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抱えた痛みの名前が「昨日」に変わった。
名前を付けて保存、「昨日の痛み.txt」に上書きをする。「昨日の痛み.txt」は「おとといの痛み.txt」に、「おとといの痛み.txt」は……。
数えきれない痛みが崖下の暗闇に散乱している。
そこから剃刀のように冷たい風が吹き上がってきた。
波の音は四方から響くけれど、見分けることは出来ない。陸へと目をやれば、小さな光らしきものをそこここに見出すことは出来るけれど、輪郭は怪しい。一つひとつに目を凝らして、悴む指先を差し出して癒そうという気持ちが、清継の中に湧いてくることはなかった。
視界に映るものは、自分の吐き出した白い息だけ。
そんな悲劇的な気持ちを確かめるために、もう一度肺を膨らませたところへ、
「コーヒー飲む?」
右後ろから、天鳥の声がした。
水筒からタンブラーに注がれるなり広がる盛大な湯気に誘われて、こっくり頷いた清継の手元へと浮遊して治ったタンブラーから一口啜ると、目が開く。
ざわめきでしかなかった波、運動会の白組の子供が、手を繋いで陸を目指して走っていくみたいに見えた。
陸のほうへと目を向けると、海沿いの道を西に向けて走る車のテールランプと赤信号を見分けることも出来た。深夜営業のファミレスの看板、コンビニ、そして、数多のマンションや家々の軒先に実る、無数の灯。
海岸線を、砂浜を、捉えることだって清継は出来たし、小田急線の最終が藤沢に向けて光の尾を記していく様子は、座席に沈むいくつもの草臥れた身体を、あるいはこの時間から働きに行く人の痛ましい憂鬱を、こんな離れたところにいるとぼけた男に思わせて、微かな温もりになる。
数えきれないほどの「昨日の痛み.txt」そして、よろこびが、陸と橋で繋がる島の崖淵から明瞭に見えた。
「うっわにっがい」
啜る音に続けて天鳥が言う。
「キヨ、よくこんなの飲めるね」
全くもって平気ではない。あまりの苦さに、目が醒めすぎて、うっかり視力も良くなってしまって、やたらな解像度で夜の底のもろもろを見分けてしまった。
「……どうやったらこんなに不味くコーヒー淹れられるんだよ、意味わかんねえ……」
毒づいた清継に、天鳥は嬉しそうに笑う声を立てる。
「ね、ほんとにまずい」
勉強、運動、仕事、そして将棋に至るまで、なんでもハイレベルにこなす天鳥の、ほとんど唯一と言ってもいい欠点、それが料理がど下手な点。
バレンタインのチョコのお返しに手製のクッキーを配って少なくとも二人の銀歯を壊したし、三人はお腹の具合が悪くなった。だから、天鳥の淹れたコーヒーの味なんて推して知るべしなのだが、まあ、身体に毒になるものが混入する確率は、他の食べ物よりは低いだろう。少なくとも物理的に何かが混入しているということはないようだった。
「何もかも完璧よりも、一個ぐらい抜けてるとこがあったほうが可愛いでしょう」
振り返ると、頬に人差し指を当ててにっこり笑って、清継の同意を待っている。
清継と同じ二十六歳の男である。なんなら清継よりも背が高い。
「……馬鹿らしい……」
清継がそう言うことを、きっと天鳥は判っていたのだ。
「同じように馬鹿にしようよ、カスハラ客のことなんてさ」
待ち構えていたように、彼は言った。
◯
清継の生きる黒く澱んだ世界の中で、一人まばゆい輝きを放つ人、それがアンくん。
グエン・ドゥク・アンくん、二十歳の留学生。
「キヨさん、補充、終わりました。前陳してきますね」
仕事熱心で、はきはきと喋る。彼の日本語には少し癖があるけれど、「流暢」という言葉で表現することに、清継は何の躊躇いもない。
清継は七つも年下のアンくんを、心から尊敬していた。真面目で、謙虚で、おおらかで、誰かの悪口を言うことはしない。そんなアンくんに「キヨさんはボクの日本お兄さんてすね」と言ってもらえたことは、この先何年噛み続けたって味の消えないガムである。
社員が休憩に入って、アンくんと二人きりだった今日の夕方、店の入り口近くでアンくんが「いらしゃいませ」と言う声を聴いたとき、清継はレジで高齢のおばあさんの応対をしているところだった。
「ご主人がお熱を、それは心配ですね……。ですが、ご主人は確か、血圧と糖尿のお薬をお飲みであったかと記憶していますが」
「そうそう、もうずっとそうなのよ」
「それですと、お手元のお薬との飲み合わせが安全かどうか、確かめてからでないと……」
既に三周目に入ったやりとり、倦むことなく丁寧な言葉を紡ぎ続けている清継の隣のレジに、アンくんが入ったとき、清継は「あっ」という声を上げそうになった。
三十代か、行っていてもせいぜい四十代ぐらいだろう。色付きのメガネに坊主頭、細くやけに鋭角的に剃り揃えた眉など、見た瞬間にある種の警戒感を抱いてしまうことが避けられないタイプの大柄な男が、のしのしとレジに近付いてくる。
その手に握った風邪薬と咳止めのシロップを放るようにサッカー台へ置いた男は、いかにも横柄な口調でこう言った。
「袋要らない、幾ら」
アンくんが、困惑したのがはっきり判った。
「すみません、このお薬ボク売ることできないので、少しお待ちください」
「急いでるんだけど」
「もうしわけありません」
「お前じゃダメなのかよ、なあグエンさん」
アンくんが救いを求めるように清継の頬に視線を当てているのが判る。老婦人は、夫の熱について四回目の説明を始めてくれたところだ。表情が切実なもので、清継としても無碍に扱うことは出来ない。かといって、これ以上アンくんのお客さんを放っておけばどうなるか……、
「おい、急いでるんだって言ってるだろ。お前が売れよ、わかんないだろ、客がいいっつってんだからいいんだよ!」
男が、大きな声を上げた。その声に初めて、老婦人が隣の存在に気付いて、「あらぁ」なんて大袈裟に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
それは謝罪という形を取った、この上なく明快な非難の表明である。
男の目が、とうとう清継に向いた。
膝が震えているのは苛立ちのせいだと言いたい、恐怖であることを、誰にも知られたくない。
「お前の名札で打ちゃいいだろ、ええ? サトウキヨツグさんよ」
厄介さとコンプライアンスとの間に板挟みになって、しかもこの状況でも動じず「でもね、これまでも風邪をひいたときは、葛根湯ぐらいだったら飲んできたのよ」と四回目のエピソードトークを続けるおばあさん。
自分と向き合う人間たちの肌の色が、黒ずんでゆく。その質感は湿っぽいものへと変わり、まるで濡れた土のように。
清継の鼻はその瞬間、ありもしない物質の有機的な臭いを捉えていた。その錯覚に喚起されたように現実として胃が萎縮し、口の中にしょっぱいようなすっぱいような液体が込み上げてくるのを覚え、一瞬言葉から逸れた。
口が言葉とは別のものを迸らせるために開かれそうになった、そのときだった。
「お客さま」
アンくんが、レジから出て、ほとんど何の躊躇いもない動きで、リノリウムの床に膝をついた。
「順番、守てください。ルール、守てください。そうでないと、お薬売れないてすね」
男がはっきりとたじろいだのがわかった。
ちょっと脅してやっただけの相手が心臓発作で死んでしまった、ぐらいの感覚だったのではないか。
心臓が止まりそうだったのは清継のほうだ。
瞬きのシャッターが降りるたび、幼少期の清継の視界には幼少期に刻まれた痛みが蘇る。
教室で泣いている女の子。
周囲の《はや》囃し立てる声、人間が同じ人間に向けるものとしてはあまりに無遠慮な、過度なサディズムに彩られた言葉言葉言葉。
過剰に楽しげな笑い声。
誰もが当たり前のように行う、攻撃。
攻撃、攻撃、攻撃。
普通の攻撃。
普通の人たちによる当たり前の攻撃。
「て……、テメェ、ふざけんなよ、なんだよこいつ、なんだよこのガイジン、なんだよ、これじゃあ」
そこまで言って男はさっと踵を返して店から駆け出して行った。顔と尻に火がつくぐらいに慌てていたからだろう、店を出たところで、ちょうど入ってきたお客さんとぶつかった。もちろん、彼は謝るなんてことはせずにどこかへ行ってしまったようである。
「なにあれ。……まあ、どうしたの」
新しいお客さんは、斜向かいの肉屋のおばさんだった。彼女が見たのは、床にちょこんと正座するアンくんである。
老婦人は相変わらず「だからね、大したことはないと思うのだけど、わたしの亡くなった母がねえ、風邪を拗らせてあっという間だったものだから……」レコードを澱みなく回し続けている。
アンくんが「なんてもないてす」と笑って立ち上がって、
「いらっしゃいませ」
と丁寧にお辞儀をした。
アンくんにどんな謝罪の言葉を向けたらいいのか、清継はわからなかった。ごめんね、ありがとう、そんな言葉でカバーできないものを持て余す清継に、アンくんは茶目っ気たっぷりに笑ってこう言った。
「日本の人、あれするとたいたい許してくれますね、チョロいてすね」




