表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

普通の痛み

 普通の痛み。

 当たり前の痛み。

 どこにでも転がっている痛み。

 この崖から見下ろす深夜の街の灯の中に、清継はいくつか、コンビニエンスストアの特徴的な配色の看板を見出すことができた。同じような出来事は、どんな店でも多かれ少なかれ常に起きているに決まっている、……ひょっとしたらいまこの瞬間も。

 誰もが身に走る痛みを、堪えて、どうにか飲み下して、乗り越えて迎えた新しい今日なのに、清継はまた、律儀なぐらいに感じた痛みを持て余して、昨日の続きを過ごしている。

「登録販売者ってめんどくさいんだね」

 概ねの事情をわかっている天鳥が苦笑した。

 佐藤清継は登録販売者、ドラッグストアで薬を販売する資格だ。薬剤師と違ってハイレベルな薬を売ることは出来ないが、販売の際には法令に基づいた確認が義務付けられている。

 中でも風邪薬や咳止めは、近年あやまった使い方による健康被害が増加しているので、規制が強化された。しかし消費者には「薬剤師でもないのに偉そうに」「この程度の薬でいちいちうるさい」と、厄介がられることも少なくない。

「キヨが薬剤師だったら、そのおばあちゃんへの応対はもっとスムーズだったわけだ。そしたらカス客もキヨが相手できて、アンくんが土下座なんてすることにはならなかった」

 あまり同情しているようには聴こえない、けれどその実、事態を解像度高く、立体的に把握した言葉である。

「それっていうのは、要は仕組みの問題なわけだ。ああ苦い」

 天鳥は自分の作ってきたひどいコーヒーを、責任を持って啜って、端正な白い顔のあちこちに皺を寄せた。

 同じ顔になって清継は頷いた。

 自分の無力さを思うとき、清継はいつも気付くと、天鳥の右手の指先を見ている。

 今はタンブラーの、持ち手のところではなく底部を下から支えている。清継より少し背の高い彼の、はっきりと長い指。

 棋士・羽村怜士の指のようだ、と清継は思う。

 どうして唐突に、天鳥の指を、天才と称される棋士と同じように捉えてしまったのかと言えば、清継にとって天鳥も羽村も大差のない存在だからだ。

 天鳥も、非常識なぐらいに将棋が強い。ここでいう「常識」とは清継の狭隘な世界においてということであって、そこから外れるものは羽村であろうと天鳥であろうと「非常識」になる。清継には到底無理であったとしても、天鳥には、固定化したシステムそのものを撃滅するだけの力があるかに思われるのだ。

「それで、キヨ、今回は具合悪くならなかったの?」

 いつからか、天鳥は首を傾げて、無表情に清継の顔を見詰めていた。

 簡単に「イケメン」なんて言葉で大雑把に括ってはいけない。なんだかやけに澄んだ目で、二十六歳になってもまだ小学生のような表情を浮かべて見せる。頭はとてもいい男であるのに、どこか不思議なあどけなさのようなものが、常に彼にはある。

 初めて彼が清継の世界に現れた日から、……それはつまり、彼が、この星に降り立って間もない頃から今まで、少しも変わらず。

「アンくんの土下座見て、ゲロ吐いたりしなかった?」

 ちょっと、危なかった。

 言葉にしなくても、天鳥には伝わったのだろう。

「キヨにとってこの世界は、あんまりにもしんどいんだよ」

 彼は溜め息を一つ吐いて、言った。

 清継は答えなかった。知ってるよそんなん、と不貞腐れるような気持ちと同時に、でも、と反駁したい気持ちの両方が渦を巻く。それを言葉にするほどの器用さも、過激なやり方で噴出させるほどの向こう見ずな度胸も、清継にはないのだ。

 これから先、俺みたいなのはどんどんつらくなっていくんだろうな……、という確度の高い想像を巡らせながら、でも、どうしたらいいか判らない。ぱさぱさに乾いた日陰で植物が弱っていくように、物も言わず少しずつ枯れて(しお)れて行くことになる。

 例えば清継が、開けばとても美しかったり(かぐわ)しかったりする花を咲かせるものと知られているなら、誰かが優しく水をやり、日の当たるところへ植え替えてくれることもあろうけれど、自分にそれほどの価値もないことは、清継自身が一番よく知っているのだ。

「キヨにとってもアンくんにとっても、優しい世界なんて、あるのかな」

 天鳥はタンブラーの中を覗き込んで呟く。

「アンくん、一度しか会ったことないけど、俺あの子大好きだよ。ゴックちゃんだっけ、妹さんの写真を見せてくれた」

 長い睫毛(まつげ)を従えたぱっちりとした黒い瞳が印象的な女の子が、ゴックちゃん。アンくんは彼女にも、日本の大学で教育を受けさせたいと思っているらしい。そのためには、アンくん自身がこっちで仕事に就いて……、そんな未来を夢見ているという話を、清継の作ったオムライスをぺろりと平らげてアンくんは語ったのだ。「キヨさんはボクの日本のお兄さん」という言葉はその日に彼がくれたものだ。

 ボク日本来てよかったてす。日本の人、みんな優しい、キヨさんも、アトリさんも、とても優しい。日本の人礼儀正しい、頭がいい、そして、あたたかいてすね。

 そうまで言ってくれたアンくんが、日本人である清継を守るために、日本人相手に土下座をした。その光景を思い出すと、また苦いものが込み上げてきて、喉がひりつくのを覚えずにはいられない。

「どうかな、キヨ。世界には、まだ価値があるかい?」

 とても穏やかで、温もりのこもった声で、天鳥が言うのを聴いた。

「それとも、もう滅んでしまって構わないと思う?」

 見上げた高いところにある天鳥がどんな表情を浮かべているかを見ることは出来ない。そこに、よく見知った天鳥の、つくりものみたいに整った顔があるのかどうかも定かではなかった。けれど清継は久しぶりに思い出したのだ。

 天鳥が地球人ではないということを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ