第7話 解
お読みいただきありがとうございます。
黒瀬川が一歩踏み出す話になります。
修学旅行楽しんでくれ。
黒板の隅には、チョークで太々しく「修学旅行 班決め(本日最終)」の文字。
本日最終て。セールでもやってんのか。
チャイムの余韻に重なるように、どこかそわそわした笑い声が教室のあちこちで弾けている。
今日で決まる。
逃げ場はない。
――分かってる。
窓際に頬杖をついたまま、俺は斜め後ろの席を盗み見た。
神崎は、背筋を伸ばし、付箋が整列したノートをひらく。
ただ、ページの端をなぞる親指が、いつもよりわずかに落ち着きない気がした。
*
「黒瀬川君、シャーペンの芯、借りてもいいかな?」
「0.5なら」
「ありがと」
「英語の小テスト、範囲ってここで合ってる?」
分かりきってるだろうところを指さして、首だけ傾げる。
「そこ」
「そっか。……確認、したかっただけ」
「プリント配るの、手伝ってくれる?」
「先生に頼まれたのか」
「んー、まあ、ね」
「修学旅行の自由行動、どこ行きたい?」
「俺?人が少ないとこ」
「そうじゃなくて!…もういいもん」
「なんなんだ…」
「購買、行く?」
「コンビニで買ってきた」
「……そっか」
半歩だけ近づいて、けれどすぐ、踵を返す。
髪が肩でほどけて、光る。追い風みたいに、短い匂いが過ぎた。
――わかってる。気づいてる。
彼女からの合図は、笑ってみせるほど軽くも、冗談にできるほど薄くもない。
でも、まだ踏み出せない。
足首に見えない重りが付いているみたいで。
まだ、言葉にできる自信がなかったから。
*
昼前の最後の休み時間。
教卓の前に、用紙の束が置かれた。
「黒瀬川」
背後から、肩を軽く小突かれる。
太刀川だ。
「昼、渡り廊下。3分だけ」
「面接かよ」
「説教じゃない。雑談」
そう言って、ひとつウィンク。
チッ。相変わらず様になっててムカつく。
渡り廊下は風がよく通る。
校庭の砂の匂い、春の埃っぽさ。
太刀川は手すりに背中を預け、靴のつま先で白線をつつく。
「締切の日ってさ、結局“いつ決めるか”だけなんだよ」
「語りだしたな」
「長くしない。……今日、お前が口を開くタイミングは3回ある。昼休み、HR直前、HRの終盤」
「予言者?」
「違う。ただの経験則。で――動くなら、終盤か直前。昼は弱い」
「なんで」
「昼は、みんなまだ余裕があるふりができるから」
太刀川は目だけで笑う。
「ビビってる顔、似合わないぞ」
「似合う顔なんて持ってない」
「持ってる。さっきの“気づかないふり”の顔とか」
「見てんじゃねえよ」
「見えてるんだよ」
風が、額の前髪を持ち上げた。
太刀川は、話を切り上げるのも早い。
「んじゃ、またあとで。……合図、要る?」
「いらない。分かってる」
「よし」
背中を見送って、深呼吸。
――空欄に入れる答えは分かってる。あとは、埋めるだけだ。
*
午後のチャイムが鳴って、教室に担任が入ってくる。
「はいはい、班決め終わらせるぞー。書けた班から、この用紙に記入して俺んとこ持ってこい」
紙束が流れ始める。
決定済みの島はあっという間に記入し、「よろしく」の声とハイタッチ。
決まってない島は、無言で視線だけが行き交う。
神崎は、篠宮・桐谷と並んで座っていた。
残り2人をどうするか話し合っているようだ。
ただ、ときどき、視線がこちらに滑ってきて――すぐ、逸れる。
1回、2回、3回。
回数が増えるほどに心臓の音が早まっていくのを感じる。
「じゃあ、そろそろまとめるぞー。班、決まってないとこ、挙手」
担任の声。数本の手が上がる。
ほとんどは「あと1人足りない」か「6人で溢れてる」。
余りと溢れ。欠けと過剰。
バランスはいつも、誰かの上に成り立つ。
前の列で、男子のグループが神崎の方へ身を乗り出した。
「神崎さん、うち4人なんだ。もし良かったら――」
一拍遅れて、後ろの女子の島からも声。
「真白、一緒に行こ? あと1人空いてるの」
神崎は困ったように笑って、ほんの短い時間だけ、俺の方を見た。
問いかけるような、確認するような、ほんの一瞬の合図。
4回目。
(いま行って、もし断られたら)
その弱気が、喉を指で塞いだみたいに重い。
「黒瀬川」
小さく、けどはっきり、太刀川の声。
視線を向けると、あいつは何も言わず、ただ顎で前を示した。
合図はいらない、と言ったのは俺だ。
――行け。
自分の中の声が、初めて命令形になった。
乾いた椅子の音が1つ、教室に響いた。
ざわ、と何人かがこちらを見る。
「神崎」
口の中が熱くて、喉だけ冷たい。
でも、言葉は出た。
「……俺たちと、組んでくれないか」
空気が、一瞬だけ止まった。
神崎は、ぱちんと瞬きをして――
瞬き一回ぶんの沈黙が、永遠に伸びる。
ほっぺに空気を溜めるみたいに、唇をきゅっと尖らせる。
「……おそい」
ぷいっと横を向き、小さく靴先で床の線をなぞる。
線はすぐに消えるのに、その仕草は目に残る。
教室の後ろで、誰かが「え、なに?」とか「マジ?」とか、適当な感嘆を漏らす。
ダメか。
心臓が、短く跳ねたあと、落ちていく感覚。
「……やっぱ、なし、だよな。悪い。忘れてくれ」
逃げ道の文言は、いくらでも用意してあった。
最速で口が選ぶ。
クソ、らしくもないことするんじゃなかった。
まあそりゃそうだ。身分不相応にもほどがある。
いい夢見れたかって感じだよな。
マジでみっともなーーーーーーーーー
言い切る前に、袖口がつままれた。
「そんなこと、言ってないじゃん」
「……え?」
神崎が、正面を向き直る。
瞳の揺れが消えて、まっすぐ。
「――ずっと待ってたのに」
肺に空気が入る感覚を、久しぶりに思い出した。
落ちていた心臓が、定位置に戻る。
「……心臓に悪い」
「それはこっちの台詞かも。もっと早く誘ってくれれば、こんなにそわそわしなくて済んだのに」
頬をふくらませたまま、でも目は笑っていて。
教室のざわつきが、別の色に変わる。
篠宮がぱちぱちと目を瞬き、桐谷がかすかに微笑んだ。
太刀川は親指を立て、担任は「はいはい了解」と用紙にペンを走らせる。
「じゃ、5人書け。班長は?」
「悠真でいい?」と篠宮。
「うん、適任」と桐谷。
「まあ俺でいっか」と太刀川。
「異議なし」と俺。
「賛成!」と神崎。
黒板の前で、担任が最終確認の印を押す。
黒瀬川律、神崎真白、太刀川悠真、篠宮佳奈、桐谷澪――5つの名前が、同じ枠に収まった。
たったこれだけなのに、胸の奥で絡まっていた結び目が、すっと解ける音がした。
音は幻聴でも、確かに聴こえた。
*
HRが終わると、教室の熱が一段落する。
クラスの班決めが滞っていたのは、神崎を狙っていた班が多かったのも一因だった。
それがもう叶わないとわかり、今までの決まらなさはどこへやら、簡単なパズルのように嵌まっていった。人気者ってやつは…。
人の流れは、1つの石で簡単に変わるのだ。
良くも悪くも。
俺たち5人は、黒板の前で立ち止まり、顔を合わせた。
「改めて、よろしく」
桐谷が最初に頭を下げる。丁寧で、簡潔。
「よろしく〜。ね、LINEグル作る?私やるよ」
篠宮がスマホを取り出し、親指を忙しく動かす。
「助かる」
太刀川がふっと笑って、俺の肩を軽く叩く。
「おつかれさん」
「ねぎらうようなもんでもないだろ」
「言いたい気分なんだよ」
「なんだそりゃ」
叩いてくる手をぺっと振り払う。
神崎は少し距離を置いて、俺たちのやりとりを眺めていた。
太刀川たちと別れ、自分の席のカバンを回収する。
ああは言ったが、マジで疲れたな……。
日の傾いた窓の外に目をやる。
中学以来、全部受け身で動く癖が染みついて離れない。
世の中は積極的に動く人間に優しくできてはいない。
だから常に斜に構えるようになった。
受け身でいれば傷つくことはないから。
そうしているうちに、このままじゃいけないとわかっているのに、いつしか身体が言うことを聞かなくなっていった。
でも今日。
自分から踏み出して見えた景色は、いつか見て、いつか忘れていた景色と重なって見えて。
これもらしくないかも、と流れてく思考を現実に引き戻すと、神崎もカバンを背負ったところだった。
目が合うと、すぐに近づいてきて、俺の袖をちょん、と引く。
「…ね、一緒に帰らない?」
「……ああ」
*
夕方の校門。
坂の上は風が強くて、街の匂いと海の気配が混ざる。
部活の掛け声を背中に聞きながら、俺と神崎は並んで歩き出した。
足音が2つ、アスファルトに交互に落ちる。
「ねえ」
神崎が、斜め前にまわり込んでくる。
目線の高さを揃えるための、自然な回り込み。
少しだけ俺の歩幅に合わせて、小走り。
紐の先がぴょんと揺れる。
「今日の午前、いっぱい話しかけたの、気づいてた?」
「まあ」
「“まあ”って言い方、ずるい」
むっとした顔。頬がほんの少しだけ膨らむ。
「気づいてたのに、知らないふりするの、本当にずるい」
「……ごめん」
素直に謝ると、彼女は髪を耳にかけ直し、溜息をひとつ。
溜息に混ざるのは、責める成分より、安堵の成分の方が多い。
「ずるいけど、わたしも、ずるかった」
「ずるい?」
「怒ってるふりして、実は――頼りたかったのに。……ねえ、あのときのこと」
非常階段の午後が、胸の奥で痛む。
言葉にしにくい記憶ほど、匂いと一緒にやってくる。
何も言えず無言でいる俺に、神崎は優しい声音で続ける。
「私さ、黒瀬川君が自分のこと悪く言うの、やっぱり嫌だよ。……でも、助かったのも本当」
言いながら、視線をつま先に落とす。
靴の先で、白線をそっとなぞって、また戻って。
線はすぐ消えるのに、その動作だけが残像になる。
「だから、今日、嬉しかった。ちゃんと、選んでくれて」
「選んだ、というより……」
「言い訳禁止」
ピタッと立ち止まって、リボンを押さえる。
「“選んだ”って言って。わたしは、そう受け取りたいの」
「……分かった。選んだ。俺は、俺の班に、お前が必要だと思った」
声に出すと、足元の影が少しだけ長くなった気がした。
神崎は、満足そうに目尻を下げる。
「よろしい」
坂を上がると軽く息が切れているのに気づく。
今日やたらと疲れたしな…。
俺は立ち止まり、財布から小銭を探る。
「なんか飲むか?」
「ん~。じゃあ、ミルクティー」
「はいよ」
ボタンを押すと、缶がガコンと落ちる音。
「あ、お金…」
「いいよこんくらい」
「え?でも」
「じゃあ迷惑料ってことで」
「もぉ、捻くれてるなぁ。ありがと」
くすくすと笑い、彼女は缶の縁に指を置いた。
「こうすると、手があったかいんだよ」
「初めて知った」
「嘘。知ってた顔してる」
「どんな顔だよ」
「今日、全部そういう顔」
言い切ってから、彼女は照れくさそうに目を細めた。
缶を口に運ぶ前の、短い間。
俺も缶コーヒーを開ける。苦味が舌を叩く。
「自由行動、どこ行きたい?」
さっきと同じ問いなのに、もう別の意味になっている。
俺は、空へ延びた電線を目でたどりながら、答える。
「人が少ないところ」
「やっぱりそれなんだ」
「甘味処も、寺も嫌いじゃないけど。……混むだろ」
「じゃあ、朝早く出ようよ。開店前から並ぶとか」
「開店前に“並ぶ”は混んでるって言う」
「じゃあ、穴場探そ。太刀川君と篠宮さんと澪にも聞いて、みんなの行きたいとこ、うまく回れるように」
「お前、こういう段取り、楽しそうだな」
「うん。好き」
迷いがない。その言い方が、少し眩しかった。
俺には、できないやり方だ。だからこそ、見ていたいと思った。
「……ありがとう」
風の音に紛れるくらいの声で、俺は言う。
神崎が首を傾げる。
「何が?」
「班…組んでくれて」
「こちらこそだよ」
即答。
そして、ほんの少しだけ唇を尖らせる。
「もっと早く言ってくれたら、今日1日、そわそわしなくて済んだのに」
「それな。俺の胃にも優しくなかった。誰だこんなチンタラしてたのは」
「がっつりキミでしょ!……じゃあ、引き分け」
「勝敗つけるゲームじゃないだろ、これ」
「つけないと、次に進めないときもあるよ」
彼女の言葉は、軽く聞こえて、底は重い。
自分のやり方を、彼女は彼女で何度も選び直してきたのだろう。
坂の途中、風が少し強くなって、前髪が揺れる。
神崎はそれを耳にかけ直して、こちらを見た。
「……改めて、これからよろしくね」
言葉の切り方も、目の色も、まっすぐだった。
俺は一拍置いてから、缶を持っていない方の手で、鞄のベルトを握る。
「……まあ、よろしく」
2人して、同時に少し笑う。
坂を下り切るまでの道が、さっきより短く感じた。
信号が青に変わる。
交差点を渡る前、神崎が振り返らずに言う。
「ね。回るところ、ちゃんと皆で決めようね」
「スポット多すぎるし全員満足させるの難しそうだよな」
「センス、見せどころだよ」
「……太刀川に丸投げでいいか」
「だめ。5人で決めるの」
「5人で」
声に出してみると、その言葉が意外なほど、胸にちゃんと収まった。
夕方の街は、少しずつ夜に寄っていく。
缶の温度は指先から抜けていくのに、胸の奥の方は、少しだけ温かかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます!第7話でした。
第一部(?)班決め終了です。
次回からは日常回をいくつか挟んで、修学旅行編に突入です!
今後も基本は「火曜・土曜の20時」更新でいきます。
ブクマ、評価、感想、本当に励みになってます!
完結させるまで絶対逃げないのでこれからもこの2人をよろしくお願いいたします!