塔
今日から、みんなの友達になることになりました、浅野天鳥くんです。
浅野くんは、佐藤くんの遠い親戚なんですよ。
「えっ」
という声を、実際に自分が発したかどうかはもう思い出せない。でも、小学二年生の二学期の途中、長袖の子と半袖の子が入り混じる教室に、天鳥はやって来て、そう紹介されたのである。
父にも母にもきょうだいがいない。みんなの家と比べると、お年玉が少ないことを恨めしく思っていたのに、思いもよらないところから親戚が現れた。けれど、同い年ではお年玉はもらえない。
ちょっとがっかりした清継のところへ、天鳥はやってきて、
「はじめまして。よろしくね、キヨ」
その転校生は、なんだかとても大人っぽい笑顔で言った。
天鳥は優れた子供だった。
特段身体が大きいわけでもないのに、身体の動かし方の要諦のようなものが身に付いていて、運動は全部良くできた。授業中はぼんやり窓の外を眺めているばかりなのに、テストは満点。
そして何より清継の記憶に強く刻まれているのは、彼がものすごく、……それはそれはものすごく、将棋が強い子供であったという事実である。
清継はお父さんから将棋を教わった。お父さんはまず駒の動かし方を教え、それからルールを教え、……今にして思えば、お父さんは息子と共通の言葉を持ちたかったのだと思う。残念ながら清継は将棋には情熱を抱けず、お父さんの期待には応えられなかったが、代わりに清継は天鳥に将棋を教えるという役割を果たすこととなった。
親戚だから、というだけの理由で天鳥はいつも清継の側にいた。彼に「お父さんが将棋の勉強をしろってうるさいんだ」と愚痴を零したのは、朝の通学路で吐く息が白くなっていたころ。
「将棋って何?」
学校の図書室に、将棋の初歩を学べる児童向けの漫画があった。清継がそれを紹介すると、天鳥は早速それを借り出し、翌日に返し、「キヨのお父さんと将棋を指したい」と言い出した。
その日は土曜日で、お父さんは家にいた。
天鳥は、清継のお父さんと三局やって、三局とも圧勝したのだ。
手加減や油断も、流石に二局続けて負けた後にはもう残っていなかったと捉えていいだろう。つまり天鳥は三十年以上将棋を指してきた大人を一捻りしてしまったのだ。
天鳥は父によって半ば無理やり近所の将棋道場に連れて行かれた。清継も随いて行ったが、その日、道場にいた人を一人残らず彼はやっつけてしまった。
たちまち「藤沢の神童・浅野天鳥」名前が轟き渡ることとなった。
しかし、天鳥が将棋道場に行ったのは、その一回だけだった。
清継には不思議で仕方がなかった。人より秀でたところがあったら、誇って、自慢して、それをもっともっと磨くものだと思っていたものだから。
「強いなら、もっとやらなきゃだめだって、お父さんが言ってた」
言外に、非難の響きが混じったかもしれない。
天鳥は首を傾げて、
「強ければ強いほど、やりたくなくなるもんじゃないかな」
と言った。
「でも、もったいない」
「じゃあキヨはおれと将棋を指したい?」
え、やだ、と思わず拒絶の声が出た。
「でしょ?」
なにが「でしょ」なのかと考えて、少ししてからわかった。天鳥に将棋で敵う人はいない。そうわかってしまったなら、天鳥が将棋を指す理由は一個もない。
天鳥はつまり、少なくともこの街においては、誰より一番将棋がつまらなくなってしまったのだ。
以降、清継は天鳥が将棋盤の前に座る姿を見たことは一度もない。
子供とは思えない達観は、彼の振る舞いの端々に現れていた。彼は子供たちの大好きな、からかいやいじり、要するにいじめには一切加担せず、かと言って、被害者側に肩入れするという態度も取らず、一線を引いた位置で傍観、……いや、そもそも視界にすら入れていなかったようである。
だから、清継のしたこと、……正確には、清継のリアクションに対して、彼は極めて強い衝撃を受けたらしいのだ。
三学期になって間もないころだ。世界中のどんな学校の教室でも起きうる事態が、たまたま二人のいる教室で起きた。
授業の終わりかけに、女子がおしっこを漏らした。
床に水たまりを作った彼女を爆心地として、教室中は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。小児の膀胱の脆弱さと、まだ備わり切らない自己管理能力や、時期的な環境などの条件に考えを巡らせて、「それもまた仕方のないことである」と達観できるほど成熟していない生き物たちが形作る無法地帯の中で、その女子の絶望して項垂れ、屈辱の中で立ち上がる力すら失ってしまった姿を、彼女から桂馬跳びした位置に席のあった清継は覚えている。
その翌日から、彼女はいじめられることとなった。先生には、保健室に彼女が連れられて行ったあと、決して非難するようなことはしてはいけないと言いつけられていたにもかかわらずだ。
清継には不思議なほど、……本当に不思議なほど、それが恐ろしく不快で、極めてつらく思われたのである。ことさら自分の特殊性を、長所として訴えるつもりもない。おそらく、少し気が弱くて、みんなと同じように騒ぐのが不得意なだけだ。
しかし清継とって、攻撃のために用いられる言葉は、傍で聴いているだけでも膝が震えるほど不快きわまりなく、まるで排泄物をわざわざ手のひらにとってこね回して作ったもののように、不潔で妙に温もりがあって、強烈に嫌な臭いがした。
どうしておれはみんなと同じように、それに触ることが出来ないんだろう? 彼女を嗤いの対象にすることが出来ないんだろう。
どうしておれは、おれがいじめられてるわけじゃないのに、こんなに怖くて、つらくて、仕方がなくなってしまうんだろう。
どうしておれは、みんなみたいに、いじめを楽しむことが出来ないんだろう。
うんこをぶつけられるのと、うんこを手にとってぶつけるのと……、そう考えているうちに、どんどん具合が悪くなっていく。それについても、まだ十にもなっていない小児は無頓着で、ある日とうとう、それは口から形となって顕れることとなった。
その日も先生のいない休み時間に、白と赤の顔で必死に涙を堪えている彼女が、同級生たちにいじめられているのを見た。
そのときの清継にはなんだか、人の形をした排泄物が自分の身体の一部を寄ってたかって彼女に投げ付けているように見えたのだ。
清継が鉛筆削りを忘れてしまったときに貸してくれた男子も、教科書を忘れた日に机をくっ付けて読ませてくれた女子も、みんな、みんな、みんな……。
清継の口からは大量の、……それはそれは大量の吐瀉物が溢れ、とめどなく床を汚し、清継自身の上履きや靴下をも汚していた。
彼女に酷い言葉を向けていた者たちも、彼女に向く明白な刃を止めることをしなかった者たちも、何が起きたのかを把握し損ねていたようだ。清継自身も自分の身に何が起きたのか判っていなかったほどで。
ただ、天鳥だけは違った。
「キヨ」
身体のバランスを失しかけた清継のことを抱き支えて、
「大丈夫か」
いつになく真剣な顔をして訊ねた。清継は声も出せなかった。ただ、周りが怖がって、汚がって、近寄ろうともしない中で天鳥はしっかりと清継を抱いて、
「先生を呼んできてよ。何してるんだよ、早くしろよ」
周囲に向けて言う。
「早くしろよ!」
弾かれたように誰かが先生を呼びに行き、清継は保健室に連れて行かれ、確か、その日は早退して病院に行ったのだ。翌日も翌々日も休んだ気がする。冬場ということもあって、感染性腸炎を疑われたんだろうなということは、いま薬を商売道具としている身には想像ができる。
「キヨは、ああいうのが許せないんだね」
学校に行くことが許された日の朝、いつものように淡々とした表情で、気付いたときには隣にいた天鳥はそう言った。
「人の感じてるつらさを想像して、身体の中にうつしちゃうんだ」
清継には、わからなかった。
「みんなはそうじゃないんだよ」
そうみたい、ということはわかるけど。
「みんながなんで、いじめをしたかわかる?」
わからない。
「彼女の身に起きたのは誰にとっても起きる当たり前のことだ、人間で、子供であるからには。でも、自分が同じ目に遭ったときにどんな気持ちになるかなんて想像できないんだ、子供であるがゆえに。だから、どんなことだって出来るんだよ」
清継は天鳥と二人で通学路を歩き、学校へ向かっていたはずだ。しかしながら、気付いた時には清継は、海に掛かる長い長い橋を渡り切って、急な階段を登ってさらに先、道から出外れた崖っぷちにいた。
「人間って愚かなものさ。キヨ、愚かってわかる? そう、賢いね、本当は人間って、大人になったら愚かじゃなくなっていくはずなんだ、でも、この星の人間たちはどんどん愚かになっている。子供の持ってる愚かさを、つたなさを、大人になっても後生大事に持ち続けてしまっている。人間が、ぜんたいが、そういうものになってしまっている」
そのあたりから、清継には彼が何を言っているのか、判らなくなっていた。ただ、高いところがちょっと怖いな、寒いな、と思っているぐらい。
「大人になっても当たり前のようにいじめをするし、器用なところが全然ない。でも、びっくりするぐらい上手に人のことを傷付けるんだ。これからキヨは、この星で生きて行かなきゃいけない。ミスをしたら嗤って人を傷付けるような、正しいことよりも多いことを目的にする人たちの中で、傷つかないためには常に多い方にいられるように気を付けながら、生きて行かなきゃいけないんだ」
清継はそのときの天鳥の言葉を、いまでも鮮明に思い出すことができた。
その言葉から受けた感慨、小学二年生の当時はまだ、それほどの重さを持つものではなかった。あれから十七年経って、日々に天鳥の言葉を噛み締めて、……舌の上に広がる苦さは時を追うごとに強くなっていくようだ。
「そこで、キヨに質問です」
天鳥は、清継の隣に立ってこう訊いた。
「人間なんて滅ぼしちゃうのがいいと思うけど、キヨはどう思いますか」
「え?」
という言葉しか、発することが出来なかった。清継が一分ちかく言葉から逸れている間、天鳥は優しい微笑みを浮かべて、清継の言葉をずっと待ち続けていた。
「……だれが?」
「おれが。正確には、おれの仲間が」
「仲間……?」
「空にいる。オリオン座の左下に、散らばるいくつかの星、それがおれの仲間の船団だよ。おれはその船から、地球と人間を観察するために降りてきたんだ」
いくらなんでもな、と思ったのである。
でも、二十六歳になったいま、その日よりも強く、清継はこのときの天鳥の言葉を信じるようになっている。
「……天鳥はさ、天鳥は、おれの、お父さんの死んだお母さんの妹の……」
「またいとこ」
「うん、そう、それ。それだから、その」
「いまおれがお父さんお母さんって呼んでる人は、子供が産まれないんだよ。お父さんの体質でね。まあ、それはいまのキヨに説明してもわからないだろうからいい。だから、八年前からずっとおれがいたってことにした」
「そんなこと、できるの」
「出来たから、こうしておれがいるんだよ。地球人には難しいことかもしれないけどね」
まだ清継には、この星のことだってよく判っていない。その上、地球の外のことまで持ち込まれてしまっては、もう、考えが輪郭を失ってバラバラになっちゃったみたいな気持ちになってしまう。
要するに、お手上げ、というやつだ。
「わかんない……」
ぼんやりと言った清継に、天鳥は優しい微笑みを向けた。
「じゃあ、信じられるようにしてあげるよ。俺が人間じゃないってことをね」
人間の顔をしている、人間の声を、人間の言葉を発している。だから人間なんじゃないの、……なんてことを、このときの清継はもう考えなかった。クラスメイトがうんこに見えてしまった瞬間を経てしまったからには。
「これからキヨは、おうちに帰るんだ、おれと一緒に」
学校に行くはずだったのではないのか。どうして通学路から遠く出外れたこんな場所にいるんだろう、もう遅刻になっちゃってるんじゃないかということに気付いて、清継は俄かに泣きそうになった。
「大丈夫だよキヨ、聞いて。今日キヨは学校に行っちゃいけない。行こうと思ったんだけど、途中でまた具合が悪くなってきちゃったから、おれと一緒に落ち着くまで少し休んで、帰ってきたことにしようね。それはおれがキヨのお母さんに説明する。でもって、『おれもなんだかうつっちゃったのか具合がよくない』って言って、おれも帰る」
「……そんなの、嘘じゃん」
「嘘でもいいんだ。どうせ今日、学校は休みになるから」
何を言われているのか、ぜんぜんわからない。大人たちが大人たちだけで話しているのを側で聴くとき、何を言っているのかわからないしつまらないという気持ちになるけれど、天鳥の言葉には何かとても不穏な、不吉なものが含まれているように思われた。
「明日は土曜日で、だからたぶん、明日も休みになるかな。だから次におれたちが学校に行くのは月曜日で、その日にはキヨがつらいと思うものが一個、学校からなくなってるよ」
意味は一個もわからない。
だけど、不安を催したせいだからだろうか、清継はまた何だかお腹のぐあいが少し悪くなりそうな、そんな気持ちになった。
「あんまりこんなことはしちゃいけないんだけど、キヨには教えてもいいかなって思った。おれが言った通り、学校が休みになったら、キヨ、おれの言ったことを信じてくれるよね? でもって、もちろん誰にも言っちゃいけない。お母さんにもお父さんにも、先生にも、他の友達にも。いいね?」
こく、と心細い思いで頷いた清継をじっと見つめて、天鳥は納得したように頷く。
「おれが宇宙の、ずっとずっと遠くから来たってことが信じられたら、さっきの質問、『人間を滅ぼすべきかどうか』ってこと、考えて、答えを聞かせて」
清継が、天鳥に手を引かれて家に帰り着き、仮病を疑われもせずベッドに横になってどれぐらい後だろう、お母さんが「清継、起きてる?」とそっと部屋を覗きに来た。
「学校で、……なにか大変なことがあったみたいなの」
お母さんは、滅多に見せない不安そうな表情だった。おととし、お父さんのほうのおばあちゃんが亡くなったことを清継に告げるとき、そういう顔になっていたっけと思い出させるような。
「具合の悪くなっちゃったお友達がたくさんいて、救急車が来て……」
お母さんは清継のベッドのそばに跪いて、困惑する清継の髪を何度も撫ぜた。気のせいでなければ、目を潤ませていたようである。
あんたじゃなくてよかった、という言葉を、きっとお母さんは必死に飲み込んでいたのだろうと、二十六歳の清継は思う。当時の清継はただ、何かとても恐ろしいことがあって、それで怖がっているのだろうと思ったし、清継自身もまた、さっきの天鳥の言葉を思い出して恐ろしい気持ちを催していた。
週明け、おもらしをした女の子へのいじめはぱたりと止んでいた。
清継が休んだ日二年生の清継たちのクラスで大小のおもらしをする子が、同時に、大量に、発生したのだという。
「あの子のことをいじめてた全員が漏らしたんだ。泣きじゃくって、悲鳴を上げて、お母さんのことを呼びながら、おしっこもうんこも撒き散らして」
月曜の帰り道、天鳥は淡々と言った。
「最初は、何か恐ろしい病気が撒かれたんだって疑われた。消毒のためにこどもたちは金曜日の午後いっぱい隔離されたし、教室は消毒と掃除をしなきゃいけなかったから、土曜日も閉鎖されてた」
隔離、閉鎖、といった言葉の意味をどうにか捉えたすえに清継は、正直、その場にいなくてよかった……、と思わずにはいられなかった。
だって、あの子のことをいじめていた子全員、……クラスじゅうを見回しても、無事で済んだのはその場にいなかった清継と天鳥のほか、もうあと何人かしかいない。
「キヨは、優しい子なんだね」
天鳥は、そう言った。
「学校で地球人を観察しててさ、地球人って、みんな片っ端から愚かで、意味のない争いばっかりするんだと思ってた。でも、キヨはそうじゃないみたいだ」
自分を「優しい」などとは、さほど思わず生きてきた。ただおれは、人よりちょっと勇気がないのかな、なんてぐらいの自己評価を、当時の清継はしていたぐらい。
清継がぼんやりしている隣で、とんでもないことをしでかした天鳥は、特にそのことを得意がったり気に病んだりする様子も見せずに、あくまで淡々と語っている。
「人間の身体の中には、人間がまだ知らないものがたくさんあるんだよ。人間って正体不明のお客さんや荷物をたくさん乗せてる船みたいなものでね。その幾つかは、外からアクセスして、簡単にコントロール出来るものなんだ。そう、たとえば」
二人の帰り道にある公園が見えてきた。
「キヨ、トイレに行って」
「え?」
「うんこ漏らすのは嫌でしょ」
「え、あの、なに、どういう……」
ぱちん、と天鳥が指を弾いた。その途端、急にお腹がぎゅるんと鳴って、身体の中から外へとやけに強い衝動が走った。
意味も理由も確かめている余裕はない。清継は、よっぽど切羽詰まったときでも使うかどうか躊躇する公園のトイレの個室に駆け込んだ。
「こういうこと」
ドアの外から天鳥の声がする。
「同じことを、あの日、彼女をいじめてたみんなに向けてしたんだ。これでもう、誰も彼女のことをいじめられなくなったよ」
身体のものを外に出してしまえば、嘘のようにお腹の苦しさは消えてしまった。
「天鳥」
「信じてくれた?」
信じられない、が、信じないわけにはいかない。
天鳥は本当に宇宙人なのだ。
「しん、信じる……、信じる」
「じゃあ、改めて質問だ」
人間は滅びるべきかどうか。
おれも、お母さんもお父さんも、いじめられていたあの子もいじめていた子たちも、みんなみんなみんな、消えてなくなってしまった方がいい。
そうなのだとして、それはなぜ?
そのときの清継にはまだ、答えを用意することはとても出来なかった。
そうではないのだとして、それはどうして?
清継は明日には楽しいことが起きると思っている。
明後日には、やがて来る春休みに、夏休みには。例えば目の前に憂鬱なことがあったとしても、清継は決して絶望しない。自分の生きる道にはきっと幸せが、楽しいことが、いっぱいいっぱい転がっていると信じている。
その程度の理由でいいのだろうか、それをまず確かめようとして、もっと具体的で必然的な理由を携えて自分の右手を伸ばしたところで、
「あっ……」
と、人類滅亡と同じぐらいに絶望的な声が出た。
「なに?」
「……かみ……、紙が、お尻、お尻拭く紙がないよう」
「えっ」
結局、天鳥が大急ぎで自分の家まで戻ってトイレットペーパーを持ってきてくれたのだけど、寒いトイレの個室でお尻を出しっぱなしにしていたせいだろう、清継は翌日また熱を出して早退する羽目になった。人類の存亡を決める判断は、そのまま、なんとなくうやむやになってしまった。
結果的に人類は救われたのである。
それはさておき、等しい心の傷を負った児童たちは、もういじめなんてくだらないことに時間を費やすことはしなくなった。
バチが当たったって考えたんだろうね。
のちに、天鳥は清継に言った。
「あの日、漏らしたのが誰で、漏らさなかったのが誰でっていうのは、みんな判ってたはずだ。漏らさずに済んだ子には共通点があった。そこに考えを巡らせることが出来れば、『天罰が下った』って考えるのは、自然なことだと思うよ」
そのとき天鳥は、とても難しい言葉を使った。
魔法の呪文みたいな響きがなんだったか、もうすっかり忘れていて、でも最近になって思い出した。
中央に背の高い塔、その周囲にぐるり、ドーナツ型の建造物。
「これは監獄だ。塔には看守がいて、ドーナツ型の建物の中には囚人たちがいる」
背の高い塔からは囚人たちを監視することが出来るが、囚人たちの立場からは看守の監視状況を窺い知ることはできない。
「すると、どうなると思う?」
囚人たちは、自分が看守に見張られていることを、看守の視線がわからないがゆえに、余計に強く意識して、規律に対して従順であろうとするようになる。
あるいは囚人間での相互監視さえ始めるようになる。
「仮に、看守が塔にいなかったとしても」
「……なんで?」
「『いるかもしれない』って考えさせてしまえばいい。常に自分が監視されていることを意識して、悪いことをしたら罰が下るかもしれないって思えば、人間ってみんなおりこうさんになる。……うちのクラスはみんな、ずいぶんおりこうさんになったよね」
もう、罰が下るのはいやだと、誰もが思ったに違いなかった。
天鳥の手が、清継の髪に触れた。まるでお母さんがするみたいに、優しく清継を撫ぜる。
「キヨは優しいんだな。キヨがそんなふうに優しいから、おれはまだ人間を滅ぼさなくてもいいんじゃないかって思うんだ」
でもいつか、清継がそのことを忘れてしまったら。
平気で誰かを傷つけるような人間になって、天鳥を失望させてしまったら。
清継の中心に、天鳥という塔が建ったのは、そのときだ。
優しくなければいけない、悪いことを考えてはいけない。本当は清継はただ、みんなと同じように彼女をいじめからかうだけの度胸がなかっただけで、そもそも人がいじめられている姿を見ただけでゲロを吐いちゃうぐらいに臆病だったっていうだけで、別に優しい人間なんかじゃないって、自分ではよくわかっているのに。
天鳥が見ているかもしれない。
計算に拠って立つそれが、はたして本当の優しさと呼べるのかどうか、清継にはいまだわからない。
ただはっきりしているのは、そう在ろうとする清継にとって、この世界はあまりにも苦しいものであるという事実である。




