第5話 静かな距離
第5話です。
読んでくださってありがとうございます。
修学旅行って、いろいろあるよね…。というお話です。
月曜の朝の教室にはムラがある。
友人たちと休日の出来事について語り合うやつ、机に突っ伏して呻いてるやつ、土日の番組や配信を延々と語るやつ、提出物を今さら隣で写させてもらってるやつ。
俺? 机に突っ伏して呻いてるやつですけどなにか?
風景。いつもの雑音。俺もその「いつも」に紛れ込めばいいだけだ――のはずだった。
ちら、と横目。
隣の席の神崎真白は、教科書の端に付箋を整然と並べ、さらさらとノートを埋めていた。姿勢はまっすぐ、筆圧は一定、ページの縁を親指でなぞる癖も相変わらず。完璧な優等生の仮面。誰が見ても「いつもの神崎」。
ただ、俺が視線を向けた瞬間、彼女の睫毛がかすかに震え、瞳が細く揺れて、すぐ逸れた。
先週、教室で俺が噂を消した、あの一件から、彼女との間に会話らしい会話はない。
彼女は俺を咎め、俺は反論できず、空気だけが固まった。
正直、胸の奥は冷たいままだ。
でも――俺には他のやり方が思いつかなかった。だから、仕方がない。
「はーい、席つけー」
担任が入って、チョークが黒板を走る。白い粉が光って舞い、太い文字が現れた。
『修学旅行 班決めについて』
教室の温度が一瞬で上がる。
「キター! 京都!」「六月だっけ?」「楽しみすぎる!」「神崎さんと同じ班がいいな〜」
声が飛び交う。担任は淡々としたテンションで続ける。
「六月頭に京都。例年どおり五人一組。男女混合でも可、同性のみでも可。適当に決めろ。行動計画の提出は金曜まで。班が決まってから決めなきゃいけないこと山ほどあるから、早めに動け」
言うことはこれだけ、とばかりに自席で書類を整理し始めた。いや興味なさすぎだろ。
それを皮切りに教室は喧騒に包まれた。
自然と島ができていく。机が寄り、椅子がずれる。声が重なって笑いがはじける。
班決めってのは、いわば人間関係の通信簿だ。
どれだけ友人が多いか、うまくやれるか。「こいつとならまあ同じ班でもいいか」と思ってもらえているか。お互いに採点しあって、比較し、妥協点を探していくのがこのクソイベなのである。
くじ引きにしろやクソが。……いや、ドラフト制で最後「いるいらない」されるよりはマシか。
しかもこの通信簿はタチが悪いことに、赤点が誰に出るか、みんな心のどこかで分かっている。
自他ともに認める赤点野郎こと俺は、席に座ったまま教科書の角を親指で弾いた。
ここから想像できる未来図は単純だ。
最後の一人が決まらない四人班、余った俺。
最後に「じゃ、黒瀬川で埋めよっか」。はい合理的。点呼の穴埋め用としての最適解すぎる。
おいおい、当日欠席しちゃうよん。
ちら、とまた横目。
真白は女子に囲まれていた。「ここさ、三日目の時間的に無理じゃない?」「夜の自由時間、班でまとまりたいよね」みたいな、進行役の声。
笑顔はいつもどおり。あの笑顔の裏に、金曜の非常階段で見た“震え”がまだ隠れているのか、いないのか――もはや俺には分かるわけがなくて。
視線が一瞬、ぶつかった気がした。けど、彼女はすぐに付箋に目を落とし、会話に戻る。
俺も、意味もなくノートの罫線に視線を落とす。
結局HRでは決まり切らず、「金曜までに決めとけよー」という担任の締めでいったんクソゲーは終わった。さっさとアンインしてぇ。
そんなことがあってか、午前の授業は、いつもより長い。
真面目に聞いているはずなのに、内容は目も耳も素通りし滑っていく。
結局理解するのを諦め、机に突っ伏すことにした。
隣から視線を感じた気もしたけれど、ここでも俺は、気付かないふりをした。
◇
チャイムの音で目が覚める。
購買の列は今日も戦場。
俺は適当にチーズパンとソーセージパンを掴み、釣り銭の硬貨を指に挟んで廊下に出た。
裏庭のベンチはなんとなく避けたくて、渡り廊下の踊り場に向かう。
窓が大きくて、風が抜ける。
踊り場の壁にもたれてパンを開けようとしたときだ。
「よ。黒瀬川」
声にふり返ると、明るい茶髪の“いかにも陽キャ”なビジュアルの男が立っていた。
太刀川悠真。
スポーツ万能、成績上位、顔面偏差値も校内上位。欠点という欠点がなく、あれもこれも完璧にこなす。真白と並んで違和感がない、“完成形”の方角に立ってるやつ。もちろんクラスでも中心にいる。
俺とは違う人種だ。
……近くで見るとマジで整ってて腹立つな。
「……なんだよ」
「いや、班決め。どうしよっかなーと思ってさ」
「知らんがな。人気者は人気者同士でわちゃわちゃしてろよ」
「わちゃわちゃて。……黒瀬川はどうするつもりなんだ?」
嫌味か? こいつ……。
ついイラっとして図らず低い声が出る。
「は。決まってんだろ。余りものコース」
太刀川はふっと笑った。
からかう笑いじゃなく、「答え合わせが合ってた」時の笑いに近い。
「やっぱそう言うと思った。面白いなお前」
そう言って太刀川は俺の横に移動してくる。
何コイツ。俺は何も面白くないんですけど。
「パンならやらんぞ。図々しいなお前」
「パンじゃなくて、時間くれ。ちょっとだけ」
何を言ってるのか一拍遅れて理解し、面倒くさくなって肩をすくめる。
悠真は手すりに背中を当て、俺の買ったパンの袋を指でトントン叩く。
「5人1組だろ。4人固定のとこ、けっこう詰んでる。女子も男子も。余りが出る。お前は“余り”に自分を置いとくつもりだろうけど……それ、案外“置いておけない”かもよ」
「は?」
「担任が言ってた。『来週中に決めろ。決まらないなら俺が決める』って。去年担任だったんだけどあの人、決めるときは容赦ない」
「最悪じゃねえか」
「最悪を避けるには、選ぶ側に回ること。選ばれる側は、たいてい不利だよ」
太刀川の横顔が、窓の光で輪郭だけ照らされる。
こいつは多分、嫌味で言ってるわけじゃない。俺を動かしたい、のでもない。ただ、事実だけを言葉にして俺の前に置いた。
「……で? お前は誰と組むんだよ」
「俺を含めて4人のグループがある。俺がそこに入ると、誰か引っ張ってくることになってそいつが浮く。だから俺、そこから離れるつもり。【3対2】の5人組にしてやれば、誰にとっても面倒が一番小さくなる」
なるほどな。まあ確かによくある話だ。
最悪全員が仲良くならずとも、1人になるやつを作らなければ、その班は端から見れば「うまく回っている」と映るだろう。
「合理的だな。ただお前が抜けたら抜けたでそいつらが困るだろ」
「困らないように、先に話しとく。そういうの、好きなんだよ」
「見上げたボランティア精神だな。聖人でも目指してんのか?」
「黒瀬川も、たいてい性格いいだろ」
「は?」
何言ってんだコイツ? 俺がなんだって?
心の声が顔に出ていたか、太刀川はケラケラと笑う。
「自分を雑に扱って、他人を守ろうとしたやつ、俺あんま見たことない」
先週の非常階段。彼は、どこまで知っているのか。もちろん見てはいないだろう。
なのに、言い当てられたみたいで、心臓が一瞬、足を踏み外した。
それをなぜだか悟られたくなくて、沈黙で答えると太刀川は肩を竦める。
「ま、勝手に思ってるだけ」
「褒められてる気がしねえ」
「褒めてないからな」
からり、と笑って、太刀川は踊り場の階段を2段飛ばしで上に上がった。
「じゃ、また。来週までに“選べよ”。誰とでもいい。自分のことを」
残された俺は、パンの封を開けずに、しばらく手の中で温度を移した。
◇
黒板の板書を写しながら、視界の端で神崎の横顔が何度も映る。
彼女は仮面をずらさない。
俺も、何も言わない。
距離は保たれて、呼吸だけが静かに擦れる。
チャイムが鳴って、椅子の脚が一斉に床をこする音。鞄に教科書を無造作に詰め、最後に筆箱を迷ってから入れる。
下駄箱へ向かう廊下、壁の掲示板に「修学旅行のしおり:初版」と打ったプリントが貼られていた。
自由行動の欄に、空白の四角が並んでいる。「班名」「メンバー」「行程」。
せいぜい5センチ程度であろう空白は、やたらと大きく感じられた。
靴を履き替えようとして、手が止まる。
視界の端で、女子2人が話す声が聞こえた。
篠宮佳奈――クラスのムードメーカーのひとり。笑い声が軽い。
もう1人は桐谷澪。落ち着いた声で相づちを打つタイプの、しっかり者。2人とも、真白とよく話しているのを見る。
「ねえ、澪。班、どうする? 真白ちゃんと一緒がいいけど、人数が微妙なんだよね」
「悠真くんのグループも4人で固定っぽいし、そこに入るのもなー。皆どう調整するんだろ」
「うーん……」
俺は靴べらを持ったまま、顔を上げてしまう。
2人の視線が偶然こっちへ滑り、軽く会釈が飛んできたので反射的に会釈を返す。ごめんね、びっくりさせてしまって。
昇降口を出ると、夕方の風が制服の襟に入り込んだ。
灰色の雲が薄く重なって、坂の上の空は低い。グラウンドからは運動部の掛け声。ボールが跳ねる音。シュートがネットを叩く乾いた音。
胸の奥で、嫌な記憶が薄く起き上がりかけるので、すぐに歩き出す。
(……修学旅行、か)
5人。
神崎、太刀川、篠宮、桐谷。そこまで浮かべて、最後の1つの枠を、俺は空白のままにした。
空白は、苦手だ。埋めたくなる。
けど、何で埋めるのか分からない時、手は止まる。
そして止まった手の先で、時間だけが進んでいく。
ポケットの中でスマホが震えた。クラスの連絡網。担任の一斉送信。
『班決めは金曜提出。未決定の場合はこちらで調整します』
――調整。
つまり、さっき太刀川が言ったように、仮面も、素も、皮肉も、それぞれの思惑も、言い訳も関係ない。その上から全部貼りかえるということだ。
俺は深く息を吐き、坂を下り始めた。
コンクリートの小さな段差に引っかかり、体がぐらりと傾く。反射的に踵でバランスを取り、何事もなかったふりで歩く。
もし今、隣に彼女がいたら、反射より早く、手が出たんだろうか。
そんな仮定に意味はないけれど。
ポケットの中で、もう一度スマホが震えるのを、なんとなく期待してしまう自分が嫌だ。通知は来ない。風だけが、前に進めと背中を押す。
(選べ、ね)
太刀川の言葉が、夕焼けより長く余韻を引いた。
自分のことを選ぶ、か。――俺の人生で、一番下手なやつ。
交差点の信号が青に変わる。
人の群れが歩き始めても、俺だけは、動けなかった。
読んでいただきありがとうございます!
ブックマークいただいている方、本当にうれしいです!ありがとうございます!
ここから新キャラも出していって、物語も加速させていけたらと思ってます。
次回は9月23日(火)20時投稿予定です!