が、……俺なんかが、アンくんを守って……、そんなわけないじゃん……」

 清継が言っても、天鳥は首を振るだけだった。

「『ガイジン』って言葉一つにそんなにささくれだって、傷付いて、怖がって、この世界に絶望しそうで。でも、命ある限り世話を焼いてくれる人が、アンくんにとってどれだけ支えになってるだろうね。キヨ以外の人はきっと、平気で言うんだよ、これからもっともっと、彼に、酷いことを。でも、彼はキヨがいれば生きていけるよ。こんなくだらない国でも、『キヨさんがいるから』っていうそれだけの理由で、生きる力を失わずにいられるよ」

 死ぬ理由を、その気になればいくつでも、清継は並べ立てることが出来ただろう。言葉の数を費やすことで、自分の希死念慮を正当化することが出来るような気になって。

 そして、きっと、天鳥は清継の苦しみを理解した上で、優しい死神になってくれるはずだ。この世界からの逃避手段としての死を、決して否定しないだろう。

 けれど彼は公平に提示する。

 死にたくてたまらない清継に、生きる理由をたった一つ。

「そんな辛いもんかよ、人生って……」

 途方に暮れて言った清継に、天鳥は笑った。

「そうだねぇ。そうみたいだねぇ。キヨにとってはいばらの道なんだ。でも、キヨはもう、そういう生き方しか出来ないんだよ」

 絶望に近い宣告だった。

「こんな、何の力もないのに……」

「ああ、それは違うよ。キヨは割と世界を変えるほうの人間だよ」

 とても賢い宇宙人のくせに、ばかなことを言っている。しかし天鳥は小学二年生のように生真面目でくりっとした目をまっすぐに清継へ向けているのだった。

「何を、変えられるって言うのさ……。ちょっと人がしんどいの見るだけで、具合悪くなっちゃうような」

 何のシステムも変えられない、弱者に。

 天鳥はのんびりと、光の蠢く空を見上げて、唐突に思い出話を始めた。

「俺が大学のときに教職課程取ったの覚えてる?」

 覚えている。

 なんで宇宙人が、人間の子供の将来に関与しようなんて思うんだ、と疑問を抱いたことをよく覚えている。

「教育実習で行った先の小学校で、おもらしした子がいたっていうのも覚えてる? 俺が黒板の前で授業をしてるときに」

「……そうだっけ?」

「うん、一年生の女の子。その後ずっと、その女の子のことはやっぱり気に掛かっていた。同じクラスに、キヨみたいに心優しい子がいるだろうか、俺みたいにひっくり返せるような子がいるだろうか」 

 いるわけがない、宇宙人なのだから。

「まあ、ね。だんだん時間が経って、俺も思い出すことも減っていって。そしたらね、その子がニュースになってるのを見つけた。昨日のことだよ」

 隣の天鳥の顔を見る。

 彼は頬を紅潮させて笑っていた。

 大人は、本当に、本当に嬉しくって仕方がないときにしか、そういう笑顔にはならない。

「その子ね、もう中学生になってるんだけど、東京都の将棋の大会で優勝したっていう記事だった」

 対する清継は、虚を突かれた表情で返すばかりだ。

「しかもね、あの日同じ教室にいた男の子と、決勝で当たって、その女の子が勝ったんだ。俺にはそれがとても、とても嬉しかった」

 しばし、清継は言葉から逸れる。

 きっといつかのあの子のように、つらい時間を過ごすことを強いられた可哀想な女の子。

 だけど彼女は人生最悪の時間に同居した同級生と、将棋大会の決勝を戦い、勝った。

「二人は同じ中学で、同じクラスなんだって書いてあった。これまで何度も、男の子の方が勝って、彼女は準優勝だったけど、今回初めて決勝で彼女の方が勝ったっていうんだ」

 そこに至るまでの道筋を、清継は想像する。きっと天鳥が想像したように、その女の子がどのようにして小学一年生から中学一年生までの時間を歩んだか。同級生の男の子が彼女とどのように接してきたか。

 小さな女の子の指先が、友達、あるいはライバル、それとも目標、もしかしたら、恋人の存在によって、未来を切り拓いたのだ。

 宇宙人が感動を催してはいけない、なんて決まりはない。

「でも……」

 俺は将棋なんて強くないから、と屁理屈をこねるつもりはない。

 天鳥は将棋がめちゃめちゃ強いけれど、ひょっとしたらその女の子よりも強いのだけど、実際に指先で道を切り拓いたのは女の子のほうだ。「可哀想な女の子」が、万能の宇宙人を超え、……宇宙人は心から彼女を祝福している。

「人間は弱いものだ。俺から見てると呆れるぐらいに脆いものだね。だけどね、俺はどんなに弱い人間にも等しく、なれるものがあると思ったんだ、出来ることがあると思ったんだ」

 星が、一際強く、脈打つように瞬いた。

「それはね、誰かの理由になるってことだよ」

 天鳥の手が背中に触れた。

「アンくんは優秀な子なんだろ。彼がこの国にいる間、キヨが守ってあげるんだ。いつか偉くなっても、アンくんは決してキヨのことを忘れないよ。やなやつばっかりになっちゃったけど、キヨがいるこの国のことを大切に思うだろう。この国の、他の国の、命の一つひとつを守ることにも繋がるんだ。それはいま、普通の日本人には絶対に出来ないことだよ」

 清継の足は、眺め渡した道の険しさに圧倒されて、足がすくんでしまう。

 死ぬよりも、生きることの方がずっと難儀だと思い知らされた上で、なお、生きなければいけない理由、誰かの理由になるという理由が、ずっしりを重い。

 次の一歩を、どうやって踏み出したらいいのか、清継はもうすっかり判らなくなっていた。

 死んではいけないらしいと理解した、つまり生きなければいけない。死ねるならば死にたいが、自分の生きることで感じるつらさと、自分が死ぬことで誰かが感じるつらさを天秤にかけたとき、ほとんどもう、瞬間的に、生きなければならないと清継の結論は出てしまう。

「もしキヨが生きる理由が、一つじゃ足りないなら」

 天鳥の手が清継の手を取って、立ち上がらせた。

「俺が理由になってあげようか」

 清継の右手を、天鳥の左手が握る。迷うことのないように、ためらうことのないように、動けなくなることがないように、それは温かくて少し湿った指と手のひらの形をした鎖だ。

「俺が」

 声も出せなかった。天鳥の足が、とんっ、と軽やかに崖から飛び上がる。夜空の見えない階を登るように、とんっ、とんっ、とんっ……、星々の頼りない光が描き出す梯子を登るように。

 太古の人々が星の並びに夢の絵を描いたように、清継は九かける九の升目を見たような気持ちになった。

 駒の動かし方だって清継には怪しいのだけれど。

「……どうして、天鳥、なあ、どうして、将棋のニュースなんて見てたんだよ。お前、将棋つまんないって言ってたじゃん……」

 すでに清継の足はひとりでに動いていた。

 空を歩いている、字にしてきちんと受け止めたなら、たちまちそのおかしさに気付いて、この身体は落下を始めてしまう気がして、だから先を歩く天鳥のことだけを見ていた。

「うん、つまんない。だってみんな弱いから。みんなが面白がってやってるのが、俺にだけつまんないなんて癪じゃない?」

 それは、お前が強すぎるからだ。俺が弱すぎて、みんなと同じように楽しむことが出来ないように、……いじめという、排外、差別というエンターテイメントを、決して楽しむことが出来ないように。

「でも、なんでかな、興味を無くしたわけじゃなくってさ。いつか誰かと、本気で将棋が指せたら楽しいだろうなって、ずっと思ってた。例えばキヨが、俺を負かすぐらい強くなってくれたら嬉しいんだけどな」

「そんな」

 来世までかかっても。

「じゃあ、来世まで頑張って、俺と一緒に生きてよ。俺が人類滅ぼさなくてもいいように、世界を守ってみせてよ」

「そんな……」

「誰にでも出来ることだよ」

 子供みたいに無邪気な顔で、天鳥は笑って言った。

 彼の笑う顔はずっと小学二年生のときと変わらない、透明で、子供みたいに丸くて明るい。清継はこれから先、来世にかけて延々、将棋盤の向こう側に座って「弱いなあ」とその顔で笑うのを見せられることになるのだろう。

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